友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

新しい発見もあったよ

2012年07月10日 21時30分30秒 | Weblog

 私は高校の教師になって、担任となったのは5回だが、クラス会を行なっている学年は少ない。まだまだ現役で、それどころではないのかも知れない。不思議なのは、私が新任の時の3年生で、私は担任ではないし、授業も休まれた先生の代わりに行く程度だった。そんなわずか1年の付き合いでしかなかったのに、仲間のように誘ってくれる。初めて担任となったのは翌年で、私が23歳の時の高校1年のクラスだった。卒業するまでの3年間、毎日会っていたわけだから、結びつきは濃いものがある。中には私が新任の時に入学したけれど、再び1年からやり直した子もいたから、そのつながりはいっそう深い。

 今朝、7月7日の七夕にクラス会を開いた、私が初めて担任となったクラスの女の子(とはいえもう彼女も今年は還暦を迎えるのだが)から、“抗議”のメールが届いた。「先生はどう感じてくださったのか、ブログで拝見したかった。が、スルーされちゃって超がっかり‥‥もう私たちは先生には興味の無い存在になっちゃった?」。この言い方も相変わらずだなと懐かしく思う。高校生の時の彼らは、大人ぶって見せていたけれど、それでもやっぱり高校生だったのに、今は同じ60代のジジババである。そう思うけれど、年齢差はまだ歴然としている。案内のハガキに「お互い、いい人生を歩んで来たと思います」とあったが、みんなそういう顔をしていた。

 メールをくれた子は、高校時代はロングスカートで、何も入らないペシャンコのカバンで、とても理屈っぽいところがあった。女の子が少ない学校だったから、余計に目に付く存在だったと思う。正義感が強い点では、教師になった女の子と同じで、教師になった子が理論立てて話し、一見不良そうに見える彼女が同調することが多かったように思う。大人ぽかったふたりに対して子どもぽかった女の子も何人かいたが、ひとりは難病を患いながらも出席していた。苦労が険しい顔付きに表われていて、何とかしてあげたいといつも思う。

 同級生で結婚したふたりは、今回も出席してくれた。彼女は男子生徒が憧れていた。明るくて可愛いくて、目のクリクリとした女の子だった。成績はいいのだが絵が下手で心配だった。それが、同じように入学した時は成績がよかったのに、いつの間にか低空飛行で、学校をバカにしたところのある男子と結婚した。「東京芸大や県芸大が、インターシップでお願いしますとオレに頼むんだよ」と言うように、彼は何人もの人を使う側にいる。会社経営での苦労は分かるし、そんな夫の気持ちも分かるから、彼女もまた背負い込んでいるものが大きいのだと思った。ふたりが結婚した詳しいいきさつは知らないが、お互いに乗り越えてきたものが大きくあったのだろう。そんなことも初めて感じたクラス会だった。

 私が授業料を立て替え、毎朝、迎えに行っていた子、遠足で私のカメラを失ってしまったが、「出世払いで返すから安心して」と大見得を切った子、大学へ進み学生運動にはまり、生協に勤めていると聞いた子、いろんな子どもたちがいたけれど、元気でやっているのならそれで十分だ。今度のクラス会に、また多くのクラスメイトが集まってくれることを願う。

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NHK大河ドラマ『平清盛』

2012年07月09日 21時07分07秒 | Weblog

 昨夜は3歳になった孫の誕生日会のため、NHK大河ドラマ『平清盛』を観ることが出来なかった。このドラマの評判はよくないようだけれど、私は面白いと思って観ている。清盛が港を造った福原が兵庫県にあるためなのか、兵庫県知事が「画面がきたない」(?)というようなことを言ったと以前、新聞に書かれていた。画面がザラったとして埃っぽい感じになっているために、そんなことが言われているのだろう。江戸時代ではない、もっと古い時代を表したくて、わざわざそのような仕上げにしてあるのだろうが、それを目障りだと思う人はいるだろうけれど、私は気に入っている。

