結論から先に言ってしまうと、最近、中国は尖閣問題を領土問題から歴史問題に格上げし、韓国もまた頻りに歴史認識を問うようになりましたが、これは、かつて戦後レジームからの脱却を謳い、今、過去の植民地支配と侵略に「痛烈な反省とお詫び」を表明した「村山談話」を見直し、ひいては憲法9条を含む憲法改正を目指す安倍政権への牽制に他なりません。中・韓が、安倍総理を戦後歴史のリビジョニスト、戦後秩序への挑戦と見立て、欧米とりわけアメリカを味方に引き入れて、憲法改正を阻止する試みではないかと思うわけです。つまり中・韓は憲法9条改正を恐れているのではないか。私のただの妄想ですが。
堤堯さんの「昭和の三傑~憲法九条は「救国のトリック」だった~」(集英社文庫、原著は、2004年、集英社インターナショナル刊)を読みました。憲法9条と言えば、第一項に「戦争放棄」を謳い、これ自体は不戦条約(1928年)にも見られ、目新しいものではありませんが、第二項の「戦力放棄」は、あの南原繁(貴族院議員、のち東大総長)氏が「人類ある限り、戦争は歴史の現実だ。この現実を直視して、少なくとも国家の自衛権と兵力を備えるのは当然だ」と主張した(後に、自衛隊の創設には反対して、吉田茂から「曲学阿世の徒」呼ばわりされた)ように驚愕を以て迎えられた、いわくつきの条項です。発案者はGHQ総司令官マッカーサーで、天皇制存続と引き換えに「押し付けた」もの、とするのが定説ですが、堤氏は、幣原喜重郎の発案、いわば“入れ知恵”であり、つまりは9条は「詫び証文」ではなく、早期講和=主権回復のために差し出す「非戦の証文」だったと主張されます。幣原を継いだ吉田茂は、「戦争放棄はマックが言い出した」と示唆し、それを盾にして、特使ダレス国務省顧問(後に国務長官)の執拗な再軍備要求を強く拒み続け、結果として、日本は朝鮮戦争にもベトナム戦争にも行かずに済み、軽武装で、経済復興に邁進することが出来ました。その吉田茂はしかし先を見通してこうも述べているそうです。「知恵のない奴はまだ占領されていると思うだろう。知恵のある者は番兵を頼んでいると思えばいい。しかしアメリカが引き揚げると言い出すときが必ず来る。そのときが日米の知恵比べだよ」。更に晩年には「自分の国は自分で守らなくちゃいけません。どうですか、ここらで日本も核武装の一つも考えてみては」と発言して「反動政治家」と叩かれ、「いったん決まったことを変えるのが、これほど難しいとは思わなかった」(「大磯随想」)と、後悔ともつかぬことを呟いているそうです。憲法9条は日米安保と相俟って、日本人の「精神の自立」を失わせた負の遺産だったと批判する声が多いのは事実ですが、それは飽くまで後知恵であり、三傑(鈴木貫太郎、幣原喜重郎、吉田茂)にとって、とりわけ憲法9条二項は、日本の真の自立を目指し、敗戦処理外交を真摯に進める中で使った方便、標題にあるように「救国のトリック」であり(トリックをかけた相手は、言うまでもありません、知恵を授けて花を持たせたように見えたマッカーサー元帥その方です)、後世に改めることを託した「当用の時限立法」だった、というわけです。
憲法改正を巡っては、「押しつけ」憲法だから(無効とまでは言わないまでも)自分たちの手で改正すべし、と主張する改憲論者がいるように、仮に「押しつけ」でも良いものは良いと開き直る護憲論者もいて、不毛な議論になりがちです。ところが、「押しつけ」ではなく、日本人の発案で、主体的に選択したものだったとすると、憲法9条が日本人の「精神の自立」を失わせた負の遺産だという厳然たる事実は変わらないものの、違った視界が開けてくるような新鮮な驚きを覚えます。何より、当時の「三傑」をはじめとする知性と比べ、戦後60年以上もの長きにわたって、同じ敗戦国ドイツは毎年のように憲法改正して来たのに比べ、我が国は一度も憲法を改正しなかった知的怠慢は明らかであり、アメリカによる金縛りに遭ったと言い訳できず、ひとえに国民の責に帰すべき事由に転化されてしまいます。
こうして、戦後憲法が、日本人の発案で、主体的に選択したものだったことが分かっていれば、先日、麻生さんが、結局、何が言いたかったのかよく分からない講演の中で、辛うじて、「狂騒の中で」「狂乱の中で」「喧騒の中で」「騒々しい中で」「(憲法改正を)決めてほしくない」という、私たちにもなんとか伝わったメッセージ通りに、もう少しまともに実現できていたかも知れません。
