友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

投票前日

2013年07月20日 18時21分11秒 | Weblog

 18日あたりから、夜は涼しくなった。朝方はまるで秋になったかのような冷たい風が吹いてくる。暑い夜はタオルケット1枚で寝ていても、足を外に出していた。しかし、このところは足の先まで包み込むようにして寝ている。そんな朝早く、電話が鳴った。参院議員選挙で投票する人がいない。どうしたらよいかというものだった。確かに誰に投票してよいか、迷う。

 今朝の新聞の社説は新聞社の立場を表している。読売新聞は明確に「ねじれ」解消の選挙と位置づけ、「決められない政治」に陥った一番の要因が「ねじれ」にあったと述べている。さらに、「読売新聞は20年前に憲法改正試案を発表しております」という。朝日新聞は2段構えで、1つは迷っている人に対して、判断材料を見つける方法を紹介している。2つ目は自由を守る不断の努力の必要を説く。中日新聞は「子育てと介護」「TPP交渉」の2つを取り上げ、「市民が動くことで、政治は変わる」と述べている。

 日本一の購読者数を持つ読売新聞は改憲派で、中日新聞は「憲法を守る立場にある」と以前から主張、朝日新聞も護憲派のようだ。朝日新聞の2つ目の社説はかなり観念的だが、事例は具体的だ。公示日に、安倍首相が演説をしようとしていた福島駅前に、「総理、質問です。原発廃炉に賛成?反対?」と書かれたA3判のボードを抱えた女性がいた。女性は「警察の者」と名乗る男性と自民党国会議員の秘書ら4人に囲まれた。「警察の者」に、ここは質問の場ではない、ボードを渡してと取り上げられ、名前や住所、連絡先を問いただされた。また、東京の吉祥寺で、民主党の候補者が「うるさい」と叫ぶ女性に殴られた。そんな事例をあげて、「憲法12条に、自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と結ぶ。

 それでも明日の参院選挙の結果は、自民・公明が議席の過半数を獲得するだろう。私の1票も役には立たないだろ。それは仕方がない。たとえ、投票率が50%を割り、こんな選挙で当選なのかと嘆いても始まらない。それが現実で、それを改めるためには「不断の努力が必要」なのだ。まだまだ先は遠いが、人は理想に向かって歩み続けるだろう。私はそう信じている。

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子どもの頃、年寄りは嫌いだった

2013年07月19日 19時07分10秒 | Weblog

 85歳の日本の女性が、アフリカのタンザニアで学校を建てる活動をしている。少しボケが来た(?)ダンナを家に置いたままでは出かけられないからと、今回はダンナも連れてタンザニアまで行って来た。歳を重ねると女性は元気で活き活きとしているのに、どうも男性は60歳までの職場が厳しかったのか、元気が無い。この女性は奈良高女(奈良女子大)出の才女のようで、若い時は「サヨク」だったという。どんな風に時代を生きてきたのか、何を求め、何を考えてきたのか、ぜひお話が聞いてみたい。

 16歳の女の子が同級生の女の子を殺して山中に捨てたという。殺してしまった罪よりも、これからの不安を語っているという。殺すに至った原因も、悪口を言ったというような、よく分からないほど些細なことのようだ。しかも、殺された女の子と初めて会ったという少女までが犯行に加わっていたり、残虐行為の現場にいる。なんとも思慮の無い子どもたちか。感情が無くなっているのか、それとも弱い者を傷める時の感情の昂ぶりに流されているのか。最近、こういう若者が増えてきていないか。

 子どもの頃、年寄りは嫌いだった。威張っていて、理不尽なことを言い、権力を持っていた。年寄りがいなければいいとさえ思った。少なくとも自分は、横暴で支配的な年寄りにはならないと思ってやってきた。けれども今、70歳が目の前に迫る年寄りになると、果たして自分は若者との差のない老人になっているかと不安になる。子どもの目から見れば、若者の立場から見れば、私が子どもの頃に感じた老人と変わらないのではないだろうか。いつの時代も、子どもや若者と老人は相容れないものがある。それは超えることの出来ない世代の違いというものだ。