 私が気になるのは、清盛役の松山ケンイチさんのしゃべり方だ。中井貴一さんが扮した父親がいた頃、まだ身分も不安定な未成年であったから、怒鳴り上げるようなしゃべり方でもよかったけれど、今の清盛は平家の頭領で、しかも貴族に順ずる地位に上り詰めているのに、しゃべり方が一向に変わっていないのはおかしい気がする。風格というか、堂々としたところがないのが気になる。松山ケンイチさんを始めて見た映画は全共闘カブレの運動家の役だったけれど、なかなか個性派の俳優がいるのだと思った。インチキ革命家気取りの役は適していたが、清盛は貴族に使われていた身分の武士を支配者の側に押し上げた人物。今のところ、まだオーラが出ていない。

 玉木宏さんが扮する源義朝との決戦はこれからだから、徐々にということなのかも知れない。歴史の中で天皇がどんなに権力争いに利用されたかがよく分かるし、皇室が天皇の座を巡って醜い争いを繰り返してきたことも分かる。NHKは民主党が政権の座に着いたことと、清盛が貴族政治を壊して武士が権力を握ることと、どこかでダブらせているようだ。清盛はさかんに、「新しい世を造る」と言う。昨年の大河ドラマ『坂本竜馬』でも、「新しい世を造る」と坂本たちに言わせていたが、時代の変わり目にあることを国民に意識させたがっているのだろうか。

 『平清盛』では、信西が後白河上皇を押し立てて、それまでの権力者である藤原摂関家をつぶしてしまう。信西は元は下級貴族で、中国の学問に秀でていたので、後白河上皇に取り入れられた。信西の目指す政治は中国の仕組みで、身分に関係なく優秀な者が活躍できる場を設けようとするものだった。これではそれまでの貴族らが不満を持つのは当然で、信西排斥の動きが出てくる。清盛は信西に組するが、義朝が従う藤原摂関家の巻き返しによって信西は殺されてしまう。

 時代は常に、「新しい世」を求めているのかも知れない。「新しい」つもりであったものが、権力者が入れ替わっただけの「古い」ものであることはよくあることだ。『平清盛』を観ていると、今日の政治とよく似ていると思い、そんなことを考えながら観ているといっそう面白い。小沢一郎さんやそのグループ、自民党や公明党、そして権力の座にある民主党の執行部が、それぞれどのようにして生き残りを図ろうとするのか、ドラマと現実、どっちも面白くなって来た。

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次女と長女

2012年07月07日 15時36分51秒 | Weblog

 昨夜から次女が帰り、にぎやかになった。小・中学校の友だちと久し振りに会うためらしいが、その間、ダンナは一人暮らしで大丈夫かと心配になる。次女の過剰なまでの世話から解放されて、のんびりと「鬼のいない間」を満喫しているのかも知れない。それならそれでいいと思う。人はたまには日常とは違う世界に居たいものだ。旅行はその典型で、「据え膳で食べられるのがいい」と女性たちは言う。「出来れば、ダンナがいなければもっと楽しい。旅行に来てまで世話をするのはイヤ」とまで言う。

 「家族は好き。愛している。それでも消えてしまいたい時がある」とも言う。みんな一生懸命に生き、相手のことを思いやり、尽くしているけれど、時には自分ひとりだけの勝手気ままな空間と時間が欲しいものだ。誰もが真剣に生きているし、誰もがアイツを落とし入れてやろうなど考えているわけではない。しかし、たまたま病気になる人もいれば、事故に遭う人もいる。不幸な出逢いもあるが、逆に幸せな出逢いもある。人の一生なんて正直に何が良くて何が悪いのか、分からない。

 新生児集中治療室で働いている長女が、その専門の雑誌に「子どもと家族の未来を大切にしたい。(略)感情ではなくエビデンス(根拠。医療行為における確率的な指針のことを指すのだろうと私の解釈)に基づいたケアを実施できるように」と書いていた。彼女は「看護の道」を天職と言えるようになった。自分の仕事をそう言い切れる人はそんなに多くいないだろう。良い仕事にめぐり合ったのか、たどり着いたのか、あるいは長女自身の努力がもたらしたものなのか、結果的にはそんなことよりも「現在」が大事なのだろう。未来は現在の中にあるのだから。

 雑誌には長女の座右の銘として、「遅すぎることは何もない。いつでも、何歳でもチャレンジできる」とあった。私は、人生は一度切りだけれど、現在が全てではない。チャレンジできる仕組みが大事と言ってきた。挫折や失意は必ずやってくる。打ち負かされてもいいじゃーないか。そのうちにまた、やりたいことや、やらなくてはならないことが、必ず生まれてくる。すると次女が、「そんなこと言われたかなあー」と言う。次女にとっては「遅すぎることは何もない」という実感がないのだろう。自分が関心のないことは忘れてしまうものだ。