堤さんの本書は、先の戦争の終結を巡る様々のエピソードが満載で興味深い上に、標題の論証は刺激的で、憲法改正論議に複眼的な視点を与えてくれる好著と思います。
堤堯さんの「昭和の三傑~憲法九条は「救国のトリック」だった~」(集英社文庫、原著は、2004年、集英社インターナショナル刊)を読みました。憲法9条と言えば、第一項に「戦争放棄」を謳い、これ自体は不戦条約(1928年)にも見られ、目新しいものではありませんが、第二項の「戦力放棄」は、あの南原繁(貴族院議員、のち東大総長)氏が「人類ある限り、戦争は歴史の現実だ。この現実を直視して、少なくとも国家の自衛権と兵力を備えるのは当然だ」と主張した(後に、自衛隊の創設には反対して、吉田茂から「曲学阿世の徒」呼ばわりされた)ように驚愕を以て迎えられた、いわくつきの条項です。発案者はGHQ総司令官マッカーサーで、天皇制存続と引き換えに「押し付けた」もの、とするのが定説ですが、堤氏は、幣原喜重郎の発案、いわば“入れ知恵”であり、つまりは9条は「詫び証文」ではなく、早期講和=主権回復のために差し出す「非戦の証文」だったと主張されます。幣原を継いだ吉田茂は、「戦争放棄はマックが言い出した」と示唆し、それを盾にして、特使ダレス国務省顧問(後に国務長官)の執拗な再軍備要求を強く拒み続け、結果として、日本は朝鮮戦争にもベトナム戦争にも行かずに済み、軽武装で、経済復興に邁進することが出来ました。その吉田茂はしかし先を見通してこうも述べているそうです。「知恵のない奴はまだ占領されていると思うだろう。知恵のある者は番兵を頼んでいると思えばいい。しかしアメリカが引き揚げると言い出すときが必ず来る。そのときが日米の知恵比べだよ」。更に晩年には「自分の国は自分で守らなくちゃいけません。どうですか、ここらで日本も核武装の一つも考えてみては」と発言して「反動政治家」と叩かれ、「いったん決まったことを変えるのが、これほど難しいとは思わなかった」(「大磯随想」)と、後悔ともつかぬことを呟いているそうです。憲法9条は日米安保と相俟って、日本人の「精神の自立」を失わせた負の遺産だったと批判する声が多いのは事実ですが、それは飽くまで後知恵であり、三傑(鈴木貫太郎、幣原喜重郎、吉田茂)にとって、とりわけ憲法9条二項は、日本の真の自立を目指し、敗戦処理外交を真摯に進める中で使った方便、標題にあるように「救国のトリック」であり(トリックをかけた相手は、言うまでもありません、知恵を授けて花を持たせたように見えたマッカーサー元帥その方です)、後世に改めることを託した「当用の時限立法」だった、というわけです。
憲法改正を巡っては、「押しつけ」憲法だから(無効とまでは言わないまでも)自分たちの手で改正すべし、と主張する改憲論者がいるように、仮に「押しつけ」でも良いものは良いと開き直る護憲論者もいて、不毛な議論になりがちです。ところが、「押しつけ」ではなく、日本人の発案で、主体的に選択したものだったとすると、憲法9条が日本人の「精神の自立」を失わせた負の遺産だという厳然たる事実は変わらないものの、違った視界が開けてくるような新鮮な驚きを覚えます。何より、当時の「三傑」をはじめとする知性と比べ、戦後60年以上もの長きにわたって、同じ敗戦国ドイツは毎年のように憲法改正して来たのに比べ、我が国は一度も憲法を改正しなかった知的怠慢は明らかであり、アメリカによる金縛りに遭ったと言い訳できず、ひとえに国民の責に帰すべき事由に転化されてしまいます。
こうして、戦後憲法が、日本人の発案で、主体的に選択したものだったことが分かっていれば、先日、麻生さんが、結局、何が言いたかったのかよく分からない講演の中で、辛うじて、「狂騒の中で」「狂乱の中で」「喧騒の中で」「騒々しい中で」「(憲法改正を)決めてほしくない」という、私たちにもなんとか伝わったメッセージ通りに、もう少しまともに実現できていたかも知れません。
堤さんの本書は、先の戦争の終結を巡る様々のエピソードが満載で興味深い上に、標題の論証は刺激的で、憲法改正論議に複眼的な視点を与えてくれる好著と思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます