それにしてもこの週末の台風は、関西から中部地方にかけて、稀に見る暴風雨をもたらしました。学生時代、毎日の通学で通り過ぎた京都・桂川や(な~んてまるで毎日通学していたかのように言うのは誇大広告)、毎年のように学園祭をさぼって遊びに行った渡月橋の様子は、今日、たまたまお会いした母校の大学の教授によると80数年振りとのことでしたが、ちょっとショッキングでした。
そんな酷い雨風も通り過ぎてしまえば、何もなかったかのようにケロッとして、ビックリするくらいですが、それこそが自然の厳しさであり、懐の深い優しさでもあるのでしょう。私たち人間も、その時には自然の猛威に畏怖し、家屋や周囲の建造物の倒壊など生活環境の破壊に直面して愕然とするわけですが、やがて何もなかったかのように逞しく、いつもの生活に戻って行く・・・東日本大震災からの復旧もそうだとは言いませんが、日本人にとって、地震・台風などの自然災害に対する基本的な心構えは、身をかがめてやり過ごすものであり、自然に対する基本的な心構えは、対立するものではなく人間を自然の一部となして共生するものだと思います。そして日本人にとって、自然以外の世の中のさまざまな事象に対する基本的な心構えも、似たようなものではないかと、つらつら思いました。
というのは、中国や韓国が、最近、歴史問題と総称する言いがかりについても、日本人は嵐と同じように一時的なものとして適当にやり過ごせば後はうまく行く、いわば柳に風と流している節があると思うからです。根底には自然と共生できると達観するような性善説があります。ところが中国や韓国は、日本が想定する通りには行きません。とりわけ民主党政権の三年間に(と、保守派は非難します)、どんどんエスカレートして、前・韓国大統領は竹島に上陸し、今や現・韓国大統領は加害者と被害者の立場は1000年経っても変わらないなどと放言し、他方、中国は尖閣諸島が核心的利益であり日本に奪われたものだと放言し、さらには沖縄をも奪取せんと目論んでいたりする始末です。しかしその場しのぎの事勿れの対応は民主党政権に限ったことではなく、既に自民党政権において長い譲歩の歴史がありました。今年7月に発足した「慰安婦の真実」国民運動(加瀬英明代表)は、慰安婦騒動を泥沼化させた根源といえる「河野談話」(1993年8月)の撤廃を求める署名3万867人分を国に提出するとともに、近く河野洋平氏個人を提訴する考えも明らかにしたそうです(産経新聞だからこそ取り上げた記事なのでしょうが)。
こうした日・中・韓の関係は、世界の常識と比べれば明らかに異質です。英・キャメロン首相は、今年2月、かつての植民地インドを訪れ、北部パンジャブ州で起きた「アムリトサル虐殺事件」(1919年、集会のインド人群衆に英軍が発砲し数百人の死者が出たもの)の現地で犠牲者の慰霊碑に参拝したとき、「英国史において深く恥ずべき出来事。われわれは決して忘れてはならない」と記帳したけれども「謝罪」することはなく、「私が生まれる40年以上も前に起こったことにどう対処すべきなのか。私がすべきことは歴史をさかのぼって謝罪できることを探すのではなく、起きたことについて敬意と理解を示すことだ」と述べたそうです。エリザベス女王がインドを訪問したときも、フランスのミッテラン大統領がベトナムを訪問したときも、またオランダのベアトリックス女王がインドネシアを訪問したときも、同様の対応だったといいます。当然ですね。
呉善花さんが面白い譬えをしていました。韓国の国花ムクゲは、夏から秋にかけて咲き、なかなか花を落とさず咲き続ける、この粘り強さが国民性と同じだと言うわけです。他方、日本の国花・サクラは、一時にパッと咲いてパッと散る潔さが身上です。果たして日本人はいつからこのようなサクラを愛でるようになったのか興味がありますが(Wikipediaによると、「中国文化の影響が強かった奈良時代は和歌などで単に『花』といえば梅をさしていた」「その後平安時代に国風文化が育つに連れて徐々に桜の人気が高まり、『花』とは桜を指すようになる」とあり、まさに日本的なるものの本領であることが分かります)、いずれにせよ同じ北東アジアの同朋と思わない方が良いのでしょう。