 今日の『悩みのるつぼ』に、90代の女性が「あの世で父を殴りたいです」とあった。修学旅行の記念写真に写った豆粒ほどの彼女の顔を見て、「鼻の低いのが分からなくてよかったね」と言ったことや、離婚したいと帰宅したら、「たったひとりの男の機嫌もとりきれないのか。女郎は一晩に5人も10人も手玉にとる。お前は女郎以下だ」と怒鳴られたことへの恨み辛みから、あの世へ行ったら父親を殴ってやりたいというのである。ああ、こういうことってあると思った。

 私も長女に「自分はどうなんだ」と茶々を入れたり、あまりに世話焼きの次女に「それがうっとうしいんだよ」と言ってしまったりする。言ってしまってから、ああしまったと思っても後の祭りである。親しみのために、あるいはちょっと気付いて欲しくて、言った言葉が言われた方にはグサッと来ていることがある。この女性の父親もきっとそうなのだろうが、人はなかなか分かり合うのは難しい。

 今晩は、私が教師になって初めて担任になった子どもたちの還暦のクラス会だ。明日はお手伝いをしたデイサービスの仲間との昼食会があり、夜は孫娘の誕生日のお祝いなのでブログはお休みです。

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中学生の自殺とボート転覆事故

2012年07月06日 21時27分35秒 | Weblog

 責任を取ろうとしない大人が多いことが気になっている。滋賀県大津市の中学2年生が昨年10月に飛び降り自殺した。事件後に学校は全校生徒を対象にアンケートを実施した。今日の朝日新聞によれば、15人が「(いじめの事実を)先生は知っていた」と回答していた。「先生も見て見ぬふりをしていた」「一度、先生は注意したけど、その後は一緒に笑っていた」と書いている。

 アンケートには自殺した生徒について、「かつあげされていた」「口座から奪われていた」などと13人が回答し、3人が「財布を盗まれていた」と応えているし、「万引きをさせられていた」という回答も15人あり、うち2人は実名で、直接目撃したと答えている。しかし、市教委は「直接見聞きした生徒はいなかった」と述べている。市教委は「担任は、生徒が同級生と殴り合ったり、廊下に寝転んでプロレス技をかけられているのを目撃していたが、いじめの認識はなかった」と説明し、「『お金をとられた』という情報もあったが、生徒への聞き取りの結果、事実は確認できなかった」と述べている。

 自殺した生徒の家族によると、生徒は昨年夏ごろ、自分の貯金から数万円単位で複数回、現金を下ろしている。不審に思った父親が昨年9月に2回、担任に相談した。さらに、自殺する1週間ほど前に生徒が父親に「万引きした」ことを打ち明けたが、同級生に強制されたことは否定した。そこで父親は学校にこのことを報告した。これを受けた学校側、とりわけ担任の対応は余りにも配慮のないものだったと私は思う。

 担任は同級生の親らに事実かどうかを確かめた(朝日新聞)。どんな風に確かめたのか分からないけれど、いじめたとされている親が、「そんなことはない。でっち上げだ」と言っている。自殺した生徒が最後まで隠していたことが明るみに出て、彼は「報復された」(父親談)のだろう。そのため彼は自殺してしまったに違いない。いじめた同級生の名前を、あるいは見て見ぬふりをした担任に対する気持ちを、文書で書いておけば刑事事件になった可能性はある。

 自殺した生徒の父親は警察に、いじめた同級生を罰して欲しいと訴えたが、警察は「犯罪事実の認定は困難」と説明している(中日新聞)。「父親からの被害届の受理を拒否する意図はなく、証拠が出てくれば立件に向けて動く」とも話している(朝日新聞)。しかし、警察が捜査してくれないこのようなケース、つまり具体的な証拠がないのであれば民事事件で争い真相を明らかにする以外ない。

