8月7日に岐阜県郡上大和の明建神社で行なわれる「薪能」を見学することになり、参加者を募っている。初めは自家用車で行くつもりだったけれど、往復の車の運転を心配しなくてもよいから、小型バスで行こうということになった。定員20名を確保するため、朝から知り合いのところを回った。目当ての家が分からなくて、探し回っていたらすっかり汗だくになってしまった。「陽が傾き ヒグラシが鳴きはじめると 神社の境内に涼しい風が流れ、ゆらめく篝火に照らされた情念がこの地に蘇えり 皆を別世界へと誘います」と、友だちが作成してくれたチラシにあるが、暗闇で見る薪能への期待は大きい。
今日は名演例会で、出し物は劇団民藝による『どろん どろん』だった。率直に言って、今どうしてこの作品なのだろうと思った。伝統ある劇団だから、出演者は声もよく通り、演出も工夫されていた。私は歌舞伎をよく知らないが、江戸時代の末期だろうか、鶴屋南北が活躍していた頃の話で、歌舞伎が役者と大道具師と戯曲家の3者で作られていること、そのどれ1つでも欠けたら成り立たないことを描いたものだった。当たり前のこととはいえ、舞台では常に役者と道具師が対立し、ケンカするほどいい作品が生まれると結論付けていた。
私は芝居好きでも芝居通でもない。誘われて、自分では決して見ることが無いだろう芝居を、会員であるために年間6回から7回見ることが出来る。名演の会員の中には、「良い演劇をより多くの人たちと」をモットーに、会員を増やす努力を真面目に行なっている。これだけいろんな表現があり、演劇だけでも数え切れない劇団がある中で、果たしてこれが「良い演劇」と言えるのだろうかと、私は自信も信念もない。名演で見たものよりも、たった5百円で見た学生演劇の方が面白いものもある。会員を募って、みんなで支え合うシステムは大事だろうけれど、それを続けることは保守化につながる。
演劇でも映画でも小説でも、受け手の問題意識がどこにあるかで、評価も違う。歌舞伎を作り出した人々が、どれほど真剣で、どれほど創造的で、その過程がどれほど激烈なものだったか、それを何度言われても、現在の歌舞伎がおかれている環境は社会的にも金銭的にも恵まれ、芸術のエリート集団になってしまっている。反権力意識の強い民藝がどうしてこんな芝居をするのか、私は合点ができない。劇団に栄枯盛衰があるのも仕方ないこと。みんなで支えようというのは、本当によいのだろうかと思った。