十月廿二日於左大辨紀飯麻呂朝臣家宴歌三首
十月時雨の常か我が背子が宿の黄葉散りぬべく見ゆ
(かむなづき,しぐれのつねか,わがせこが,やどのもみちば,ちりぬべくみゆ)
右一首少納言大伴宿祢家持當時矚梨黄葉作此歌也
(万葉集~バージニア大学HPより)
十月二十日余りなれば、峰の嵐はげしく吹き払ひて、四方(よも)の木の葉もきほひ顔なる山の色々、少しうち時雨たる雲の絶え間の日影さへ、けはひ物寂しきに、(略)
(松浦宮物語~小学館・新編日本古典文学全集)
未の時ばかりに楽人参る。「万歳楽」、「皇じやう」など舞ひて、日暮れかかるほどに、高麗の乱声して、「落蹲」舞ひ出でたるほど、なほ常の目馴れぬ舞のさまなれば、舞ひ果つるほどに、権中納言、衛門督下りて、「入綾」をほのかに舞ひて、紅葉の蔭に入りぬる名残、飽かず興ありと人々思したり。
(源氏物語・若菜上~バージニア大学HPより)
廿七日、皇后宮の御かたへいらせおはしまして、日の御座の御つぼのもみぢ、御覽ぜさせおはします。女房たちも、みぎはにちりつもりたるなどたちいでゝみる。「おもふことかなふといはゞ、あのちりたるもみぢのかずかぞへてんや。」と、人々おほせられしかば、少將内侍、
もみぢばの數をかぞへて流すとも思ふ心はえやはゆくべき
今も風にちりみだるゝ程、なほいとおもしろくて、「袖にうけん。」など、人々おほせられしに、こんらうのみうらの上卿にて、つちみかどの中納言別當のさきことごとしくきこえしに、おどろきてみなうちへ入侍し。なごりおほくて、辨内侍、
おとづれて聞ゆるさきの追風に散もみぢばをみすてゝぞ行
(弁内侍日記~群書類從18)
神無月(かむなづき)の末つ方(かた)、残る木末(こずゑ)なく、庭の落葉(おちば)もやうやう枯れゆくころ、御前(まへ)近き小木(こぎ)の楓の一本(もと)、ほかの散りなん後(のち)にとや、花ならでも語らひ置き給ひけん、いと盛りなるを折らせ給ひて、をかしき絵どもなど、一品宮へ奉らせ給へり。紅(くれなゐ)の薄様に
思ひやる深き心も紅葉葉(もみぢば)の千入(ちしほ)の色によそへてぞ見る
(略)ありつる御返り、紅葉(もみぢ)重ねの薄様に、深く移ろひたる菊の枝につきて、
紫の一本(もと)ゆゑの菊の花深き紅葉(もみぢ)の色に劣らず
(恋路ゆかしき大将~「中世王朝物語全集8」笠間書院)
都の西に赴くままに、嵯峨野の原すさまじう、小倉山はかき暮れて、嵐山は吹き払ひたり。紅葉(もみぢ)の枯れ葉井堰(ゐせき)に残りて、川浪はげしう、筏(いかだ)の上にもかつとぢ重ぬる汀の氷など、言ひ知らずすごし。日中の行(おこ)なひの果つるにや、行学(ぎゃうがく)の鈴(れい)の声、あはれに澄みて、心細き事の例(ため)しなり。(略)
月待ち出でて法輪へ参り給ふ。内(うち)よりのままなれば、御直衣姿目立たしく、狩の御衣(ぞ)の用意もなくて、わりなき稀(まれ)の細道をわけ給ふほど、泣きぬべき御供の人々の足の冷たさなり。やや入るままに雪深く、櫟谷(いちたに)の明神のほとり、うとましげなる森しげくて、月の光も漏る絶え間稀(まれ)なり。さすがに凍こほ)り残るにや、谷の下水の岩くぐる音(おと)も心細うもの悲しげにて、はては山路に迷ひぬるにや、行く先も見えずなりぬるを、しひて辿(たど)り参り給へれば、後夜(ごや)の懺法のほどなり。(略)雪はこの夕方より降り止(や)みぬれば、明星(みょうじゃう)赫奕(かくやく)として東(ひんがし)の空に出で給へる、頼もしう尊し。
