風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

シン・ゴジラ

2016-09-23 00:41:43 | スポーツ・芸能好き
 最新の「ゴジラ」を観た。1954年に誕生してから62年、シリーズ29作目、ハリウッド版を除いて日本のゴジラ製作は12年ぶりだそうである。そろそろブログに書いても、ネタバレを心配することもないだろうか・・・今度の「ゴジラ」は、周知の通り、お子様向け「怪獣映画」ではなく、これまでのシリーズとは一線を画している。これまでは何だかんだ言ってゴジラが主役だったが、今回は恐らく「怪獣」という言葉は映画の中で一度も出てこない代わりに、「巨大不明生物」呼ばわりされ、後景に引いている印象だ。エグゼクティブ・プロデューサー山内章弘氏は「ゴジラという題材でどういうことを描こうとするか。政治劇なんです。ポリティカルドラマ」と語り、それが実に良く出来ていて、大のオトナに好評だ。
 ポスターには「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」とある。確かにゴジラは飽くまでゴジラ、海洋投棄された核廃棄物を代謝できるよう適応・進化した深海生物という設定の、虚構の「巨大不明生物」であり、立ち向かうのは現実のニッポン、ニッポンという国を背負う虚栄心にまみれ途轍もなく頭は切れるが自分たちにしか通じない専門用語を立て板に水の如くまくしたて縦割り組織の中で自らの責任のみ全うしてよしとする鉄壁の官僚機構と、票とカネしか頭にないふやけた政治である。しかし、そのどうしようもないニッポンが、未曾有の危機に直面する中で、化ける。立ち上がるのは、年功序列の政治家でも御用学者でもなく、奇人・変人ともいうべき若手研究者や若手政治家・官僚たちだ。なかなか痛快である。
 モチーフは、東日本大震災に伴う“未曾有”の福島第一原発事故だろう。何を決めるにもまずは会議からという悪習、官僚による会議での閣僚に対する「メモ出し」の様子、「どこの部署に対して言っているんだ」という言い方に象徴されるような省庁間の煩雑な調整、記者会見前に防災服を手配するエピソード・・・「シン・ゴジラ」に出てくる内閣府や各省庁の官僚たちがテンポ良く映し出されるシーンは、あの当時の経産省、原子力安全・保安院(当時)、内閣府、文科省、東京電力などの様子によく似ているというジャーナリストの声がある。緊急災害対策本部の設置、都知事からの治安出動による有害鳥獣駆除要請、初の防衛出動、無制限の武器使用許可、等々、展開は驚くほどリアルで、現実の官僚たちも注目したようだ。そう、今度の「ゴジラ」では、普段はなかなか固有名詞が出てこないような若手政治家・官僚や自衛官が主役なのである。
 この映画ではいろいろな問いかけが仕掛けられ、興味深く仕上がっている。「シン・ゴジラ」の「シン」は、「新」であり、「真」でもあり、また「神」でもあるのだそうだ。先の山内氏は、いろんな想像をしてほしいという意味でこういうタイトルにしたと語っているが、実際、いろいろな人が様々に好き勝手に語っていて、そんな議論を誘発する包容力ある曖昧さが実にいい。例えば・・・

 自民党の石破茂元防衛相は、ゴジラの襲来に対して、何故、自衛隊に防衛出動が下令されるのか、どうにも理解が出来なかったと述べておられる。「いくらゴジラが圧倒的な破壊力を有していても、あくまで天変地異的な現象なのであって、『国または国に準ずる組織による我が国に対する急迫不正の武力攻撃』ではないのですから、害獣駆除として災害派遣で対処するのが法的には妥当なはず」とのご指摘である。

 A.T.カーニー日本会長の梅澤高明氏は、「巨大不明生物特設災害対策本部」、通称「巨災対」が組織されて以降、危機対応における極めて理想的なオペレーションが展開されて行くことに注目され、その要素を三つに整理される。一つ目は、「巨災対」が実力主義の専門家で組織されていること(その多くは、通常であれば組織の中で浮いてしまうような異端児的な扱いづらい人材である)、しかも省庁横断かつ学者も交えた官学横断というように、実力を基準に組織の壁を超えてチームを作ること、二つ目に、優れた現場リーダー(「巨災対」事務局長の内閣官房副長官)に権限を委譲し集中させたこと、三つ目に、トップ(総理大臣臨時代理)がこうした体制を構築した後、しっかりと現場をバックアップしたこと(閣僚11人が亡くなり、派閥の年功序列で就任した臨時総理大臣は、途中までは無能なトップの象徴として描かれているが)、この三つが揃うことが、巨大プロジェクトを成功させるために必要な要素という。もっともシン・ゴジラのような状況では、容易に問題意識や危機意識を共有できるので、機能しやすいだろう。その他、あのプロジェクトが成功した要因として、オープン・イノベーション(ゴジラのデータを外部に広く提供し世界中の知恵を集める)と、その結果としてのクリエイティブな作戦(八塩折(ヤシオリ)作戦)、そして作戦の実行を支えた現場力(自衛隊と米軍、さらに民間企業も含め)だとも言う。ビジネス・パーソンとして、このあたりの組織論的な見方には大いに共感するところだ。

