友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

家庭の行事

2019年06月18日 17時35分40秒 | Weblog

 次女からの「父の日」のプレゼントはポロシャツだった。私が、「プレゼントのシャツを着た写真を、メールで送ってやるといいんじゃないか」と言った時は、「そんなこと」と否定的だったカミさんが、「私も母の日にもらったシャツがあるから、ルーフバルコニーの様子がわかるように写真を撮って」と今朝になって言う。満開を過ぎたバラの前と、満開になってきたサルビアを背景に写真を撮った。

 長女も次女も私たちに気を遣ってくれるから、こちらも感謝の気持ちを伝えておきたい。季節毎の家庭の行事は、いつもはそれぞれに忙しい家族をひとつにしてくれる。誕生日だけでなく、節句とか桜見とか月見とか、私もできる限り家庭の行事を続けて来た。子どもたちはいつか巣立っていき、それぞれに家庭を作る。その時も、家庭の行事を大事にして欲しい。そのためには自分が率先して行わなくてはと思ったからだ。

 家族のつながりが希薄になってきているからこそ、我が家の子どもたちだけでも家庭の行事を続けて欲しいと思う。イベント好きな子どもたちだから、その点は親を超えていくだろうが。長女の小4の娘が、次女の5歳になった娘と「夏休みに遊ぶ」ことを楽しみにしている。学校や学童保育での友だちも大勢いるようだが、従妹は特別な存在のだろう。おかげで私たちも一緒に、仙台の七夕祭りに行くことになった。

 ジジババが孫たちのために、何が出来るのだろうと思うと、一緒に行くことが最上のプレゼントだと思う。一緒にいる機会があれば、ジジがどういう人か、ババがどういう人か、子どもなりに伝わるだろう。長女のところは家族全員で行くので、仙台で3家族が揃うことになる。「母の日」の祝いでみんなで集まったが、また会えるのもうれしいし、男が3人揃う良い機会でもある。

 明日は姉を見舞に行く。親しかった先輩議員が亡くなられ、明日、通夜が行われる。あんなに元気だったのにと悔やまれる。そんな訳で明日のブログは休みます。

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「殺したい」気持ちが分からない

2019年06月17日 17時55分15秒 | Weblog

 昔から、殺人事件はあっただろう。各家庭にテレビがあり、個人はスマホを持ち、夥しい情報が流れ込んでくるから、ひっきりなしに事件が起きている気がしてしまう。大阪府吹田市で交番を襲い、警察官が殺傷した犯人と思われる男が逮捕された。奪われた拳銃を所持していたのに、男は犯行を否認している。

 何が目的だったのか、分からない。神奈川県川崎市の殺人事件も犯人が自殺したため、なぜ事件が起きたのか分からない。私には、「殺したいほど憎い」気持ちが理解できない。いじめられたとか、裏切られたとか、愛してくれないとか、生きている限り、嫌なことから無縁でいることは出来ないだろう。

 「殺したいほど憎い」相手でも、本当はいい奴かも知れないし、人一倍の努力家かも知れない。家族がいたり、恋人がいたり、両親がいたり、普通に暮らしているはずだ。人はなぜ、憎悪を抱くのだろう。百歩譲って、憎悪を抱いたとしても、命を奪う行為になぜ至るのだろう。みんな生きている。みんな生きていける。そう願いたい。

 釈迦もキリストも「殺してはならない」と話した。イスラム教も基本は相互扶助である。どんなに酷い目にあっても、相手を憎んではならないと聖人は説いた。人類は大きく進歩したはずなのに、心はどうして成長しないのだろう。アメリカは他国にミサイルを持つなと言う。言うことを聞かない国には経済封鎖する。

 他国にも人は普通に暮らしているが、経済封鎖で物資が途絶え生活に苦しんでいる。他国ばかりでない。アメリカの中にも生活に苦しんでいる人は大勢いる。何が理由なのか分からないが、銃乱射事件も後を絶たない。親が赤子を殺したり、子どもが老いた親を殺したり、どうしてこんな事件が多いのだろう。

 昨夜は、長女がふたりの孫娘とやって来て、「父の日」を祝ってくれた。また今日は、仙台の次女から贈り物と、次女一家からの「お父さんいつもありがとう」カードが届き、5歳になった孫娘の文字で「のみすぎちゅうい」と書き添えられていた。

