友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

昭和39年の東京オリンピック

2013年09月09日 19時49分35秒 | Weblog

 2020年夏季オリンピックは東京で行なわれることになった。テレビはどの局も時間を割いて報道していた。もし、本当に開催すれば大きな経済効果があるのであれば、イスタンブールやマドリードに譲ってあげた方がよかった。ただ、無駄に金を使うだけのオリンピックなら、日本が犠牲となって引き受けるのは義侠心があるとも言える。

 今日も仲間と井戸掘りをしながら、東京開催が決まった話になった時、「7年後だからなあ。見に行けるようなら幸せなことだと思うが、車イスでは迷惑になるし、その前に死んでいるかもしれんな」と、妙に暗くなってしまった。いつの間にか、仲間は皆70代になってしまった。いや、80代の人もいるし、その人は元気だ。見た目も皆若々しい人たちだが、内心では老いを感じているようだ。

 「東京オリンピックの時は幾つだった?」と先輩に聞かれた。昭和39年の10月10日の開会だった。私は大学2年になっていたが、自治会執行部の活動に一生懸命だったから、オリンピックは何も覚えていない。テレビのニュースとか、映画の上映前に行なわれていたニュース映画か、そんなもので選手団の入場行進を見た覚えがあるくらいだ。バレーボール女子が活躍していたけれど金メダルではなかったと思う。他は誰が金メダルに輝いたのか、覚えがない。

 東京と大阪の間に新幹線が完成したのもこのオリンピックの年だった。それでも学生だった私には高すぎて、利用したことは一度もなかった。学生時代に東京へ行く時は、普通の夜行列車だった。イスに座ったまま眠るのだが、なかなか眠れなかった。乗客の中には床に新聞紙を広げて横になる人がいたが、私もやってみるとこの方がよく眠れた。東京で泊まる時は、高校の同級生の下宿で、当時はまだドボーントイレだった。

 あの頃、東京で学生生活を送っていた友だちは東京オリンピックを見たのだろうか。東京の学生たちのどのくらいの人がオリンピックを見たのだろう。先輩が「テレビは持っていたのか」と聞く。我が家にテレビはあった。カラーテレビだった。けれどこの年、材木屋だった我が家は破産し、家族はバラバラに暮らすことになった。

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映画『豚と軍艦』は凄かった

2013年09月08日 18時26分46秒 | Weblog

 アニメ映画『紅の豚』から、何を思ったのか、日活映画『豚と軍艦』を連想した。宮崎駿監督は『豚と軍艦』から何かヒントを得たのだろうかと、とんでもなく考えが飛躍した。しかし、どう考えても題名のつけ方が漢字と漢字の間にひらがなを設けているだけで、2作の関連性は見つからなかった。しいて言えば、豚という漢字を使ったシリトリだけれど、作品としては『豚と軍艦』の方が早い。

 『紅の豚』はイタリア空軍の優秀なパイロットが軍の方針に従わず、一匹狼になって空の海賊と戦う物語だ。しかし、なぜ彼は豚になってしまったのだろう。純真な少女の目には人間の男に見えるようであったし、その少女が彼にキスをすると元の男になっていたから、魔法にかけられたとも考えられる。男は何年も前から、彼を待っている女性がいることを知っているのに、飛行機乗りは命の保障がないためか、受け入れない。男の不器用さがちょっと切ない。

 『豚と軍艦』を調べてみたら、1961年の製作になっていた。1956年の『太陽の季節』で始まった日活の青春映画は、次に石原裕次郎を主役にして『狂った果実』を発表し、裕次郎映画が続いた。私はまだ小学6年で、映画館の看板にドキドキした。裸の裕次郎に北原三枝が濡れた水着で抱きついていた。いくら映画が好きな私でも、とてもひとりで映画館に行けなかった。2作とも原作は石原慎太郎で、新しい世代の生き方を示していた。

 すぐに肉体関係になってしまう。それでいて疎ましくなって、恋人を金で売ってしまう。全く無軌道でどうしようもないくらい不良で、ろくでもない連中たちだ。今では、日の丸や君が代をうるさい言う石原慎太郎だが、当時は「これがオレたちの新しい生き方なのだ」と嘯いていたのだからおかしいものだ。私が『太陽の季節』を読んだのは成人した後で、古い価値観を認めないという点で評価したけれど、大江健三郎を読んだ時ほどの感動はなかった。

 そんな日活の青春映画とは全く違っていたのが『豚と軍艦』だった。監督は今村昌平で、主演は『太陽の季節』と同じ長門裕之だった。高校生の時に見たはずだが、筋は何も覚えていないけれど、ラストシーンが凄まじかった。豚が街中を這い回り、戦いに負けた長門裕之が便器に頭を突っ込んで死ぬというものだった。私に映画って凄いと思わせた作品だった。もうひとつ、高校生の時に見たフランス映画『太陽がいっぱい』は主人公が悪人、これもとても衝撃的だった。