 1960年の若者たちは社会を変えられると思っていた。1970年の若者は身体ごとぶつかって社会を変えようと思っていた。ところが社会はどんどん勝手に発展していった。科学は人の英知を超えて進歩した。人間はこの発展と進歩に振り回されている。今、年寄りになってみて、社会は世界は、人が創り出していくが、人はどのように生きても、その生きた道筋は、そんなに変わらないと思う。友だちが言っていた。「明日はどうなっているか分からない。だから、今日を目いっぱい生きる」と。

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政治は恋愛に似ている

2013年07月18日 19時48分13秒 | Weblog

 参院選挙も残すところ2日間となった。テレビから党首が呼びかける党のコマーシャルは面白い。自民党の安倍さんの「日本を取り戻す」は、ますます余裕が出てきたようにさえ見える。維新の橋下さんはどう見ても開き直りだ。公明党は相変わらずで、山口代表の押しのある声が学会員に指令のように響くだろう。「公平」を重んじるわが国の選挙管理委員会が封じているとは思わないが、その他の政党のコマーシャルは見たことが無い。自民、公明で議席の過半数は確実と見られるから、投票率は低いだろうと懸念される。

 佐藤優さんという元外務省の職員が、『インテリジェンス人間論』の中で、「政治家であれ、官僚であれ、自らが目指す政策を実現するためには権力を必要とする。しかし、権力には魔物が潜んでいる。潜んでいるというよりも、自分の内部にこの魔物を飼っていかなくてはならないのである。そして、この魔物を飼っている人たちは独自の磁場を作り出す」と述べている。この書には日本の政治家や官僚の間では、「信頼しているか」「信用できるか」という言葉がよく出てくる。ロシアの政治家や官僚の間では、「愛しているか」「愛されているか」が使われ、時にはキスもする。

 また、こんな文章もある。「官僚は酒に弱いと国会議員から軽く見られる。国会議員から勧められる酒は飲み干すが、酩酊して正気を失わないようにしなくてはならない」。政治に酒は付きもので、自殺した首長が「政治家になろうと決めた時から、酒を飲む訓練をした。初めはすぐに真っ赤になったが次第にたくさん飲めるようになった。必死になれば何でも出来る」と言っていたことを思い出す。酒の席は腹の探り合いでもある。だから酒が飲めない人は、人脈づくりができない。政治の世界に限らず、人が酒を飲むようになってから、あらゆる場面で酒は人をつなぐ重要な役割を果たしている。

 「政治は恋愛に似ている」とも佐藤さんは書いている。選挙を見ているといっそうそう思う。応援する気持ちは恋する気持ちと同じだ。理屈よりも先にその人が好きという傾向が強い。何かしてあげたい、何か役に立ちたい、そんな気持ちが候補者を応援するのだ。候補者はそうしたフェロモンを出せる人だ。私は酒を殺して飲む必要がなくなり、味合って飲めるようになって、酒を作り出した人類の偉大さと共にその末を感じる時がある。

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自殺と軍事法廷と

2013年07月17日 19時27分14秒 | Weblog

 名古屋市の中学2年の男子生徒が死亡したのは、「いじめによる自殺の可能性が高い」と市教委も校長も言っている。その通りだろう。彼は思ったよりも繊細な神経と強い自己顕示欲を持っていた。担任の若い女教師は彼を庇って、「死ぬ勇気も無いのに、死ぬなどと言うものではない」と諭した。死ぬなどと考えてはダメと伝えたかったのだ。このクラスでは日常用語のように、「死ね」とか「きもい」とか使われていたようだ。ふざけてのことだが異常である。それを無くすために、ふざけの中心になっている生徒としっかり話し合うことが必要だったと思う。しかし、これは女教師にとっては一番難しいことだったのかも知れない。

 一生懸命に事の解決に当たろうとして努力しても、空回りになってしまうことはある。言葉は難しい。「キレイだね」と率直に言ったつもりでも、「バカにしている」と受け取る場合だってある。発する側はそんなつもりでないのに、受け止める側では全く違うことになってしまう。今朝の中日新聞に、自民党の改憲草案の「国防軍」について特集があった。「防衛相の経験もある石破茂幹事長は出演したテレビ番組で、審判所設置に強い意気込みを見せた」とある。審判所とは軍事法廷のことで、その必要を石破茂幹事長は次のように語る。