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廃品回収と父の日

2019年06月16日 17時21分33秒 | Weblog

 今朝から台風のような強い風が吹いている。朝のうちは曇っていたが、午後からは青空が広がり日差しがまぶしいくらいだ。けれども、風は相変わらず吹き荒れていて、ルーフバルコニーのバラが大きく揺れている。根付いてきたサルビアが強風に煽られ、千切れそうだ。朝見た時、デイゴの赤い花がたくさん落下していたのに、風に飛ばされて、今はもうどこにも見当たらない。

 今日は学校の廃品回収が予定されていた。昨日の夕方、外から帰って来たカミさんに、「中止の貼り紙が出ていなかった?」と尋ねると、「新聞、雑誌、ボロ布の場所を示す貼り紙が出ていたから、やるのよ。さあー、持って行くわよ」とハッパをかけられた。「私が会長なら中止にするのになー」と呟くと、「今の若い人は、明日の天気もスマホで分かるから、大丈夫なのよ」と、時代遅れねと言わんばかりの口調で言う。

 カミさんの予想通り、今朝、学校の運動場にはたくさんの車が集結していた。運動場はそれほどの強風ではないのか、子どもたちも出てきて、楽しそうに回収の手伝いをしていた。中学何年の時だったのか覚えていないが、学校で廃品回収をしたことがある。教室に山のように積まれた雑誌を整理していると、「大人の雑誌」が何冊も出て来た。目ざとく見つけた友だちがサッと隠し、彼の家でみんなで回し読みした。

 あの頃は自動車が無かったから、みんなでリヤカーを引いて集めて回った。その時はそんな「大人の雑誌」が出されているとは気が付かなかったが、学校へ戻って作業していた時だったから、目の利く奴だったことを今になって思い出す。しかも、先生に見つからないように手早く隠して持ち帰るスゴ技だった。女性の裸の写真に見とれていると、彼は「もっとすごいのがある」と言う。

 彼の父親が同好の人たちと作っているというガリ刷りの冊子だった。「禁断の書」を見てしまい、興奮と恐怖が入り混じった。教師になった時、先輩から野坂昭如編集の雑誌『面白半分』をもらった。話題になっていた「四畳半襖の下張」が掲載されていたが、文語調でなかなか読めなかった。いつか読んでみようと思って雑誌はとってあるが、今、開いてもまだスラスラと読めない。友だちのお父さんたちが作っていた冊子はどんなものだったのだろう。今日は「父の日」。

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出会いを求めている

2019年06月15日 17時09分56秒 | Weblog

 出会いを求めている。人間は生まれて死ぬまでに、どれくらいの人に出会えているのだろう。私はマンションで暮らしているが、近所に住んでいても出会うことのない人もたくさんいる。最近、一日中家にいると、当然なことだが誰に会うこともない。昔、ひとり暮らしの人から電話がかかり、30分でも40分でも聞くことになった。話し相手が欲しいのだからと思い、とにかく聞いた。

 友だちの母親は弟夫婦と暮らしているが、時折、友だちに電話をしてくる。長い電話が続き、彼女が「お母さん、その話、前にも聞いたわよ」と言うと、彼女の母親は「そうやって、話を否定してはいけないと、偉い先生が言ってたわよ」と注意するそうだ。歳を取れば誰でも頻繁に物忘れするようになる。席を立って何かを取ろうとしたのに、何だったのか思い出せないから、もう一度席に着いてみる。

 身体が元気で、ゴルフもすれば野菜作りにも精を出している先輩が、「痴呆症だけはなりたくない」と言う。私は、「ガンは痛いけど、痴呆症なら本人は病気だと知らないから、その方がいいのかも」と冷やかしで言ってみたが、認知症ってそもそも何なのかと思う。私たちの子どもの頃なら、長寿の人はあまりいなかった。年寄りになれば物忘れが進むと誰もが思っていた。

 孤独で誰とも話をしない日々が続くのは気の毒だけれど、どうすることが出来るのだろう。この市でもいろんな対策が取られている。年寄りを集めた「お茶会」や、子どもたちとの触れ合いや、考えられることは何でもやられている。企画する側から、受ける側になってみると、無理やり参加させないでくれと思ってしまう。孤独死が見つかると、近所の付き合いや行政の責任を問う声があるが、孤独死だから不幸と決めつけることは無い。