 昨年、静岡県浜名湖で起きたボート転覆事件で、亡くなった子どもの両親は民事訴訟を起こしている。これをパソコンで検索すると、「金の亡者」というタイトルが付けられていた。民事訴訟は具体的な不利益がなければ事件にならない。だから賠償金がいくらという訴訟になるのだが、それを知らない人は何でも金に結びつけるとか、金欲しさで裁判をやっているなどと言う。情けない話だ。それに、訓練を請け負った「青年の家」の所長は「私の判断が至らなかった」と訓練の事故を陳謝したが、豊橋市教委は「全面的に争う」と言う。

 悪天候の中でなぜ訓練を行わなければならなかったか。現場にいた教師が「中止しましょう」と言えば助かったはずなのに、判断が出来る立場ではないような言い方は私は納得できない。福島原発の事故の時も、東電の幹部は予測できない津波が起きたからと自らの責任に触れなかった。政府も同じ姿勢だった。教委もまた同じ姿勢のようだ。

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アメリカの独立宣言

2012年07月05日 22時02分42秒 | Weblog

 7月4日はアメリカの独立記念日。アメリカにいる友だちは現地で何を見て、何を感じたのだろう。私は高校の社会で、アメリカの独立宣言、フランスの人権宣言を学び、人類は長い歴史の末にやっと人権と民主主義にたどり着いたことを知った。アメリカの独立宣言は1776年7月4日に議会で承認された。トーマス・ジェファーソンの起草によるもので、全文は忘れてしまったが、「全ての人間は平等につくられている」と書かれていたことはよく覚えている。

 どうしてこんなことを覚えているかといえば、中学・高校の時の私の関心は「人間は皆平等」ということに尽きるような気がする。平等などあり得ないと言う人もいる。年老いた人もいれば若い人もいる。キレイな人もいればそうでない人もいる。足の速い人もいれば遅い人もいる。人間は様々なのであって同じはずはないと言う。そのとおりだと思う。人間は一人ひとりみんな違う。だからこそ違っているけれど平等であるということだ。違いを認め、しかし、そこにはいかほどの違いもないという思想が大事なのだ。

 アメリカ独立宣言は「生存・自由そして幸福を求めることは侵すことの出来ない権利」と謳っていた。そして「人は政府という機関を持つけれど、その権力は被統治者の同意に基づいている」と規定している。しかもその政府が古いものと同じように人々を苦しめるなら(ここは私の解釈なので間違っているかも知れないが)、「権力の乱用や権利の侵害が度重なるなら、そのような政府を投げ打つことは人民の権利」と革命するの権利を認めている。

 それから13年後に、フランス革命が起きた。フランス革命の最中になされた人権宣言は、フランス国旗に象徴されているように、自由・平等・友愛を掲げている。これは当時の人々の悲願というか目標だった。つまり当時の人々には、自由も平等もなかったのだ。友愛と訳している人もいれば博愛と訳している人もいるが、自由と平等に続けて愛することを基本とする考え方は画期的だと思う。それは未来を象徴している。どのような社会を作り出すべきかという積極的な思想だと私は思った。

 イギリスの清教徒革命に続き、アメリカの独立宣言、フランスの人権宣言と、人間は真に平等な社会へと進んだのだと思っていた。けれどもその後に起きた歴史は、資源の確保という領土の奪い合いだった。自由は、富を得るためのものとなり、競争に競り勝つことが当然の権利になってしまった。多数決は単なる決め方のひとつだったのに、まるで金科玉条となった。

 本当にこれでいいのだろうか、アメリカの独立宣言やフランスの人権宣言で、人々が目指したものは何だったのだろう。今朝の新聞は「ヒッグス粒子発見」と大きく報道していた。それがどのようなものか、私には説明できないけれど、宇宙がどのようにして生まれたのか、つまりは私たち人間がどのようにして誕生したのかが解明されるのだろう。誕生が明らかになるのであれば、消滅も明らかとなるのだろう。

 それで、自由・平等・友愛に続いて、もっと確かな何かに行き着くのだろうか。この先がどうなっていくのか、興味深い。

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長屋の付き合い

2012年07月04日 19時12分28秒 | Weblog

 友だち夫婦がアメリカに旅立つ時、1坪農園の「野菜を収穫しておいて欲しい」と頼まれた。家に帰る時に畑を見ると、丁度隣の畑の人がいたので、「今朝、採るように頼まれていたんですが、時間が無くて出来なかった。申し訳ないけれど、そこのキュウリ2本切ってくれませんか」とお願いした。切り取って、「どうしますか?」と聞くので、「家に持って帰ってください」と言うと、「私のところもキュウリを収穫したところなので」と言われる。「じゃあ、私がもらって行きます」とキュウリを2本受け取った。