 「現在の自衛隊で、隊員が上官の命令に従わない場合は、自衛隊法で最高でも懲役7年が上限である。出動せよと言われたときに、いや行くと死ぬかもしれないし、行きたくないなと思う人がいないという保証はどこにもない。だから(国防軍になったときに)それに従えと。それに従わなければ、その国における最高刑に死刑がある国なら死刑。無期懲役なら無期懲役。無期懲役300年なら300年。そんな目に遭うぐらいなら、出動命令に従おうって」。「重罰を科すために審判所は必要」と説く。

 審判所は軍事法廷なので、非公開で行なわれる。「旧日本軍」の場合は、戦地や戒厳下では弁護人もなく密室審理で行なわれた。上官の命令が絶対である軍隊では、事実を明らかにするというよりも軍の規律を維持し、組織を守ることが軍事法廷の目的であるので、不当な判決が下されることが多かった。自民党草案では、「上訴できるか否かは不透明」(中日新聞)である。私はそんな社会に生きたくない。新聞各紙は参議院選挙を予想して、「自民、改選倍増の勢い」と分析している。ますます暗い気持ちになる。

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頼まれたら断れない

2013年07月16日 18時39分00秒 | Weblog

 また、私の「頼まれたら断れない」悪いクセが出た。昨日の朝、選挙中の友だちから電話があり、「今日来て欲しい」と言う。この日は、知り合いが出演する混声合唱団の発表会の日で、これも見に行ってあげたかった。「頼まれたら何でもいいのね」と皮肉を聞くが、よほど用事が無い限りは行こうと思っている。確かに小さな街で行なっている合唱や演劇や合奏など、そんなにレベルが高いわけではない。もちろん、全国レベルの人もいれば、世界を舞台に活躍している人もいるし、これからの活躍が見込まれる人もいる。

 私自身は、文化活動に一生懸命で取り組んでいる人を応援できればと思っているに過ぎない。街のあちこちにそういう人たちがいることが、街全体のレベルを押し上げるからだ。何万円という金額のチケットを払うような合唱や演劇や合奏と、好きでやっている人たちのそれとはかなりの差がある。そんなものにお金を払いたくないと考える人がいてもいいと思う。それでも応援してあげようと私は思うだけのことだ。正直に言えば、つまらないものは眠くもなるし、時には苛立ってくることもある。

 選挙はもう中盤で、今更、人がどうこう出来るものではない。終盤になればさらにイライラしてきて、結果を悪くするばかりだ。「楽しんでやりましょう」というのが私のモットーで、関わってくれる人たちへのお願いである。私の経験では、候補者がまず何を訴えたいか、その課題をキチンと持っていることだと思う。辻々に立って、短い言葉で訴える。団体や政党からの支援・協力を持たない私たちの選挙はこの方法しかない。せっかく家屋から出て来て、聞いてくださる人がいる。「行って握手をして」と候補者を促す。

 彼の選挙は初回から見て来たけれど、次第に応援者は増えている。事務所に来てくださる応援者に対応できる余裕が無いのが惜しい。何もかも、候補者が自分ひとりで引き受けているための限界だが、それも彼の個性なのだろう。「議会改革の必要」「市民の声を届ける」だけなら、多くの候補者が口にしている。市民にとって、その違いを的確に判断するのは難しい。「話し方が優しい」「人柄が信頼できる」。政策や主張とは無縁のところで市民は決めている。そうした点で、友だちは多くの支持者を得ている。

 好き嫌いが強く、わがままで、包容力に欠ける、そんな負の部分が私には気になるが、当選を重ねていけばもっと大きな人物に成長していくだろう。彼と彼のカミさんの、精神安定剤の役割だと思って、「泊まっていって!」を受け入れ、ビジネスホテルに宿を取った。そして今日の午前中、街宣車に乗った。

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忘れ物は暑さのせい?