 誰かと出会い、話が出来るなら、確かにそれは幸せなことだろう。でも、その逆が全て不幸という訳でもない気がする。幸せも不幸も他人には分からない。自分が何を求めたかは分かっても、幸せか不幸かは自分だって本当は分からない。

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ブルーのアジサイが好き

2019年06月14日 17時52分45秒 | Weblog

 我が家のアジサイは花の付きが悪い。友だちに聞くと、「肥料を与えていないのでは」と言う。もう何年も同じ鉢に植えられたままだから、仕方ないのかと思い慌てて肥料を施すが、芽が出てくる前に与えなければ無理なようだ。1鉢のアジサイは東側の日陰の花は付きがよいのに、西陽が当たる西側の花は小さくボロボロになっている。

 ルーフバルコニーが西向きなのでアジサイの葉の多くが日焼けしてしまう。私はブルーのアジサイが好きなのに、ピンクのものや白っぽいものが生き残っている。三ヶ根山にはアジサイロードがあって、確かブルーのアジサイが道の両脇に咲いていた。そんな写真はないかと思い、インターネットを見ていたら、鎌倉の明月院の写真があったので、ここに貼り付けておく。

 

 アジサイの花言葉は、「移り気」とある。咲き始めから徐々に色が変わるためだろうし、植えられた土壌によって花の色が変わるからでもあるが、あんなに素朴に咲く花を「移り気」とは少し可哀想な気がする。そう思っていたら、ブルーのアジサイには、「あなたは美しいが冷たい」という花言葉があるそうだ。なるほどと思いながら、あの人のことかと納得する。

 昨年の甲子園を沸かせた秋田県の金足農業高校の吉田輝星投手がプロデビューした。相手はセリーグトップの広島である。大丈夫だろうかと心配になって、テレビにかじりついた。いきなり打たれ、やっぱりプロの道は厳しいと思ったが、終わってみれば5回まで投げて、4安打1失点4奪三振の好投だった。チームも吉田投手を援護し勝利した。勝敗には何かがある。自分だけではどうしようもない、「巡り合わせ」とか「運命」みたいなものが働く。

 アジサイだってバラだって、こんな地上40メートルの屋上の強風が吹きつける場所でなければ、もっときれいに花を咲かせられただろう。申し訳ない気持ちで、出来る限り守ってやりたいと思う。子どもたちもみんな同じだな。ガンバレよと思う。

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議会を傍聴して

2019年06月13日 17時17分02秒 | Weblog

 議会の傍聴に行って来た。議員を辞めてからは、関心が薄れたこともあるが、「あら捜しに来たのか」と思われるのも癪な気がして遠のいていた。選挙でかかわった議員から、「今日、一般質問をするので、時間があれば来て」と電話をもらった。時間などは充分にあると知っての上だから、行かざるを得ない。市になって、議会モニターを設けたためか、随分と傍聴者がいた。

 6月議会のせいかも知れないが、市側と激しくやり合う議員はいない。個々の問題について、行政にどこまで取り組んでいるのかと聞く質問が多い。質問をするからには、私はこう考えるという提案があってもいいのに、現状を聞いてどうするというのだろう。全員の質問を聞かずにえらそうなことは言えないが、何だか眠くなりそうだったので、午前中で帰って来てしまった。

 ここでも高齢者問題を取り上げていた。認知症になった人の対策や高齢者の生きがいなど、緊急の課題ではあるが、高齢者となった自分としては少し憂鬱になる。放っておいてくれと言いたいが、行政としてはそんな無責任なことは出来ない。病院に行っても、スーパーに行っても、喫茶店でも、見かけるのは年寄りばかりだ。出かけられる高齢者は健康な証拠という訳だ。

 私がこのブログに、思い残すことはないが、できれば「最後の恋」に巡り合いたいと書いたことがある。すると友だちは、「いい歳して、気持ちが悪い」と言った。その時は、夢を見て何が悪いと思ったが、最近、鏡の中の自分を見て、「本当に年取った。ええ加減に、夢など忘れろ」と言いたくなる。たまに会う人が、「お元気そうですね。少しも変わりませんね」と言われると、「えっ、そんなに昔から老けていたのか」とガッカリしてしまう。