(略)後戸(うしろど)の方(かた)の軒の垂氷(たるひ)、玉の簾(すだれ)かともあやまたるるほどなるを、御供の人どもも興じあへり。(略)月はいよいよ澄み昇りて、三千里の外(ほか)、白妙(しろたへ)に見わたされたる眺めの末、坊どもの垣根のうちも、何の世をわたらんとかいこごめ領(りゃう)ずらむと、あはれにはかなう見おろされ給ふ。
(恋路ゆかしき大将~「中世王朝物語全集8」笠間書院)
二十日余日の月傾(かたぶ)きて、空は雲もなく晴れたるに、友呼びわたる雁の音(ね)も、忍びがたきこと多かり。都より少しほど遠き方なれば、有明の月とともにはるばると過ぎ行く道すがら、心強く思ひきりぬれど、故郷の空を返り見れば、はるかに霞みてそことも見えず、峰の白雲ばかり心細くたなびきたり。
(石清水物語~「中世王朝物語全集5」笠間書院)
二十六日 庚申。天晴。 将軍家、蹴鞠ヲ御覧ゼン為ニ、永福寺ニ渡御シタマフ。御布衣御輿ナリ。供奉人ハ、立烏帽子直垂タリ。小山ノ五郎以下、此ノ芸ニ携ルノ輩ハ、布衣ヲ著ス。是レ相州、紅葉ノ林間ヲ点ジ、子細ヲ申サレ、殊ニ以テ結構ノ儀有リ。子息三郎入道真昭、今更ニ召シ出サレ、源ノ式部大夫等、祗候スルノ間、御鞠ノ後、当座ノ和歌ノ御会有リト〈云云〉。
(吾妻鏡【寛喜元年十月二十六日】条~国文学研究資料館HPより)
十月廿よ日庚申なるに。かんたちめてんじやう人まいり。あそひのかたの人も。ふみのみちの人びともめしあつめのこるなくまいりて。うた読あそびなどあり。げらうもそのみちの人はまじりたり。ごん大なごん
よろつよにいろもかはらぬさかきばのちるもみちばにゆふやかけまし
いろさむみえだにもはにも霜ふりて有明の月をてらす白菊。左衛門督〈師房〉
こよひしもくまなくてらす月かけはのこりのきくをみよと成べし。おほかれどかゝず にようばう
月かけにてりわたりたるしらきくはみかきてうへししるしなりけり。おほかれとゝめつ
月あかくおかしきよ。権大夫くちずさひに
さかきのみこそことにみえけれ
との給へはにようばう
かみかきは月ももみちもありけれと
などきこえさせかはしけり。こゝろのどかにもおはしますべけれと。あかでかへらせ給もかゝる御ありさまには。くるしげなりやとぞ
(栄花物語~国文学研究資料館HPより)
寛治六年十月廿九日、殿上逍遥ありけり。その時の皇居は堀川院なりければ、その北なる所にて、人びとあつまりたりける次第に、馬をひかせて、北陣の上をわたして、叡蘭ありけり。人びと三条猪熊にてぞ馬にのりける。頭弁季仲朝臣・頭中将宗通朝臣烏帽子直衣、そのほかの人びとは狩衣をぞきたりける。所衆・瀧口・小舎人あひしたがひけり。大井川にいたりて、紅葉の舟に乗(のり)て盃酌ありけるには、大夫季房・侍従宗輔・実隆などは年をさなかりければ、貫首の上にぞ着(つき)たりける。夜に入(いり)て、集会(しふゑ)の所にかへりて、各(おのおの)冠などしかへて内裏へまゐりて、宮の御方にて和歌を講じけり。先(まづ)盃酌ありけるとかや。むかしは此事つねの事なりけるに、中比よりたえにけり。くち惜き世なり。
(古今著聞集~岩波・日本古典文学大系)
二十一日、八橋をいでて行く。日いとよくはれたり。山もと遠き原野をわけ行く。ひるつかたになりて、もみぢいとおほき山にむかひて行く。風につれなきくれなゐ、ところどころ、くちばにそめかへてける常盤木どももたちまじりて、あをぢのにしきを見る心ちして人にとへば、宮路の山とぞいふ。