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アニメ映画作り

2013年09月07日 18時21分07秒 | Weblog

 アニメ映画監督の宮崎駿さんが、公開中の『風立ちぬ』を最後に引退すると発表した。『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』『魔女の宅急便』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』を見た。昨夜は引退に合わせてなのか、『紅の豚』がテレビで放映されたので見た。『魔女の宅急便』までは子どものためのアニメという感じだったけれど、『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』、昨夜の『紅の豚』などは大人のためのアニメだと思う。

 宮崎さんのアニメの特徴は絵がとても美しいことだ。空や雲、森や水がよく出てくるけれど、光と風の表現が抜群にうまい。そしてテーマは、宮崎さん自身が言うように、「子どもたちに『この世は生きるに値するんだ』と伝えることが仕事の根幹になければいけない」ことにある。人間と自然との共生、人の優しさと力強さ、未来に向けた真摯な心、これらはどの作品にも共通する。子ども向けの作品も大人向けの作品も、世代を超えて見入ってしまうものがあるのはこのせいだ。

 私は高校の教員になった最初のボーナスで、映画を作るために8ミリ撮影機を買った。実際に映画を1本作った。それから美術クラブの生徒にアニメを作らせた。「ハチのむさしは死んだのさ」という歌が流行っていたので、これをアニメにしようということになった。ただし、アニメを作るには1秒に5枚の絵が必要で、真面目に取り組む生徒もいたが、遊び半分の生徒もいたから、なかなか原画が進まなかった。あの時は何枚描いたのだろう。8ミリフィルムは残っているので今度のクラス会で上映してみよう。

 宮崎作品のような手の込んだものを仕上げるには相当な時間と集中力が要る。今ならパソコンがあるし、いろんな機材と技術でかなりカバーできると思うけれど、それでも宮崎さんは「限界だ」と言うのだから、やはりアニメでは手作業のウエイトは大きいのだろう。生徒たちが『ハチのむさし』を製作した時は、今から45年ほど前で、画用紙に1枚1枚絵を描き、それを8ミリ撮影機で撮り、映写する誠に原始的なアニメ作りだった。絵だけでは足りなくて、生徒のひとりが「むさし」に扮して演じていたが、これも映写すれば生徒たちの良い記念になるだろう。クラス会は10月5日(土)に開かれる。

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オリンピック開催地決定まで後2日

2013年09月06日 17時05分18秒 | Weblog

 テレビの気象予報の人が「爽やかな秋晴れになるでしょう」と言っていたが、その通りになった。小学校のグラウンドでは、運動会に向けて行進や競技の練習が始まった。先生たちの厳しい声と子どもたちの元気な歓声が聞こえてくる。あと2日で、2020年夏季オリンピックの開催都市が決まるという。スペインのマドリード、トルコのイスタンブール、そして日本の東京が候補地である。

 オリンピックは競技というより祭典になってきた。それはそれで良いのかも知れないが、開会式や閉会式などは余りにも豪華で派手、趣向を凝らし過ぎている。見ている側は何が始まるのかと興味津々だから、やはりそれはそれで良いのかも知れない。オリンピックが始まれば、ついテレビを見入ってしまうだろうが、私はオリンピックが余り好きではない。国別対抗を止めて、個人やチームの対抗にして欲しいと願っている。

 どこの国が金メダルを何個獲得しただの、メダルの数で負けただの、そういう価値観が嫌いだ。選手が全てをかけて挑む姿は素晴しいし、思わず涙が流れてしまう。負けても勝っても大きな感動を与えられる場面がいくつもある。スポーツが人の心を大きく揺さぶることは確かだ。美しいと思うし、素晴しいと感じる。それなのに、「わが国はこれで金が何個になりました」などと言われると無性に悲しくなる。国を背負って戦わなければならない選手が気の毒になる。

 スポーツは個人でも、たとえチームでも、個人の持てる力の全てを注ぎ込む。だから感動も生まれる。美しさも生まれる。美の祭典でもある。国別対抗とならないオリンピックに持っていくことは出来ないのだろうか。逆かな?国が存在しなくなれば、当然そうなるだろう。人間は競い合いたい性分を持っているから、競技会はなくなることはないが、その形式は変わるだろう。全てのアスリートが人種や民族や宗教その他で差別されることのないワールド大会が開催されるといいと思う。

 東京?ウーン、じゃーない方がいいな。開催地になった都市は大変な税金を注ぎ込むことになる。浪費をしなければ経済は上向かないが、結局、ますます太る人と痩せる人の格差を増やすことになる。でも、見られるなら、それもいいか。