2013年07月14日 21時50分14秒 | Weblog

 暑い日々が続くと、我が家の食卓は屋外に移動する。ルーフバルコニーが西側にあるので、夏の朝は日陰が高原のような清々しさを与えてくれる。午前6時30分に起きて、バルコニーに置いた鉢植えの花を見て周り、枯れた花や葉を取り除く。これらを箒で集めて片付けがすむと、次は水遣りである。すると一段と涼しさが増してくる。居間からバルコニーに出られるが、その庇に木の板を2枚上下に置いて縛り、下の板に日除けの布をくくりつけ、布の端を紐で板に巻きつけ、この板からロープの伸ばしてバルコニーのフェンスに固定する。庭にテントを張ったような形だ。

 朝のうちは日陰なので、テントは意味をなさない。むしろ庇に巻きつけておいた方が、青い空が見えて気持ちがいい。けれども不思議なことだが、テントを張っておくと、一種の屋内にいるような気持ちになれる。テントは日が沈むまで、張っておく。午後の日差しを遮ってくれる。以前はロープを斜め下の植木鉢にくくりつけていた。何となく部屋が暗くて、カミさんはその方がいいと言うけれど、私は嫌で、ロープを長いものに換えてフェンスに結んでみた。部屋が明るい。夕日が沈む30分ほどは、太陽が真横になるのでテントの効果はなくなる。

 朝、このルーフバルコニーで食事をする。夜も庇の板に電灯を設置して、食事をする。ビールがうまい。朝は食事が終わると新聞を広げ、コーヒーを飲む。登校する子どもたちの声が聞こえる。今日のような休みの日は、サッカークラブの少年たちの声に変わる。鳥が囀り、時にはセミの声も聞こえる。新聞を読みながら、ああこれは今日のブログのネタになると思う時もある。それなのに、どういうわけか、忘れてしまう。今日も忘れ物が多かった。

 先週の日曜日に井戸を掘った。今日はそこに手押しポンプを設置した。仕事の手順や位置、方向、そんな誰もが分かっていることなのに、そのために意見が不統一になることが多い。これを食い止めるために、あらかじめ設計図を描いておいて、「このようにやってください」とお願いした。おかげで仕事はスムーズにいったけれど、いざとなると、あれが足りない、これを持ってきていない、そんなことが続いた。

 「暑いから気をつけてね」と言った私も、2回もカバンを忘れた。私は会計担当なので、いつもカバンを持ち歩き、支出の度に払っている。その大事なカバンを忘れたのだ。みんなは「暑さのせいよ」と慰めてくれるけれど、気が抜けてしまっている。手押しポンプは昼過ぎには完成し、夕方、水を汲み上げてみた。まだ、下から砂を拾い上げてくるけれど、まずは成功だ。来週は春日井で井戸掘りを行なう予定だ。

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マララさんに涙する

2013年07月13日 18時41分23秒 | Weblog

 朝の音が変わってきた。以前は桜の木に巣を構えたカラスが「カァー」「ガァー」と喧しく鳴いた。それが先日は、「チェッ」「チェッ」と短く鋭い音で目が覚めた。ルーフバルコニーに出てみると、朝焼けの空を2羽ツバメが猛スピードで回転していた。11日の朝はセミの声を始めて聞いた。セミの鳴き声すると、夏だなあーと実感する。36度とか37度の日々を思うと今日は風があり涼しく感じる。

 昨夜、大学生になった孫娘から電話があり、「中日・巨人戦でナゴヤドームに来ている。明宝ハムという広告のある辺りにいるので、ホームランを打ったら写るかも知れないから見て」と言う。カミさんは早速テレビをつけ、万一に備えて録画までセットした。結局中日の圧勝だったから、巨人ファンの孫娘としてはがっかりだったろう。巨人のホームランは村田選手の1発だけ、彼女の好きな阿部選手、坂本選手は活躍しなかった。

 テレビを見て不思議な広告が目についた。センター方向からバッターボックスを写した時、広告にとっては絶好の場所に、「常識に尻を向けろ」とある。どういうことなのだろう、何かの格言なのだろうか、そう思ってインターネットに打ち込んでみると、トヨタの宣伝文句とある。「常識に背を向けろ」という諺をヒントに作られたものだろう。私は知らなかったけれど、そのトヨタのCMは真っ赤な下着の女性が車に向かって尻を振りながら歩いて行く。そして振り向いて乳房を隠す動作をしながら前を見せる。まるで男性ではないかと思ったら、青年だった。

 テレビニュースを見て、涙が流れた。ニューヨークの国連本部でパキスタンの16歳の少女が演説をした。マララさんは昨年、女子が教育を受ける権利を訴え、イスラム武装勢力に頭を撃たれた。彼女は「テロリストは私と友人を銃弾で黙らせられると考えたが、私たちは止められない。私の志や希望、夢は何も変わらない」と語った。「私は誰も憎んではいない」と言い、「本とペンを手に取ろう。それが一番強い武器。ひとりのこども、先生、そして本とペンが世界を変えるのだ」と結んだ。私は涙を流していた。