 隣の畑の人も知り合いだったから良かった。いくら、友だちから頼まれているからと言っても、日頃は畑に入ったことのない私がごそごそやっていたのでは、泥棒と間違えられることもある。そうでなくてもこの1坪農園の作物は丁度良い時期に盗まれることがあるそうだ。友だちに言わせると、「この畑をよく知っているが、ご近所ではない人が犯人」と言う。「大根やトマトやキュウリの1本や2本盗んで、もし誰かにその現場を見つけられたら恥ずかしくてここでは暮らしていけない」というのが、彼の論拠である。

 他人がせっかく楽しみで育てているものを盗んで行くとは情けない。買ってもたいした金額ではないはずなのに、手を出してしまうのはどういう理由なのだろう。「花泥棒は罪にならない」というような言い伝えもあるけれど、花を育てている側からすれば、せっかくの楽しみを奪われガッカリしてしまう。花泥棒も花が好きな人なのだから、盗まれた花もきっと大事にされているはずだという日本人のおおらかさがそんな言い方になったのかも知れない。

 日本人の付き合い方は昔からおおらかというか、ギクシャクすることは少なかったようだ。それは狭い土地で、農業という助け合わなければ暮らしていけないことを生業としてことに由来するのかも知れない。農業を離れた江戸のような都会では、知らない人間同士が長屋のような共同住宅で暮らしてきたから、ここでも助け合わなくてはならない社会が形成されたのだろう。支配者にしてみれば共同で監視し合う仕組みだけれど、暮らしている側にとっては心強い仲間意識だったのかも知れない。

 その友だちの家の玄関先に、生協の箱が置かれたままになっている。息子さんがひとり残っているけれど、どうしていいのか分からないのだろう。私はおせっかいにも息子さん宛てに、「家の中に入れて置くように」と張り紙を書いておいた。田舎から珍しいものが送られて来たからと「おすそ分け」をいただいたり、美味しいものが出来たからと一緒にご飯を誘われたり、昔のように「醤油を貸して」の付き合いをしている。くどくならず、さりとて疎遠にならず、気持ちの良い距離を保つようにと努めている。

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アメリカ旅行

2012年07月03日 19時30分53秒 | Weblog

 雨の中、友だち夫婦がアメリカに行くので、最寄の駅まで送っていった。アメリカには友だちのお姉さんとその家族がいて、お姉さんの娘さんらの家族が「ぜひ」と招いたようだ。7年前、この夫婦を含めた6家族11人で、彼のお姉さんを訪ね、お姉さんと一緒に西海岸を中心に15日間旅行したことがある。お姉さんは住んでいるカルフォルニア州の州都サクラメントから、わざわざサンフランシスコまで迎えに来てくれた。

 サンフランシスコで2泊、サクラメントで2泊、レイク・タホで1泊、ヨセミテの近郊で1泊、モントレーで2泊、ラスベガスで2泊、グランドキャニオンで1泊、ロスアンゼルスで2泊という豪華な長旅だった。移動はガイド付きの小型バスが主だが、グランドキャニオンへは小型飛行機だった。一番長く付き合ってくれた運転手は日本人で、彼はマーケットに寄って好きなものを買い、適当な場所を探すとそこで昼食にする手はずを整えてくれた。それはアメリカ人流のピクニック気分だった。

 彼は私たち1行を気に入ってくれて、ヨセミテ渓谷一帯を見渡せるグレーシャー・ポイントへ連れて行ってくれた。「ここにしばらく居ると人生観が変わる」という彼の説明は正しかった。渓谷からの距離は約1000メートル、谷底を見ると足がすくみ血の気が引いた。ここからはシェラネバダ山脈が遠く続くのがよく分かる。このスケールの大きな景色の中にいると人間の小ささを痛感するから、「人生観が変わる」という表現は適格だった。私にとってアメリカは2度目だったけれど、今回もアメリカは広すぎると心から思った。

 グランドキャニオンもスケールの大きな景色を見せてくれたけれど、ガイドが言うように、ここに1週間居たならもっと大地の大きさ、自然の作り出す景色の見事さ、朝と夕方と夜の移ろい行く様を見たり感じたり出来ただろう。1泊は余りに素通りで物足りなかった。アメリカの大都会もそれはそれで面白い。サンフランシスコもロスアンゼルスもラスベガスも、街中を歩いてみるとショーウインドウの飾り付けやお店で売っている物や人々の服装や、読み取れないけれど溢れている会話や、いろんなものが興味深い。

 街のつくり方、商店街、スパーマーケット、鉄道や農園、橋や公園、いろんなものが目についた。以前行ったシアトルでは物乞いの人がいてビックリしたけれど、ラスベガスのような歓楽街にもスパニッシュと思われる子どもが客引きのチラシを配っていた。アメリカ人は陽気で世話焼きだけれど、貧富の差は広がっている。昨年、ニューヨークやワシントンで99%の人々のデモが起きたけれど、都会はその差が顕著になっているようだ。

 「和食が食べたい」と言い出す人がいてラスベガスで和食店に入ったけれど、私にはとても和食の修行をしてきた調理人の料理とは思えなかった。長い旅だったから後半になると疲れも出て、仲良しの足並みも乱れるようになった。そんなこともあったなと私はその時のメモを見ながら思い出していた。友だちのお姉さんは来年、私たちに会いに来てくれるそうだ。楽しみだ。

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やはり変わった人

2012年07月02日 19時36分23秒 | Weblog

 今日は暑かった。青い空とギラギラと輝く太陽は夏そのものであった。カミさんはやはり晴れ女だ。今日は信州でゴルフが楽しめたことだろう。信州は緑が深まり、初夏の香りと気持ちよい風が流れているだろう。高原の朝は爽やかで、遠くの山々を眺めながら飲む朝のコーヒーは格別な気がする。

 それに引き換え、私たちの井戸掘りは失敗だった。土曜日に買い求めた部品は間違いだった。昨夜から、どのように接続するのかと考えていて、買ってきた部品ではつながらないのではないかと不安に思った。今朝、「ここはどうなっていたか、覚えていますか?」と皆さんに聞くが、やはり誰も記憶が定かではない。部品を作った先輩にたずねても、いろいろ教えてくれたけれど、肝心なところはハッキリしなかった。現場について確かめてみるとやはり部品が違う。とりあえず、管の中に水がどれだけ溜まっているかを調べて汲み出してみるがやはり水量は乏しい。

 9メートル30センチまで掘れたけれど、私たちの能力ではこれ以上は掘れないと依頼主に伝えるが、「もう一日だけ挑戦して欲しい」と言われる。明日から仲間のひとりがアメリカに行ってしまう。常時働けるのは私ともうひとりしかいない。これでは先が思いやられる。仲間を募って、もう一日、頑張るしかない。

 発明王のトーマス・A・エジソンの睡眠時間は、30分ほどの仮眠を1日に6回、つまり3時間であったという。ナポレオンもそんな具合だったから、眠る間を惜しんで研究に没頭したということから、そんな風に言われたのかと思った。しかし、「エジソンの研究所の時計は針がなかった」とまで言われているから、夢中になりだすと止まらなかったのだろう。エジソンも「若い頃は、1日8時間労働などというものはなかった。私が仕事を1日8時間に限っていたら、成功はしなかった」と語っている。

 私がエジソンのことで知っていたのは、白熱電球を発明したことと小学校を中退したことだった。エジソンは1847年の生まれで7人兄弟の7番目の子だった。小学校で先生が1+1=2と教えると、1個の粘土と1個の粘土を合わせると大きな1個の粘土になるのに、どうして2個なの?と納得しなかった。また、「AはどうしてPとは言わないのか?」とか、絶えず「なぜ?」を発していたようだ。先生は怒って、「君の頭は腐っている」とまで言ったという。エジソンは退学し、小学校の教師だった母親に学んだ。母親はエジソンを理解し、家の地下室に彼のための研究室を作った。