そんな酷い雨風も通り過ぎてしまえば、何もなかったかのようにケロッとして、ビックリするくらいですが、それこそが自然の厳しさであり、懐の深い優しさでもあるのでしょう。私たち人間も、その時には自然の猛威に畏怖し、家屋や周囲の建造物の倒壊など生活環境の破壊に直面して愕然とするわけですが、やがて何もなかったかのように逞しく、いつもの生活に戻って行く・・・東日本大震災からの復旧もそうだとは言いませんが、日本人にとって、地震・台風などの自然災害に対する基本的な心構えは、身をかがめてやり過ごすものであり、自然に対する基本的な心構えは、対立するものではなく人間を自然の一部となして共生するものだと思います。そして日本人にとって、自然以外の世の中のさまざまな事象に対する基本的な心構えも、似たようなものではないかと、つらつら思いました。
というのは、中国や韓国が、最近、歴史問題と総称する言いがかりについても、日本人は嵐と同じように一時的なものとして適当にやり過ごせば後はうまく行く、いわば柳に風と流している節があると思うからです。根底には自然と共生できると達観するような性善説があります。ところが中国や韓国は、日本が想定する通りには行きません。とりわけ民主党政権の三年間に(と、保守派は非難します)、どんどんエスカレートして、前・韓国大統領は竹島に上陸し、今や現・韓国大統領は加害者と被害者の立場は1000年経っても変わらないなどと放言し、他方、中国は尖閣諸島が核心的利益であり日本に奪われたものだと放言し、さらには沖縄をも奪取せんと目論んでいたりする始末です。しかしその場しのぎの事勿れの対応は民主党政権に限ったことではなく、既に自民党政権において長い譲歩の歴史がありました。今年7月に発足した「慰安婦の真実」国民運動(加瀬英明代表)は、慰安婦騒動を泥沼化させた根源といえる「河野談話」(1993年8月)の撤廃を求める署名3万867人分を国に提出するとともに、近く河野洋平氏個人を提訴する考えも明らかにしたそうです(産経新聞だからこそ取り上げた記事なのでしょうが)。
こうした日・中・韓の関係は、世界の常識と比べれば明らかに異質です。英・キャメロン首相は、今年2月、かつての植民地インドを訪れ、北部パンジャブ州で起きた「アムリトサル虐殺事件」(1919年、集会のインド人群衆に英軍が発砲し数百人の死者が出たもの)の現地で犠牲者の慰霊碑に参拝したとき、「英国史において深く恥ずべき出来事。われわれは決して忘れてはならない」と記帳したけれども「謝罪」することはなく、「私が生まれる40年以上も前に起こったことにどう対処すべきなのか。私がすべきことは歴史をさかのぼって謝罪できることを探すのではなく、起きたことについて敬意と理解を示すことだ」と述べたそうです。エリザベス女王がインドを訪問したときも、フランスのミッテラン大統領がベトナムを訪問したときも、またオランダのベアトリックス女王がインドネシアを訪問したときも、同様の対応だったといいます。当然ですね。
呉善花さんが面白い譬えをしていました。韓国の国花ムクゲは、夏から秋にかけて咲き、なかなか花を落とさず咲き続ける、この粘り強さが国民性と同じだと言うわけです。他方、日本の国花・サクラは、一時にパッと咲いてパッと散る潔さが身上です。果たして日本人はいつからこのようなサクラを愛でるようになったのか興味がありますが(Wikipediaによると、「中国文化の影響が強かった奈良時代は和歌などで単に『花』といえば梅をさしていた」「その後平安時代に国風文化が育つに連れて徐々に桜の人気が高まり、『花』とは桜を指すようになる」とあり、まさに日本的なるものの本領であることが分かります)、いずれにせよ同じ北東アジアの同朋と思わない方が良いのでしょう。