 私は常識に囚われない生き方を大事に思ってきた。それはマララさんのように常識を踏まえることが出来る社会でなければ通用しない。殺し合う、憎しみ合う、それを捨てる勇気こそが出発点である。参議院選挙で「幸福とは」の議論がされていた。「自分が他者にとっても必要とされる」とか、「自分の存在が認められるあるいは受け入れられる」と言われた。そんな社会になって欲しいと思う。

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中学生男子の自殺

2013年07月12日 19時07分30秒 | Weblog

 名古屋市教育委員会は11日、南区の市立中学校2年の男子生徒が自宅近くのマンションから転落し、死亡したと発表した。生徒の自宅からは、自殺をほのめかす内容やいじめを疑わせる記述のあるノートが見つかったといい、いじめを苦にした自殺の可能性もあるとみて、調査を始めたことも明らかにした。中日新聞によると同級生の話しとして、「亡くなった当日は、帰りの会でクラスメートに『死んでみろ』『死ね』と言われ、「死ねと言うから死ぬ」と言い返していた。複数の生徒らによると、その会話を聞いた担任教諭は『死ぬ気もないのに、そんなことを言うもんじゃない』などと話したという」とある。

 続いて記事は、「担任教諭は11日夜、市教委に『そんな発言はしていない。死ぬという言葉も耳にしていない。もし聞いていれば、必ず注意している』と説明。亡くなった男子生徒が以前、ほかの生徒とからかい合う場面があり、『大丈夫?』と声をかけると、生徒は『大丈夫です』と答えたという。そのやりとりから、担任は市教委に『いじめという認識は無かった』と話している」と。さらに、「ある同級生は『1週間くらい前、彼の方から近づいてきて、“11階から飛び降りたら死ねるかな”と言われたことがあった』と振り返る」という記事を載せている。

 自殺の原因が何か、本当のところは分からないけれど、男子生徒が「死」を強く意識していたことは確かなようだ。マスコミの報道によれば、ソフトテニス部で練習に励み、秋の合唱祭に向けてクラスの指揮者に立候補し、「活発で堅実な性格」(校長)で、「優しいやつで、嫌って言わない」(同級生)生徒だった。ちょっと成績がよくて目立つことをする生徒は、下積みの同級生からは目障りに見える。「死ぬことも出来ない小心者のくせに」などと揶揄されていたのかも知れない。感受性が鋭くて、プライドばかりが先行してしまう年頃だから、「あいつらを見返してやるためには死ぬ以外にない」と思い込んだのだろう。

 死んだ男子生徒が残したノートには、「まず、自殺しようと思ったのはなぜかに始まり」、提出物を出せなかったことに触れ、「先生や両親にはこんな自分を変えられなくてもうしわけない」とある。そして、「いろんな人から『死ね』と言われた」と記しながら、「あえて名前はあげません。悪いのは自分と一部の人」と書き、「気づいてあげられなかったなどと後悔しないでください」「さようなら。ありがとう」と結んでいる。これだけを読んでも、なかなかな男の子だと思う。生きていれば、もっと素晴しいことに出会えただろうに。

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体育館のロビーからイスが消えた

2013年07月11日 19時15分44秒 | Weblog

 暑い日が続いている。市の体育館で毎週運動をしている人から、「体育館へ出かけたら、ロビーのイスが全て撤去されていた」と聞いた。理由は「この暑さを避けるため、人々がやって来て涼むから」ということらしい。涼むために体育館に来られては、本来の目的に適さない使用になるというのだろう。特に午前中は年寄りが多いそうで、明らかに涼むために来ているから追い出すためにしたということのようだ。

 体育館はスポーツで汗を流す人のための施設であることは間違いない。それでも事務室やロビーはスポーツ施設ではないけれど、暑い時は冷房が、寒い時は暖房が、効いている。人の出入りに関係なく、一日中動かしている。公共施設はそうあるべきだろう。「家では暑くて居られない。冷房代の節約にもなるから公共施設で過ごそう」という発想は間違っていないだろう。節電が強く叫ばれた時、公共施設やデパートで過ごすのがよいと評論家は言っていた。

