夏の夜の薔薇 大手拓次
手に笑とささやきとの吹雪する夏の夜(よる)、
黒髪のみだれ心地の眼がよろよろとして、
うつさうとしげる森の身ごもりのやうにたふれる。
あたらしいされかうべのうへに、
ほそぼそとむらがりかかるむらさきのばらの花びら、
夏の夜の銀色の淫縦(いんじゆう)をつらぬいて、
よろめきながれる薔薇の怪物。
みたまへ、
雪のやうにしろい腕こそは女王のばら、
まるく息づく胴(トルス)は黒い大輪のばら、
ふつくりとして指のたにまに媚をかくす足は欝金(うこん)のばら、
ゆきずりに秘密をふきだすやはらかい肩は真赤(まつか)なばら、
帯のしたにむつくりともりあがる腹はあをい臨終のばら、
こつそりとひそかに匂ふすべすべしたつぼみのばら、
ひびきをうちだすただれた老女のばら、
舌と舌とをつなぎあはせる絹のばらの花。
あたらしいふらふらするされかうべのうへに
むらむらとおそひかかるねずみいろの病気のばら、
香料の吐息をもらすばらの肉体よ、
芳香の淵にざわざわとおよぐばらの肉体よ、
いそげよ、いそげよ、
沈黙にいきづまる歓楽の祈祷にいそげよ。
(青空文庫より)