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親友になるしかない

2013年09月05日 19時32分46秒 | Weblog

 朝起きると秋のような風が爽やかだった。昨夜は雨が降らなかったのか、どこを見ても豪雨という痕跡がない。昨日のあの大雨はどこへいったのだろう。我が家のルーフバルコニーは排水が追いつかず、まるでプールのようになっていた。「このままでは窓に土嚢が要るね」と冗談を言ったが、それくらい凄まじかった。見ると、プールの中をミミズが何匹か泳いでいる。

 このまま放っておいたら、排水口に引っかかってしまうのではないか。「止めなさい」と言う制止を振り切って、雨の中のプールに素足で入る。冷たい。あの夏の暑さはどこへ行ってしまったのかと思うほど寒い。割り箸でミミズを捕らえては植木鉢に戻す。ずぶぬれになりながら5匹の命を救った。そのつもりでいる。ミミズは排水口から新しい地に行った方がここに居るよりも幸せだったかも知れないが。

 幸せか不幸せか、ミミズにも分からないことだ。あらゆるものが今しか分からない。過去のことはどんなによく覚えていても取り返すことは出来ない。未来を知ることも出来ない。今、この時を生きる。これが宿命である。それは逆に楽しいことだ。とにかく、自分が一生懸命にやればいいのだから。

 友人が竹島問題について歴史的な視点から日本の領土であること、韓国政府が竹島の日のことに口出しするのは内政干渉だといった文章を書いて送ってきた。「自国の歴史教育で嘘と作り話で固めていることは、世界の国々も認知している」とか、「自らの歴史認識に微塵も疑問を感じないのも韓国人の特徴か」、あるいは「民間ベースでの交流から雪解けを図るのも手ですが、韓国の自虐的な歴史観を解きほぐすのに苦労している」と、手厳しい。しかし、歴史に事実はあっても真実はなく、相手の認識が間違っているとどんなに言っても解決は出来ない。

 戦争をせずに解決する方法こそが問われている。国益を優先して交渉すれば決裂しかない。歴史に学ぶのであれば、その事実を忘れてはならないだろう。私は韓国にホームステイしたことがあり、韓国人の優しさを知っている。アメリカにも知り合いがいて、彼らがいかに朗らかで親切かも知っている。世界中が知り合いになれば、戦争などせずに解決の道が開けるだろう。ずるいとか憎いとか汚いとか思っていたら、親友にはなれない。先のことは誰にも分からない、だからこそ、今、親友になるしかないと思う。

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大雨洪水警報

2013年09月04日 18時11分04秒 | Weblog

 東は青い空で、西は黒い雲が広がり、時々稲妻が走る。風は東から西へと吹いていた。しかし、午後4時になって辺りは真っ暗になった。すると激しく雨が降り出した。いつの間にか、風は西から東へと吹いている。雷の音はしなくなったけれど、雨はいっそう激しくなった。いや違う、街中が暗闇に包まれ、稲妻が走り、雷鳴が響く。

 大丈夫だろうかとルーフバルコニーにあるミカンの木の植木鉢を心配する。直径が50センチはある大きな植木鉢なのでひっくり返ることはないが、ミカンの木の中にいるアゲハチョウのサナギが落ちないか、心配なのだ。10日くらい前にヘビ模様の幼虫を見つけた。2日前に見ると、古い葉の中でじっとしている。もっと若い葉を食べないと大きくなれないぞと思い、古い葉の枝ごと切って若い葉が多い枝の間に置いた。

 今朝見るとサナギになっていた。風が吹いて落ちてしまうと羽化できない。羽化する時に羽が広げられないと奇形になってしまう。そんなことを考えながら枝にくくりつけたけれど、この強い風雨に耐えられるように縛っただろうかと心配なのだ。それにしても本当に異常気象が続く。埼玉で起きた竜巻の映像を各局が流していたけれど、凄まじい。東北大震災の津波の映像も凄かったけれど、自然の猛威を見せ付けられると、人間はたいしたことはないようにさえ思える。

 宇宙にロケットを飛ばす。何億光年か先の宇宙が分かる。細胞から新しい細胞を作る。卵子を冷凍保存していつでも体外受精できる。人間は数え切れないほどの技術を生み出した。これは産業革命以後の社会、資本主義社会の賜物である。研究には莫大なお金が要る。お金を集中できる資本主義社会にならなければ科学はこんなに発展することはなかった。とてつもない社会を人間は作り出した。

 大雨洪水警報が発令された。13年前の東海豪雨を思い出す。あの時も夕方には街の主な道路は冠水していて、車が走るたびに大きな水しぶきが上がっていた。このまま明日まで降り続けるなら、明日の朝は13年前と同じように街は湖になっているだろう。大丈夫だろうか。アゲハチョウのサナギのことではなく、近くに住む長女一家のことや街の人々のことを思う。