 公共施設ほど広く扉を開けておくべきなのに、管理する側に立つとどういうわけかケチ臭くなる。私が住むマンションは隣りに私立の幼稚園がある。マンションの向かいには大型スパーマーケットの駐車場があるので、お母さんたちはこの駐車場に車を止めて、マンションを横切って幼稚園に子どもを連れて行く。「私有地を無断で使わせていいのか」と目くじらを立てる人がいる。子どもの声がウルサイと怒る人もいる。人の往来があった方が安全だろう。子どもはウルサイが心温まる。邪険にするより、挨拶の一声で明るくなるはずだ。

 尖閣諸島や竹島の問題、慰安婦や戦時中の強制労働など、歴史認識は大きく違う。韓国ソウル高裁は10日、強制労働で日本企業に賠償を命じる判決を下した。私の年上の友だちは、「既に賠償はしているのに、あいつらは意地汚い」と言い、「日本人に比べて、頭脳も品格も落ちる」とまで言う。「技能オリンピックでメダルが一番多かったのは韓国で、日本は4位でしたよ」と言えば、「たまたまですよ。リストラされた日本人の優秀なのを韓国に連れて行ってしまったからです」と譲らない。

 相手が悪い。相手がバカだ。そんなことばかり言っていても、仲良くなれない。相手のよいところを見つけ、相手に敬意を払う気持ちがなければ、人も国もうまくやっていけない。世界を旅してみれば、人間に優劣など無いことが分かる。ケンカするよりも仲良くする道を見つけて欲しいと思う。

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続けるべきか、断ち切るべきか

2013年07月10日 19時32分33秒 | Weblog

 8月7日に岐阜県郡上大和の明建神社で行なわれる「薪能」を見学することになり、参加者を募っている。初めは自家用車で行くつもりだったけれど、往復の車の運転を心配しなくてもよいから、小型バスで行こうということになった。定員20名を確保するため、朝から知り合いのところを回った。目当ての家が分からなくて、探し回っていたらすっかり汗だくになってしまった。「陽が傾き ヒグラシが鳴きはじめると 神社の境内に涼しい風が流れ、ゆらめく篝火に照らされた情念がこの地に蘇えり 皆を別世界へと誘います」と、友だちが作成してくれたチラシにあるが、暗闇で見る薪能への期待は大きい。

 今日は名演例会で、出し物は劇団民藝による『どろん どろん』だった。率直に言って、今どうしてこの作品なのだろうと思った。伝統ある劇団だから、出演者は声もよく通り、演出も工夫されていた。私は歌舞伎をよく知らないが、江戸時代の末期だろうか、鶴屋南北が活躍していた頃の話で、歌舞伎が役者と大道具師と戯曲家の3者で作られていること、そのどれ1つでも欠けたら成り立たないことを描いたものだった。当たり前のこととはいえ、舞台では常に役者と道具師が対立し、ケンカするほどいい作品が生まれると結論付けていた。

 私は芝居好きでも芝居通でもない。誘われて、自分では決して見ることが無いだろう芝居を、会員であるために年間6回から7回見ることが出来る。名演の会員の中には、「良い演劇をより多くの人たちと」をモットーに、会員を増やす努力を真面目に行なっている。これだけいろんな表現があり、演劇だけでも数え切れない劇団がある中で、果たしてこれが「良い演劇」と言えるのだろうかと、私は自信も信念もない。名演で見たものよりも、たった5百円で見た学生演劇の方が面白いものもある。会員を募って、みんなで支え合うシステムは大事だろうけれど、それを続けることは保守化につながる。

 演劇でも映画でも小説でも、受け手の問題意識がどこにあるかで、評価も違う。歌舞伎を作り出した人々が、どれほど真剣で、どれほど創造的で、その過程がどれほど激烈なものだったか、それを何度言われても、現在の歌舞伎がおかれている環境は社会的にも金銭的にも恵まれ、芸術のエリート集団になってしまっている。反権力意識の強い民藝がどうしてこんな芝居をするのか、私は合点ができない。劇団に栄枯盛衰があるのも仕方ないこと。みんなで支えようというのは、本当によいのだろうかと思った。

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