さながら八月になりぬ。ついたちの日あめふりくらす。しぐれだちたるにひつじの時ばかりにはれてくつくつぼうしいとかしがましきまでなくをきくにも我だにものはといはる。いかなるにかあらんあやしうも心ぼそうなみだうかぶ日なり。たゝんつきにしぬべしといふさとしも したればこの月にやともおもふ。すまひの還あるじなどものゝしるをばよそにきく。
(蜻蛉日記~バージニア大学HPより)
暁方に風すこししめりて、村雨のやうに降り出づ。
「六条院には、離れたる屋ども倒れたり」
など人々申す。
「風の吹きまふほど、広くそこら高き心地する院に、人々、おはします御殿のあたりにこそしげけれ、東の町などは、人少なに思されつらむ」
とおどろきたまひて、まだほのぼのとするに参りたまふ。
道のほど、横さま雨いと冷やかに吹き入る。空のけしきもすごきに、あやしくあくがれたる心地して、
「何ごとぞや。またわが心に思ひ加はれるよ」と思ひ出づれば、「いと似げなきことなりけり。あな、もの狂ほし」
と、とざまかうざまに思ひつつ、東の御方に、まづ参うでたまへれば、懼ぢ極じておはしけるに、とかく聞こえ慰めて、人召して、所々つくろはすべきよしなど言ひおきて、南の御殿に参りたまへれば、まだ御格子も参らず。
おはしますに当れる高欄に押しかかりて、見わたせば、山の木どもも吹きなびかして、枝ども多く折れ伏したり。草むらはさらにもいはず、桧皮、瓦、所々の立蔀、透垣などやうのもの乱りがはし。
日のわづかにさし出でたるに、憂へ顔なる庭の露きらきらとして、空はいとすごく霧りわたれるに、そこはかとなく涙の落つるを、おし拭ひ隠して、うちしはぶきたまへれば、(略)
中将下りて、中の廊の戸より通りて、参りたまふ。朝ぼらけの容貌、いとめでたくをかしげなり。東の対の南の側に立ちて、御前の方を見やりたまへば、御格子、まだ二間ばかり上げて、ほのかなる朝ぼらけのほどに、御簾巻き上げて人々ゐたり。
高欄に押しかかりつつ、若やかなる限りあまた見ゆ。うちとけたるはいかがあらむ、さやかならぬ明けぼののほど、色々なる姿は、いづれともなくをかし。
童女下ろさせたまひて、虫の籠どもに露飼はせたまふなりけり。紫苑、撫子、濃き薄き衵どもに、女郎花の汗衫などやうの、時にあひたるさまにて、四、五人連れて、ここかしこの草むらに寄りて、色々の籠どもを持てさまよひ、撫子などの、いとあはれげなる枝ども取り持て参る、霧のまよひは、いと艶にぞ見えける。
吹き来る追風は、紫苑ことごとに匂ふ空も、香のかをりも、触ればひたまへる御けはひにやと、いと思ひやりめでたく、心懸想せられて、立ち出でにくけれど、忍びやかにうちおとなひて、歩み出でたまへるに、人々、けざやかにおどろき顔にはあらねど、皆すべり入りぬ。
(略)
こなたより、やがて北に通りて、明石の御方を見やりたまへば、はかばかしき家司だつ人なども見えず、馴れたる下仕ひどもぞ、草の中にまじりて歩く。童女など、をかしき衵姿うちとけて、心とどめ取り分き植ゑたまふ龍胆、朝顔のはひまじれる籬も、みな散り乱れたるを、とかく引き出で尋ぬるなるべし。
もののあはれにおぼえけるままに、箏の琴を掻きまさぐりつつ、端近うゐたまへるに、御前駆追ふ声のしければ、うちとけ萎えばめる姿に、小袿ひき落として、けぢめ見せたる、いといたし。端の方についゐたまひて、風の騷ぎばかりをとぶらひたまひて、つれなく立ち帰りたまふ、心やましげなり。
「おほかたに荻の葉過ぐる風の音も憂き身ひとつにしむ心地して」
とひとりごちけり。
(略)
東の御方へ、これよりぞ渡りたまふ。今朝の朝寒なるうちとけわざにや、もの裁ちなどするねび御達、御前にあまたして、細櫃めくものに、綿引きかけてまさぐる若人どもあり。いときよらなる朽葉の羅、今様色の二なく擣ちたるなど、引き散らしたまへり。
「中将の下襲か。御前の壷前栽の宴も止まりぬらむかし。かく吹き散らしてむには、何事かせられむ。すさまじかるべき秋なめり」