しぐれけりそむるちしほのはては又もみぢのにしき色かへるまで
この山までは、むかし見しこゝちする、ころさへかはらねば、
まちけりなむかしもこえしみやぢ山おなじしぐれのめぐりあふ世を
(十六夜日記~バージニア大学HPより)
宇津の山こゆるほどにしも、阿闍梨の見しりたる山伏行きあひたり。夢にも人をなど、むかしをわざとまねびたらむ心ちして、いとめづらかに、をかしくも、あはれにも、やさしくもおぼゆ。いそぐ道なりといへば、ふみもあまたはえかゝず。たゞやむごとなき所ひとつにぞおとづれきこゆる。
我が心うつゝともなし宇津の山夢路もとほきみやここふとて
つたかへでしぐれぬひまもうつの山なみだに袖の色ぞこがるゝ
(十六夜日記~バージニア大学HPより)
富士の山を見ればけぶりたゝず。むかし、ちゝの朝臣にさそはれて、いかになるみの浦なればなどよみし頃、とほつあふみの國までは見しかば、富士の煙のすゑも、あさゆふ、たしかに見えしものを、いつのとしよりか、たえしととへば、さだかにこたふる人だになし。
たがかたになびきはててかふじのねのけぶりのすゑの見えずなるらむ
古今の序の言葉とておもひ出でられて、
いつの世のふもとのちりかふじのねの雪さへたかき山となしけむ
朽ちはてしながらの橋をつくらばやふじの煙もたゝずなりなば
(十六夜日記~バージニア大学HPより)
二十七日、あけはなれてのち富士河わたる。あさかはいとさむし。かぞふれば十五瀬をぞわたりぬる。
さえわびぬ雪よりおろす富士河のかは風こほる冬の衣手
(十六夜日記~バージニア大学HPより)
頃は神無月、二十日あまりのことなれば、四方のもみぢも冬枯れの、遠山に見ゆる初雪を、眺めさせ給ひしに。(略)
(謡曲「小鍛冶」~岩波・日本古典文学大系)
昔左のおほゐまうち君いまそかりけるかも河のほとりに六条をいとおもしろくつくりてすみ給ひけり神な月のつこもりかたに菊の花うつろひて木くさのいろちくさなるころみこたちおはしまさせてさけのみあそひて夜あけゆくまゝにこのとののおもしろきよしほむるうたよむに(略)
(伊勢物語~バージニア大学HPより)
さながら明け暮れて廿よ日なりにたり。明くれば起き暮るれば臥すをことにてあるぞ、いとあやしくおほゆれど、今朝はいかゞはせん。今朝も見出だしたれば、屋(や)の上の霜いと白し。童べ、昨夜(よべ)の姿ながら、「霜朽ちまじなはん」とてさわぐもいとあはれなり。「あな寒(さむ)。雪はづかしき霜かな」と、口おほひしつゝ、かゝる身を頼むべかめる人どもの、うち聞こえごち、たゞならずなんおぼえける。
神無月も、せちに別れを惜しみつゝすぎぬ。
(蜻蛉日記~バージニア大学HPより)
十月晦日の日、ものへまかりけるに時雨のしけれは 道信朝臣
しくれするこよひはかりそ神無月袖にもかゝる涙なりける
(続拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)
(正暦三年一〇月二六日)
清涼殿ニオイテ臨時楽有リ。天皇出御。舞御覧。舞人左兵衛尉大友兼時、左衛門尉ニ還任ス。右衛門少志秦身高尉ニ任ズ。同府生多吉義左兵衛尉ニ任ズル也。
(日本紀略)