 一般社団法人ガバナンスアーキテクト機構研究員の部谷直亮氏は、本作に日本人ならではの労働観を認めておられる。「巨災対」メンバーは、食事はお茶とお握りとカップうどんで、不眠不休で働きづめ、リーダーは風呂にも入らずワイシャツも変えないのを難詰される場面もある。時間との勝負なので止むを得ないのだが、全体のために一心不乱に働く姿を美しいと感じるのが日本人だ。しかし、戦争において睡眠不足と栄養不足と不衛生を極めた集団がどのような結果になるかは、太平洋戦争の中盤以降の悲惨で無残な各戦線における展開を見れば明らかだと、部谷氏は手厳しい。現代の自衛隊でも、日米合同演習を行うと、自衛官側が不眠不休かつ戦闘糧食で短期的には圧倒するのだが、米軍側は規則正しいシフトで十分な睡眠と温かい食事をとって長期的に優位に立つということが繰り返されていたという。睡眠には「辛い出来事からのショック」を癒し、「混乱する思考」を整理し、やる気と元気を回復する機能がある。もしも映画の中で「巨災体」が三交代制で規則正しく業務を行い、リーダーが定期的に睡眠をとって熱い風呂に入り、チーム全員が高級なカツサンドや天丼、すき焼き弁当、高級アンパンなどを頬張りながら対策を練っていたら、観客は感情移入できず、共感も感動もなかっただろうと断りつつ、実際上、今の日本に必要なのは合理的な危機管理の運用であると主張される。防衛省内局・自衛隊に蔓延する慢性的な寝不足問題を解決し、国民は危機時のリーダーやスタッフには粗衣粗食ではなく「結果」をこそ求めていくべきである、と。

 また部谷氏は、官民連携した軍事作戦についても注目される。本作では、「MQ-9リーパー無人機による六次にわたる波状攻撃、無人新幹線および在来線爆弾、トマホーク巡航ミサイルと仕掛け爆弾によるビル倒壊攻撃でゴジラを行動不能に追い込み、製薬会社に急きょ大量生産させた血液凝固剤を、これまた民間のコンクリートポンプ車で飲み込ませて機能停止に追い込む」のだが、こうした最新技術と在来の装備をミックスして新たな作戦構想で運用するという発想は、最近の米国・国防総省が目指す方向性と重なっているのだそうだ。2012年に、その具体的な運用方法を模索するために創設された「戦略能力室」によると、「すでにある民間などの技術を新しい作戦構想と結びつけて、実戦で即座に使えるようにする(中略)理想は第2次世界大戦初期のドイツの電撃戦だ。ドイツは、当時としては約20年前に初めて実戦投入された飛行機や戦車、無線を上手に組み合わせることで欧州を征服した(後略)」つまり、今や軍事よりも先を行く民生技術や民生品を在来兵器と組み合わせる発想と作戦構想が、今の時代に求められている、というわけだ。

 監督・特技監督を務めた樋口真嗣氏は「住民たちがどうすることもできない国難が起こったとき、守り、支えてくれる人たち、ちゃんと仕事をする人たちを撮ろう、という気持ちがありました。組織として間違っていることもあるけれど、そこにいる真面目な人たちを真面目に描きたかった」と語っている。
 確かに、私は、この映画の根底に制作者たちが抱く「信頼」のメッセージを読み取った。一つは、科学・技術への「信頼」である。ゴジラは、海洋投棄された核廃棄物を代謝できるよう適応・進化した深海生物という設定で、体内に原子炉状の器官をもち、そこからエネルギーを得る、言わば生ける原子力発電所である。それを徒らに恐れ遠ざけることなく、一時的とは言え抑え込むのは、アメリカ的な巨大な「力」よりも前に、先ずはニッポンの科学・技術力なのだ。もう一つは、ニッポンがもつ底力への「信頼」である。それは自衛隊への「信頼」であり、若い人たち(政治家や官僚や研究者など)への「信頼」であり、よく言われる「現場」の強さへの「信頼」である。ごくありふれたものながらも、効果的に挿入されることによって印象に残るフレーズがいくつも登場する。例えば、正確な言い回しではないが、「自衛隊はこの国を守ることが出来る最後の砦」と言って涙を誘い、「根拠のない希望的観測がかつて破滅に追いやった」「ニッポンはずっとアメリカの属国」だが、「現場が強い」ニッポンは「スクラップ&ビルドでやってき」て、「若くて有能なやつが多い」「ニッポンはまだまだやれる」のである。
コメント (2)
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