などのたまひて、何にかあらむ、さまざまなるものの色どもの、いときよらなれば、「かやうなる方は、南の上にも劣らずかし」と思す。御直衣、花文綾を、このころ摘み出だしたる花して、はかなく染め出でたまへる、いとあらまほしき色したり。
「中将にこそ、かやうにては着せたまはめ。若き人のにてめやすかめり」
などやうのことを聞こえたまひて、渡りたまひぬ。
(源氏物語・野分~バージニア大学HPより)
小鷹狩のついでにまできたる人の、「また荻原の露にまどひぬ」といひける返し 源氏の小野の尼
秋の野の露分け来たる狩衣むぐら茂れる宿にかこつな
(風葉和歌集~岩波文庫「王朝物語秀歌選」)
村上の御時八月はかり、うへひさしうわたらせたまはてしのひてわたらせ給ひけるを、しらすかほにてことひき侍りける 斎宮女御
さらてたにあやしきほとの夕暮に荻ふく風の音そ聞ゆる
(後拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)
八月ばかり、萩いとおもしろきに、雨降る日
をしと思ふわれ手触れねど萎(しを)れつつ雨には花のおとろふるかな
(和泉式部続集~岩波文庫)
按察使公通十首会に野風を
は月とはなにこそたて野分して千草の花をさやはゝらはん
(前参議教長卿集~続群書類従16上)
八月、嵯峨野に、所の衆ども前栽ほりに、
うち群れてほるに嵯峨野の女郎花つゆも心をおかでひかれよ
(落窪物語~新編日本古典文学全集)
円融院御出家の後、八月はかり広沢にわたらせ給ける御ともに、左右大将つかうまつり、ひとつ車にて帰侍けるに 按察使朝光
秋の夜を今はとかへる夕くれはなく虫のねそかなしかりける
返し 左近大将済時
虫のねに我涙さへおちそはゝ野原の露や色まさるらん
(新勅撰和歌集~国文学研究資料館HPより)
長久二年八月、松尾社に行幸侍けるを、春宮の女房車より草の花をかさして、さか野のさゝのうへにたてなへて物見侍けるを、近衛司にてつかうまつりて侍けるか、すゝきのくるまのもとにうちよせてよみける 中納言資綱
打まねくけしきことなる花薄行すきかたくみゆるのへ哉
と、いひかけて過侍けるに、とりあへす車よりいひいたし侍ける 弁乳母
行過ぬけしきともみす花すゝきまねくにとまる人しなけれは
(続古今和歌集~国文学研究資料館HPより)
八月つきの頃夜ふけて北白川へまかりけるよしある樣なる家の侍りけるに琴の音のしければ立ちどまりて聞きけりをり哀に秋風樂と申す樂なりけり底を見いれければ淺茅のつゆに月のやどれるけしき哀なり垣にそひたる荻の風身にしむらむとおぼえて申し入れてとほりけり
秋風のことに身にしむこよひかな月さへすめる宿のけしきに
(山家集~バージニア大学HPより)
八月ばかり、女のもとにたたずみて、笛を吹き侍りける 露分けわぶる右大将
思ひ知る人に見せばや浅茅生の露分けわぶる袖の気色を
(風葉和歌集~岩波文庫「王朝物語秀歌選」)
いひわたりけるおとこの、八月はかりに、袖の露けさなといひたりける返事によめる 和泉式部
秋はみなおもふ事なき荻のはも末たはむまて露は置けり
(詞花和歌集~国文学研究資料館HPより)
八月ばかり、人のもとに
音(おと)すれば訪(と)ふか訪(と)ふかと荻の葉に耳のみとまる秋の夕暮
(和泉式部続集~岩波文庫)
八月ばかり、夜一夜風吹きたるつとめて、「いかが」といひたる人に
荻風に露拭き結ぶ秋の夜は独り寝覚めの床(とこ)ぞさびしき
(和泉式部続集~岩波文庫)
八月ばかりに人の来て、扇を落してけるを見て、竹の葉に露いと多く置きたる形(かた)書きてある、程経てやるとて
しののめにおきて別れし人よりは久しくとまる竹の葉の露
(和泉式部集~岩波文庫)
題しらす 真昭法師
朝ほらけ鳴ね寒けき初雁のは月の空に秋風そふく
(続後拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)
秋の半ばに、青葉ながら紅葉の散るを見て とりかへばやのみてものの聖(ひじり)
秋はまだ深からねども山伏の涙に添ふは木の葉なりけり
(風葉和歌集~岩波文庫「王朝物語秀歌選」)