 今日はカミさんたちはゴルフに出かけた。みんな年寄りなのに元気がいい。今晩は反省会で、その時はゴルフをしない私も参加するが、飲み過ぎないようにしなくてはと思う。

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松阪市の高齢男性の主張

2019年06月12日 17時32分54秒 | Weblog

 昼過ぎだった。見上げると、青い空に真っ白な入道雲が伸びていて、ああ夏だと思わせた。ところが夕方にはまた、灰色の雲が広がってきて、風も吹いてくる。天気の変わり方が激しいと予報されていたが、まったくそんな感じだ。午前中に法務局へ出かけて行き、NPO法人の謄本をもらってきた。たくさんの人がいた。私たちがウロウロしていたら、かなりの高齢の人が手順を教えてくれた。

 何台もの公衆電話くらいの発行機が並んでいるが、どうしたらよいのかさっぱり分からない。「係りの人が教えてくれます」と言われたけれど、それらしい人は私たちのような初心者にかかわっている。終わるまで待っていようと思っていると、「どうされました?」と声をかけられた。謄本を取りに来たことを伝えると、画面を見て、「はい、ここを押して」と指示される。あっという間に謄本が出てきた。

 役所の人はみな親切だ。保健所がNPOの謄本が必要という理屈は分からないが、規則なら守る他ない。テレビで三重県松坂市の商店街で、規則を遵守するあまり商店街で嫌われ者になっている高齢の男性が取り上げられていた。男性は「道路交通法には道路に物を置いてはならないとあるのに、看板やのぼりが置かれているのは違反行為だ」と主張し、警察に撤去を申し出たが、警察が動かないので自分で移動させていた。

 商店街ではよく店先に看板や商品を並べている。それをけしからんと言うのも分からないことではない。しかし、松阪市の商店街では交通の妨げになっている様子ではなかった。私も昔、隣町の議員に頼まれて、「道路に、はみ出して商品を並べるのはいかがなものか」という一般質問の文章を書いたことがあるが、「ほどほどならいいのではないの」と言ってみたが、その議員も聞く耳を持たなかった。

 規則を遵守することは大切なことだけれど、仇のように追い詰めることも無い気がする。みんなが嫌がることはすべきではないが、無理強いするのは恐怖に近い。人は決して完璧には生きられない。許す余裕が欲しいと思う。この高齢の男性はどんな生活をしてきたのだろうと、そのことが気になった。

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どうしてこんなミスが起きるのか?

2019年06月11日 17時20分29秒 | Weblog

 やっぱり飲みすぎ、食べすぎたようで、なんとなく身体が重い。一日中眠っていたい、そんな気分なのに、実際はなかなか眠っていられない。午後は雨になるようなので、降ってくる前にルーフバルコニーの掃除をする。ぼんやりとテレビを見ていたら、金融庁の報告書をめぐって国会でもめていた。年金だけでは毎月5.5万円足りないので、95歳まで生きると2千万円必要となるらしい。

 安倍首相は「この報告書は誤解を招く」と指摘するが、「百年安心プランは揺るぎない」と言う。野党のヤジがやかましくて、何が問題なのかよく分からない。民放では、金融庁の報告書は資産運用を勧めているのだと解説していた。誰もが安心して暮らせる社会の仕組みを作ることが政治の役割なのに、政府は政策に都合の良い資料しか出さないようだ。

 防衛省は地上配備型迎撃システム「イージス・アショア」の候補地の「調査に誤りがあった」と認めた。不適切な報告書や間違った調査がなぜ出てくるのだろう。役所というところはとても厳しい。私たちは市の夏祭りに協力して屋台を出してきた。1つはNPOで、もう1つは仲良しグループで参加してきたが、NPOについてはとても厄介だ。NPOが存続していることを証明する「謄本」を持って行かなくてはならない。

 1年に1回の夏祭りのために、こんなに手間とお金がかかるなら、NPOで申請せずに市民グループにしておけばよかったと担当者は嘆く。食べ物を扱うのだから、それなりに厳しいことは理解できるが、いったい何のために祭りに参加しているのだろうと思えてくる。それでも、きちんとルールに従うべきだと思う。だからこそ、ルールはみんなが納得するものでなくてはならない。

 都合の良いデーターを出して民意を誘導すれば、確かに結果としては効果があるだろう。箪笥貯金をやめて投資に回すかも知れないし、迎撃システムの配置を受け入れるかも知れない。それで本当にみんなが幸せになれるのだろうか。みんなが納得できることが一番大事で、それならそれでいいと思う。