殿上の一種物は、つねの事なれ共、ひさしくたえたるに、崇徳院のすゑつかた、頭中将公能朝臣は、絶たるをつぎ、廃(すたれ)たるを興して、神無月のつごもり比に、殿上の一種物有けり。さるべき受領なかりけるにや、くらづかさに仰て、殿上に物すへさせて、小庭にうちいたをしきて火をおこす。人々酒肴をぐして参りて、殿上につきぬ。頭中将の一種物は、はまぐりをこに入て、うすやうをたてゝ、紅葉をむすびてかざしたり。はまぐりの中に、たき物を入たりけり。滝口これをとりて、殿上口にすゝむ。主殿司つたへとりて、大盤におく。頭中将とりて、人々にくばられけり。人々とりてけうじあへり。こと人々多は雉(きぎし)をいだせり。主殿司取て、たてじとみによせたつ。信濃守親隆大鯉をいだせり。包丁の座におきて、御厨子所の頭久長を召て、とかせんとするに、「その事にたへず」とてきらず。御鷹飼の府生敦忠、鳥をかたにかけてまいれり。小庭にめして包丁せさす。
一、二献蔵人季時・信範すゝむ。少将資賢、「たけのはにをく露のいろ」といふ今ようをうたふ。蔵人弁朝隆、三献のかはらけとる。又、頭中将のすゝめにて、朗詠をいだす。「佳辰令月」の句なり。頭中将朝隆がひもをとく。人々みなかたぬぐ。色々の衣をきたり。用意あるなるべし。頭中将朗詠、「雖三百盃、莫強辞」句也。やうやう酔にのぞみて、資賢、白うすやうの句をはやす。主殿司あこ丸ことにたへたるによりて、くつぬぎにめしてつけしむ。人々乱舞の後、三こゑいだして座をたちて、御殿のひろびさしにて、なだいめんはてゝ、宮の御方に参て、朗詠雑芸数返の後、まかりいでけり。殿上にて人々連歌あり。
(續古事談~おうふう)
寛弘元年十月二十一日。
内裏に参った。平野社と北野社に行幸が行なわれた。午剋、天皇が御出された。私は留守となった。(略)
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)
長保元年十月二十一日。
(略)
今夜、私の宿所において作文会を行なった。広業が題を出した。「夜寒(よさむ)に山の雪を思う」と。冬を韻とした。
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)
長保三年十月二十三日、庚申。
要日であったので、外記庁に参ろうとした。ところが大雨であったので遅緩(ちかん)している間に時剋が推移した。内豎が、御庚申待に参るよう告げてきた。参入した。格子を降ろして、御庚申待の儀が行なわれた。左大臣・右衛門督・弼宰相(有国)・左大弁が参入した。大弁が題を献上して云ったことには、「霜樹(そうじゅ)は春の花かと疑う」と。□を韻とした。宮内丞道済が序者となった。侍臣で作文を行なった者は七、八人であった。管絃を、その間に演奏した。宸遊(しんゆう)は夜に達した。御書所でも、また作文会が行なわれた。少外記(慶滋)為政が序を作った。題に云ったことには、「菊は聖化(せいか)の中に残る」と。
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)
(嘉禄元年十月)廿九日。天晴れ、霜凝る。夢想粉紜たり。慎しみ思ふに依り門を閉して物忌み。木葉落ち尽し、菊花悉く枯る。後に聞く、今日新大納言初度の作文と云々。公卿(定高・頼資・在高・為長・経高・宗房)長定講師。
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)