月曜日は放課後子ども教室の担当だが、今日は市が主催する市民講座『大人の国語・算数・理科・社会』の第1日目の「国語」を受講した後、急いで小学校へ駆けつけた。「人生の学び直し」とあるように、受講生はほとんどが高齢者だ。だからだろうが、司会者の声が小さかったので、「もっと大きな声で」と要望が出たくらいだ。
「国語」のタイトルは、「言葉を読み解く」とあり、サブタイトルに「本を読み終えた先には何がある」とあったので、興味深いテーマだと期待した。率直に言って、講師が若すぎたと思う。講師の中では一番若く、30代ではないだろうか。哲学を専攻する先生で、フランスの現代思想を研究していると話す。
受講生は本好きではあるが、難解な文章を好んで読むような傾向には無いと思う。ところが講師は、「本に1冊という単位はない」と哲学的に話し始めた。「本は1冊で終わっているが、次々と連動している」というのである。小説は1冊で終わっているけれども、筆者は常にテーマを掘り下げていこうと書いている。評論ならなおさらであろう。
「本を読むことはナゾ解きである」と話す。私もそう思う。筆者が何を伝えたいか、探りながら読んでいる。だから講師と同じように、本の空いたところにメモ書きしたり、付箋を貼ったり、言葉を調べて書き込んだりしている。「本を読むのは、受け身なのか」と講師は問うが、読みながら想像したり考えたりしているから受動ではなく能動であろう。それを創造と言ってもいいと思う。
せっかくの講座だったが、多くの人が眠っていた。高齢者にとってはどれもこれも当然のことで、目新しいことはない。受講生の気持ちを察することが出来ないのは若さのためだろう。講師のパソコンを使っての、本の読み方や論文の書き方に、さすがに若い人は違うと思った。「何が言いたかったのかねえ?」と、高齢者は呟きながら教室を出ていった。