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古典の季節表現 冬 十月 大嘗会の御禊

2015年10月31日 | 日本古典文学-冬

弘仁元年十月甲午(二十七日)
天皇が松崎川で禊した。大嘗会のためである。
(日本後紀〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)

十月廿五日大嘗會の御禊とのゝしるに、(略)
(更級日記~バージニア大学HPより)

 九十月もおなじさまにてすぐすめり。世には大嘗會のごけいとてさわぐ。我も人も物みる棧敷とりてわたりてみれば、みこしのつらちかくつらしとは思へどめくれておぼゆるにこれかれ「やいでなほ人にすぐれ給へりかし、あなあたらし」などもいふめり。きくにもいとゞ物のみすべなし。
(蜻蛉日記~バージニア大学HPより)

明(あ)くれば、御禊(ごけい)のいそぎ近くなりぬ。「こゝにし給べきこと、それそれ」とあれば、「いかゞは」とて、しさわぐ。儀式の車にて引きつゞけり。下仕(しもづかへ)、手振(てふり)などが具し行けば、いろふしに出でたらん心ちしていまめかし。
(蜻蛉日記~岩波文庫)

 十月十一日大嘗会の御禊とて天の下の人いとなみあひたり。其の日になりて播磨守長実御びんづらに参りたり。内の大臣殿朝餉の御簾まきあげて、長押の上に殿さぶらはせ給ふ。縁に、左衛門佐いと赤らかなるうへのきぬ着て、事おきてて、しばしありて御びんづらはてかたになりて蔵人参り「女御たいめんに参らせ給へり」と奏すれば、「聞かせ給ひぬ、事どもすすめよ」といそがせ給ふ。事なりて皇后宮などめでたくしたてさせ給へり。
(讃岐典侍日記~岩波文庫)

堀川院の大嘗会御禊、日ころ雨ふりてその日になりて空晴て侍けれは、紀伊典侍に申ける 六条右大臣
君か代の千とせの数も隠なくくもらぬ空のひかりにそみる
(新古今和歌集~国文学研究資料館HPより)

二条院御時、御禊行幸の御後長官にてつかうまつりて、つきの日雨のふり侍けれは、空も心ありけるにや、なと奏し侍けるついてにつかうまつりける 前左兵衛督惟方
御祓せしみゆきの空も心ありてあめのしたこそけふくもりけれ
御返し 二条院御製
空はれしとよのみそきに思ひしれなを日の本のくもりなしとは
(玉葉和歌集~国文学研究資料館HPより)

三条院御時大嘗会の御禊なとすきてのころ雪のふり侍けるに、大原にすみける少将井のあまのもとにつかはしける 伊勢大輔
よにとよむとよのみそきをよそにして小塩の山のみゆきをや見し
返し 少将井尼
小塩山木すゑもみへす降つみしそやすへらきのみゆきなるらん
(後拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)

建暦二年、とよのみそき二たひおこなはれける次の日、前中納言定家もとにつかはしける 参議雅経〈干時左中将〉
君まちて二たひすめる河水に千世そふとよの御祓をそ見し
(続拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)

大嘗会の御禊に、物見侍ける所に、わらはの侍けるをみて、又の日つかはしける 寛祐法師 
あまた見しとよのみそきのもろ人の君しも物をおもはするかな 
(拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)

十月十六日御禊とて、世の中いそぎみちたり。女御代には、故民部卿殿の大納言をば藤大納言と聞ゆる姫君に、内の大殿幼くより子にしたてまつらせたまふぞ、立たせたまひける。さらぬをりだにものの色、しざま心ことなる殿に、いかにまいてなべてならずと思しめせど、色はいとうるはしう、関白殿定めさせたまふ色々にまさるものなしと仰せらる、目馴れて口惜しう思しめせど、申させたまふままなり。紅の打衣は、なほ制ありとて、山吹の打ちたる、黄なる表着、竜胆の唐衣なり。空薫物の香なんすぐれたりける。
(栄花物語~新編日本古典文学全集)

御禊十月廿一日なり。女御代には。とのゝひめぎみたゝせ給。はゝは故右大とのゝ御このみのゝかみもとさだときこえしが。御むすめ。にようゐんにさふらひ給しかはらなり。さきざきかくのみそたゞ人のはらなれど。一の人の御むすめはし給しかは。ましてこれはなどてかはしやうぞくはいろいろもえぎのおりもの。ゑひぞめのからきぬ いまとなりては。故中ぐうも皇太后宮もみないろひとつにせさせ給しかば。たゞさきさきのさまにてとおぼしめすなるべし。摂政殿をはしめたてまつりて。のこり給人なくつかうまつり給へり。とのゝうへひめみやた〔ち〕。院前斎宮などみな御ざしきにて御らんず。陽明院四のみやなども御らんじけり。 (略)
(栄花物語~国文学研究資料館HPより)