八月はかり、後深草院法華堂へはしめて参り侍けるに、いまたふみなれぬしはのした道をはるはるとわけ侍に、御堂にまいりつきなん哀もかつかつ思ひやられて思ひつゝけける 入道前太政大臣
深草の露ふみわくる道すから苺(こけ)の袂そかつしほれゆく
(玉葉和歌集~国文学研究資料館HPより)
ワキ詞「これは唐土楚国の傍。小水と申す所に山居する僧にて候。さても我法華持経の身なれば。日夜朝暮彼の御経を読み奉り候。殊更今は秋の半。月の夕すがら怠る事なし。こゝに不思議なる事の候。
この山中に我ならで。又住む人もなく候に。夜な夜な読経の折節。庵室のあたりに人の音なひ聞え候。今夜も来りて候はゞ。如何なる者ぞと名を尋ねばやとおもひ候。
サシ「既に夕陽西にうつり。山峡の陰冷ましくして。鳥の声幽に物凄き。
歌「夕の空もほのぼのと。夕の空もほのぼのと。月になり行く山陰の。寂莫とある柴の戸に。此御経を読誦する。此御経を読誦する。
シテ次第「芭蕉に落ちて松の声。芭蕉に落ちて松の声。あだにや風の破るらん。
サシ「風破窓を射て灯きえ易く。月疎屋を穿ちて夢なり難き。秋の夜すがら所から。物すさましき山陰に。住むとも誰か白露の。ふり行く末ぞ哀なる。
下歌「あはれ馴るゝも山賊の友こそ。岩木なりけれ。
上歌「見ぬ色の。深きや法の花心。深きや法の花心。染めずはいかゞ徒に。其唐衣の錦にも衣の珠はよも掛けじ。草の袂も露涙移るも過ぐる年月は。廻り廻れどうたかたの哀れ昔の秋もなしあはれ昔の秋もなし。
(謡曲・芭蕉~謡曲三百五十番)
(寛弘元年八月)一日、癸丑。
右大臣が、大極殿の祈雨御読経の雑事を定めた。右大臣は、旱魃に際しての御卜(みうら)を、軒廊(こんろう)において行なった。
五日、丁巳。
内裏から退出した。軒廊の御卜の結果を一条天皇に奏上させた。(大中臣)輔親を召して、中和院における御祈を行なわせた。(藤原)朝経朝臣を介して、宣旨を天台座主(覚慶)の許(もと)に遣わした。諸院の供僧(ぐそう)に祈雨を奉仕させよとのことである。(略)
六日、戊午。
大極殿において、百口(く)の僧を招請して祈雨の御読経が有った。仁王経である。大極殿に参った。御読経が終わってから、諸卿と共に朝堂院、および豊楽院の修築を検分した。それが終わって内裏に参った。退出した。
九日、辛酉。
早朝、左頭中将(源経房)を遣わして、大極殿の祈雨御読経を延長されるべきことを奏上させた。天皇は、すぐに宣旨を下された。夜に入って、雨が少し降った。右大弁(藤原行成)が、申して云ってきたことには、「御読経を延長なさると、十一日は結願日に当たります。その日の考定を延期すべきでしょう」と。延期するように命じた。
十一日、癸亥。
大極殿に参り、東廊の座に着した。その後、鐘を打って、昇殿した。御読経が終わる頃、右近頭中将(藤原)実成が、臨時度者を賜うとの天皇の仰せを伝えた。西から導師の下に着し、この旨を仰せて、殿から降りた。(略)御読経の間、雨が降ったとはいっても、大雨ではなかった。「諸国は如何であろうか」と云う者がいた。「降っている所も有るであろう」ということだ。六月十日から、未だ大雨は降っていない。時々、形だけ夕立が降る。
十六日、戊辰。諸社に祈雨奉幣使を発遣した。八省院に天皇の行幸が有った。宇佐八幡宮への使者も出立した。御占方(うらかた)によるものである。(略)
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)
(正治二年八月)八日。終夜、雨注ぐが如し。又洪水か。終日休まず。夜に入りて殊に甚し。今日西の方、湯殿の辺り破壊す。(略)
九日。去る夜、今日、雨沃(そそ)ぐが如し。聊かの隙無し。河水大いに溢る。田畝、又水底となると云々。(略)
十日。雨猶注ぐが如し。終日蟄居。(略)
十一日。朝の間、猶雨。午の時、天始めて晴る。日の景を見る。(略)
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)