神戸の小学校で20代の「人気者」の先生が、先輩の先生たちにいじめられ、学校へ行けなくなった。校長は「初めは可愛がるつもりのようだった」と話していた。子どもの「いじめ」の中にも、悪ふざけのつもりのものが多い。権力の強い側は、相手が嫌がったり、忍従することが楽しくなっていくのだ。
学校でも、そうでない職場でも、先輩からからかわれたりすると、「止めてください」と懇願するが、いじめる側が人数が多いと次第にエスカレートしてしまう。「可哀そうだから止めよう」と言い出せば、今度は自分がいじめられる気がしてしまうから、誰もが言い出せない。
強い立場にある人は、弱い立場の人の気持ちが分からなくなる。どんなに学歴があり教養がある人でも、一度いじめてしまうと、相手より優位に立てば立つほど、ますます暴力が拡大してしまう。親が子どもを虐待していく過程も同じだと思う。学校という職場は狭いから、いじめのウワサは別室にいる校長以外は皆知っていただろう。
それでも、誰も止めなかったのは、いじめの中心人物が怖かったからだ。人間の組織は縦社会である。リーダーがいてその配下の者がいる。下の者が上の者に逆らえるとしたら、上の者のさらに上からの指示しかない。いじめていた先生たちはベテランで、学校の中枢を担っていた。しかも子どもたちには「優しい」先生であった。
私が担任をしていた生徒を、主任の先生が「進級させない」と言われた。絵はうまくないし、作品は平凡であるが、課題を出さなかったことはないし、授業態度が悪い訳でもない。「生徒会のことばかりに熱心だ」と主任は言う。「そんなことは理由にならないでしょう。私は担任として納得できません」と初めて主任に逆らった。翌年、他校へ転勤になった。