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夫婦の基本は我慢⁈

2019年06月10日 16時08分16秒 | Weblog

 梅雨入りしたのだから、朝から雨降りでも仕方ないが、洗濯物が家の中に干してあるのは鬱陶しい光景である。洗濯機には乾燥機もついているが、「何か匂うから」とカミさんは使わない。天気が回復するまで待つという選択肢もあるが、毎日、洗濯機を回さないではいられないようだ。そうであるなら、朝早くから洗濯機を動かせばよいのに、そういう段取りにはなっていない。

 午後からジムに出かけるので、どうしても体操着やタオルを帰ってから洗いたいのだ。節約家なので、一度にやった方が効率的と考えている。洗濯物が少ない方がきれいに洗えると、私が朝のうちに洗濯機を回して干しておくと、「一緒に洗えば節約できるのに」と私の行為を不思議がる。灯りもつけずに掃除や料理をするから、私が電灯を点けると、以前は「電気代がもったいない」と言っていたが、最近は「ありがとう」と言ってくれるようになった。

 テレビドラマで、「長年連れ添ったから、夫婦は理解できるということでは無いのよ。理解し合うことは無理だけど、でも我慢することは出来るわよ」というセリフがあった。ああ、なるほどと思った。私の友だちは大方、「男子厨房に入らず」と育った世代だが、意外に料理をする人が多い。カミさん方に言わせると、「やってくれるのは嬉しいけど、お金をかけすぎる」とか、「後片付けが大変」と嘆く。それでも「3食作るのは大変だから、ありがたい」ようだ。

 亭主関白だった夫が、台所に立つようになったのも、そういう時代だからだろう。周りがそうであれば、恥ずかしいとか、みっともないなどと思わなくなる。会社人間の男はいつまでも、「あいつはノウナシだ」「あいつは使えない」と他人を評価してしまうが、カミさんからどんな評価が下されているかは知らない。知れば、たちまち夫婦喧嘩になり、「一生口もきかん」ということになりかねない。知らない方が幸せなことなのかも知れない。

 今晩は誕生日会の飲み会。どんな話が飛び出すのだろう。

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楽しませる混声合唱コンサートだった

2019年06月09日 17時46分05秒 | Weblog

 友だちが参加している混成合唱のコンサートに出かけた。自分が主催者の時、「ぜひ、来てください」と呼び掛けておきながら、都合が悪くもないのに行かないのは義理に反する。今日は行って、「よかった」と思った。多分、どんな集会でもそうなのだろうが、入場者層は主催者に似る。入場者はかなり多かったが、ほぼ私と同年と思われた。

 コンサートは3部に分かれていて、1部は昭和・平成の流行歌、2部は中山晋平の童謡、3部はオペラの名曲を歌った。1部を聞いた時、ハーモニーが合わなくて大丈夫かと心配した。歌が進むにつれて、落ち着いてきて安心できたが、ビックリしたのは、地元の素人村芝居の人たちやダンスクラブの女性たちが現れ、芝居をしたりダンスをしたりして楽しませてくれたことだ。

 かしこまった合唱曲をもったいぶって歌われても、美しさが無ければ感動は生まれない。にぎやかに楽しく、目先が変わる趣向に観客席も満足な様子だった。ゲスト演奏はフルート、サクソフォン、ファゴット、トランペット、ピアノの若い女性グループで、老練な演奏ではない若さに溢れていた。演奏したのはムソルグスキーの『展覧会の絵』、私は中学の時を思い出して聴いていた。

 放送部は学校で下校を促す放送などを担当した。放送室には夥しいレコードが置いてあった。私は放送劇がしたくて、自分でシナリオを書き、劇中で使用する音楽を探して毎日レコードを聴いていた。古典派の音楽とロマン派の音楽の違いもその時に気が付いた。絵画に自然主義があるように、音楽も聴いていると情景が浮かんでくる作り方があることを知った。初恋の人を巻き込むために放送劇を考えていたのに、彼女にその気がなくて頓挫してしまった。私の邪悪な企てはいつもうまくいかない。

 ロビーでたくさんの人に出会った。みんな元気だ。しかし歳を取った。歌を歌ったり、演劇や朗読をしたり、絵を描いたり、版画を掘ったり、短歌や俳句を考えたり、そればかりか農地を借りて野菜を作ったり、ボランティアに精を出したり、とにかく私の周りの年寄りは忙しく毎日を送っている。

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