 ちょっと変わった少年だったエジソンが22歳の時、特許を取得した株式相場表示機は業界から大いに歓迎され、特許権を譲って欲しいと申し出があった。それはエジソンが思っていた金額の8倍もの高額だったから、「心臓が止まるかと思った」と回顧している。ここから発明王としてのエジソンの人生がスタートしていった。彼は同じように発明に取り組む仲間を研究室に集め、発明集団として機能させるマネジメント能力も高かったようだ。生涯の友だった自動車王のヘンリー・フォードはエジソンの会社の社員だった。

 エジソンは発明だけでなく企業経営にも熱心で、対抗勢力を力でねじ伏せたり、公開前の映画を複製して巨額の富を得たりもしている。発明の権利を守る訴訟も多く、訴訟王の異名もある。晩年は死者との交信について研究しているから、やはり変わった人である。

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人はよき人に出会い、飛躍できる

2012年07月01日 21時33分55秒 | Weblog

 愛知県は自動車事故が多い。道路の整備も進んでおり、自動車そのものが多いからだろう。しかし、トヨタ自動車はなぜ愛知県に根を張ったのだろう。トヨタ自動車は織機王と呼ばれた発明家、豊田佐吉の長男の喜一郎が立ち上げたものだ。豊田佐吉は1867年(慶応3年)、現在の静岡県湖西市で生まれた。翌年には明治政府が樹立されている。父親は大工で、仕事のないときは農業をしていた。長男の佐吉も父親のあとを継いで、豊橋で大工の見習いを始めている。

 「教育もお金もない自分は、発明で社会に役立とう」と佐吉は18歳の時に決意した。つまり、発明で出世しようとしたのだからたいしたものだ。そこで目を付けたのが機織機で、1890年には木製の人力織機を発明している。機械と言っても、大工仕事の延長のようなものであったという。西洋の機織機を研究するために、現在の半田市乙川にやって来たようだ。それが乙川の庄屋の石川藤八との出会いで、石川の屋敷に身を寄せ、本格的な発明にのめりこんでいった。

 納屋に閉じこもって織機の改良に集中する佐吉は、周囲の人々からは狂人扱いであったようだ。佐吉自身が「明治の初年において、動力などというものを考える人は、よほど“はいから”の部類であった」と回顧している。「周囲の空気は冷たい。誰ひとり労わってくれる者もいない。労わるどころか、謗る者ばかりである。田畑の少しあったものを、ぼつぼつと売り減らして、あてどもない発明にみんなつぎ込むのだから、とても周囲の人たちがよく言うてくれそうな筈がない」と続けている。

 佐吉が生まれるまでの封建社会では、身分を越えて活躍することは出来なかった。発明で出世しようとしたのは、明治政府そのものが下級武士のよる革命だったからだろう。だから静岡の小さな村の大工の倅が大きな夢を抱くことが出来た。けれど、夢だけでは食っていけない。佐吉ら3兄弟は仲が良かったようだ。トヨタを大きくした甥の豊田英二は「3人は異常に仲が良かった。みんな酒好きだが、末っ子の佐助が一番強かった。うちの親父も好きだったが一番弱い。長男の佐吉は真ん中ぐらいだろう」と述べている。佐吉に弟の、つまり豊田英二の父親の平吉がいなかったら佐吉も織機王になれなかっただろうし、石川藤八との出会いがなければ発明家にもなれなかっただろう。

 佐吉は1918年(大正7年)に豊田紡織株式を設立しているが、それがどこなのか私は知らないが、現在の豊田織機の本社は刈谷市にある。私の祖父も豊田織機の株を持っていた。トヨタ自動車を作り上げた豊田佐吉の長男の喜一郎は、東大の工学部を卒業して、父親が興した豊田紡績に入社し、自動織機の研究に従事している。喜一郎は自動車に関心を持ち、英米の自動車工場を視察し、1933年(昭和8年)に父親の支持を得て、豊田自動織機製作所に自動車部を設置している。さらに荒地であった三河の挙母(ころも)に広大な土地を買い、自動車の生産に乗り出した。

 その頃の日本は大陸への進出を狙っていたから、喜一郎が目指していた大衆自動車の生産は戦後に持ち越され、それも朝鮮戦争のおかげで生き返られる巡り合わせにあった。喜一郎が東大時代に築いた友人らが戦後のトヨタ自動車の原動力になったのも面白い。人は良き人に出会って、飛躍出来る。それにしても静岡の人が愛知に根を張ったのも歴史の偶然なのだろうか。

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