 鳥羽院大嘗会の御禊に、内大臣、俄に服暇になりて、一大納言俊明節下をつとむべきよし仰られけるを、江師もりきゝて、「五代太政大臣の子孫なる右大将をおきて、受領へたる民部卿、此事をつとむ、心えず」とひとりごちけるを、白河院きかせ給て、「げに」とやおぼしめしけん、右大将にあらため仰られけり。
 江師に、「まことにさやいはれける」と人のとひければ、「慥かに覚えず。蔵人弁顕隆物いひあしき人なりとなんいらへける。
(續古事談~おうふう)

 神無月に御禊の行幸あり。前の日、河原へ御幸侍て、内侍習礼(すらい)などあり。御見物の御幸ならせ給。御車、網代庇、南階に寄す。その間の御簾を上げらる。公卿列立。殿上人、御車の榻(しぢ)の前に列(ならぶ)。召次所、御車の左右に候(こう)す。陰陽師反閇の後、出御。なべてならぬ御直衣のさま、白浪の立ちたるかと見えて言ひしらぬに、いとゞしき御光、言はん方なく見えさせ給。御随身十二人、角(すみ)の間の勾欄の際に、床子に候す。色々の姿ども、さまざまに美し。(略)
(竹むきが記~岩波・新日本古典文学大系51)

(長和元年閏十月)二十七日、辛卯。
早朝から起き、女御代(藤原威子)の雑事を準備した。(略)枇杷殿の南庭を経て、南陣に出た。土御門大路から大宮大路に出て、美福門院の東一町ほどの所に車を列立した。天皇を迎えるため、内裏に参った。かねてから奏上していたので、御室礼は終わっていた。(略)そこで天皇が御出なされることになった。申二剋に、美福門から御出なされた。まだ明るかったので、御禊所の西門から御入なされた。天皇は御膳の幄(あく)に着された<御入なされた頃、祭主(大中臣輔親)が御撫物を供した。>。次に王卿が座に就いた。次に戌剋に、天皇は御禊の幄にお移りになられた。御駕輿(かよ)に近衛の官人が伺候した。公卿は幄の前に立った。次に主水司(しゅすいし)が手水を供した。次に中臣氏の官人が御麻物(ぬさもの)を供した。中臣氏の命婦が、これを取り次いで天皇に供した。公卿たちは御禊の座に着した。次に宮主(みやじ)が御禊を行なった。御禊が終わって、天皇は御膳の幄に還御なされた。采女が御膳を供した。この時、私は宿所に下った。(略)御禊が終わって退出した後、内大臣は見参簿を奏上した。簾(すだれ)の下に寄って、内侍(藤原能子)に授けた。天皇はこれを返給なされた。退出した。禄を下賜した。中務少輔が、見参簿を読み上げた。賜禄の儀が終わって、天皇の車駕は内裏に還御なされた。建礼門の前において、神祇官が御麻(ぬさ)を供した。鈴奏(すずのそう)が有った。名対面は、常と同じであった。私は、女御代の御輿の後ろに供奉した。(略)第一車は青糸毛の車であった。従者は三十六人いた。この内、車副(くるまぞい)は十四人であった。青の布衣・葡萄の下重・末濃の袴を着していた。下仕の女房は十人であった。麴塵(きくじん)の五重の唐衣・紅の衵・打袴・蘇芳染の衵・山吹の衵を着していた。春宮付きの舎人は十人であった。褐衣(かちえ)・蘇芳の末濃の袴を着していた。笠持童(かさもちわらわ)は十人であった。青色尻の狩衣・同じ色の末濃の袴・山吹の衵・蘇芳染の重袴(かさねばかま)を着していた。前駆は三十人であった。(略)前駆の装束は、四位は葡萄の下重・瑪瑙の帯・鴾毛(ときげ)の馬、五位は桜色の下重・斑犀(まだらさい)の帯・鹿毛の馬、六位は躑躅の下重・葦毛の馬であった。第二車は、内大臣から送られたものである。従者は三十人いた。紫の褐衣・柳色の下重・青の末濃の袴を着していた。下仕の女房八人と笠持は、皆、赤色の装束を着していた。前駆の車は、我が家が準備したものである。(略)
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)