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真面目に考えているのだが‥

2013年09月03日 21時41分30秒 | Weblog

 日曜日に続いて、今日も井戸掘り。「水が出てきたぞ」と、穴の中から大きな声がした。見ると確かに水だ。おそらく昨日降った雨水が湧き出してきたものだろう。それでも新しい事態が生まれるのは励みになる。希望の兆しである。そんな少しのことでも、続けていけば出来るという気になってくる。今日は借りていた井戸掘りの道具をいったん返すために出かけた。けれども、工夫と発明が大好きな仲間のひとりが、また新しい道具を作ってきた。それで、試しに掘ってみようと言うことになり、結局5時まで作業を続けることになってしまった。

 夢中になると止まらなくなることは誰にでもある。井戸掘りの仲間はそういう人が多いのか、「切りのよいところで止めよう」と言うのだが、熱中していると「ああ、もう少し、もう少し」と止める気配がない。熱中していてなら仕方ないと思うが、怠惰なだけで、なかなか止められない人々がいる。昔、議員の時、役所の幹部がこう言った。「入りをもって、出るを制す」。これが自治の基本だと得意になって言うのだ。「収入をもって、支出を決める」。確かにそうだけれど、「実際は違うじゃーないか」と借金をしている点を詰めると、「いいじゃーないですか、市民がその福祉を望んだのだから」と開き直った。

 国の借金は今年で1千兆円を越えるという。来年度予算はこれまでの最高額になる。国も地方も役人はきっと、「いいじゃーないですか、それで景気がよくなれば」と言うだろう。福祉を求めていることを逆手にとって、役人はどんどん肥満になっていく。食えない国民はますます痩せていく。国の将来、地方の将来、まるで夢のような未来を語るけれど、それはいつも絵に描いたモチなのだ。モチでいいのだ。それで未来に望みを持ち、ひたすら勤勉に働く人々が育っていくなら、借金がどんなに増えようと知ったことではないのだろう。

 井戸掘りの道も厳しいけれど、これからの社会がどうなっていくのか、年寄りは孫たちの時代を心配する。けれども、役人と一緒で、「その時はもう死んでしまっているから関係ないが」と小さく反省する。「ごめんなー、じいちゃんに力が無くて」。井戸掘りをしながらも年寄りは真面目に考えてはいるのだ。

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どうしたんだろう?

2013年09月02日 18時02分16秒 | Weblog

 どうしたんだろう?四日市市の中学3年の女子生徒が殺害されたことでも、アメリカのオバマ大統領が「アメリカはシリアに対し、武力行使を行なうべきだと決断した」と言いながら、「国民の代表である議会に武力行使の承認を求める」と述べたことでもない。全く私の個人的なことだ。昨日は9月1日、今年も後半に入ってしまった。そして、関東大震災が起きたことを忘れない「防災の日」で、各地でいろんな行事が取り組まれた。いろいろと思うことはあったはずなのにブログを休んでいる。

 昨日は天候もよかったし、参加できる人が4人揃ったので、春日井市の畑に井戸掘りに出かけた。結論から言えば30センチほどしか掘り進めなかった。1日に30センチは厳しいが、10日掘れば3メートルだと強がってみるが、進まない現実は疲労をいっそう蓄積させる。やはり2平方メートルくらいまで掘る面積を広げ、1段2段3段と足場を作って掘っていく方法しかないのか。そうすれば石は取り出せる。今のように垂直に穴を掘って、ぶつかった石を取り出す方法は深くなれば困難になる。

 掘っていたら漬物石くらいの石にぶつかった。もうダメかなと思っていたら、器用な人がいて、ロープを下ろして石に撒きつけ引っ張り挙げてきた。ビックリである。この人は潮干狩り用の鉄製の熊手を柄の先に取り付け、拳くらいの石なら取り出してしまう道具も作ってしまった。おかげで石はかなり取り出した。けれど、石を取り出せばまた、新たな石が表われる。さらにそれを取り出すと、穴の下は大きな空洞になるばかりで、真下にはなかなか進まない。あれだけたくさん石を掘り出したのに、深くなっていかないのだ。

 東電の福島原発の汚染水漏れではないけれど、目先の処理に追われて根本を見失っている。「試行錯誤は大事なことだ」と技術畑の仲間は言うけれど、本当にこの方法でよいのか、やはり根本を洗い直す必要があるだろう。そんなことを考えていたら、いや正直に言えば、考える気力も失ってボーとしていた。疲れ果てると、何事もうまくいかなくなると、建設的なことが考えられなくなる。どうでもいい、気楽な楽しみに向かってしまう。幸いというか不幸にもというか、今日は雨。少し休んで考えた方がよいようだ。

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