十月(じふぐわつ)
雲(くも)往(ゆ)き雲(くも)來(きた)り、やがて水(みづ)の如(ごと)く晴(は)れぬ。白雲(しらくも)の行衞(ゆくへ)に紛(まが)ふ、蘆間(あしま)に船(ふね)あり。粟(あは)、蕎麥(そば)の色紙畠(しきしばたけ)、小田(をだ)、棚田(たなだ)、案山子(かゝし)も遠(とほ)く夕越(ゆふご)えて、宵(よひ)暗(くら)きに舷(ふなばた)白(しろ)し。白銀(しろがね)の柄(え)もて汲(く)めりてふ、月(つき)の光(ひかり)を湛(たゝ)ふるかと見(み)れば、冷(つめた)き露(つゆ)の流(なが)るゝ也(なり)。凝(こ)つては薄(うす)き霜(しも)とならむ。見(み)よ、朝凪(あさなぎ)の浦(うら)の渚(なぎさ)、潔(いさぎよ)き素絹(そけん)を敷(し)きて、山姫(やまひめ)の來(きた)り描(ゑが)くを待(ま)つ處(ところ)――枝(えだ)すきたる柳(やなぎ)の中(なか)より、松(まつ)の蔦(つた)の梢(こずゑ)より、染(そ)め出(いだ)す秀嶽(しうがく)の第一峯(だいいつぽう)。其(そ)の山颪(やまおろし)里(さと)に來(きた)れば、色鳥(いろどり)群(む)れて瀧(たき)を渡(わた)る。うつくしきかな、羽(はね)、翼(つばさ)、霧(きり)を拂(はら)つて錦葉(もみぢ)に似(に)たり。
(泉鏡花「月令十二態」~青空文庫より)
十月
四方(よも)のかみがみ 出雲の国へ としにいちどの御こふたい 八(はち)まん様は馬で行(ゆく) 春日明神 鹿で行 太神宮(だいじんぐう)は おふぎやうに 末社(まつしや)の神の 伴揃(ともぞろい) そのほか諸神(しよしん)が あつまりて われもわれもと たちたもふ あとを恵比寿が ひとりじめ
(とっちりとん「十二ヶ月」~岩波文庫「江戸端唄集」)
元弘三年立后月次屏風に、旬の儀有所 弾正尹邦省親王
おさまれる御代のみつきとよるひをゝ大宮人にけふ給ふ也
(新千載和歌集~国文学研究資料館HPより)
(長徳元年十月)一日。
(略)左近少将(藤原)相経が、禄を取って下給した。「今日、一条天皇が紫宸殿に出御された。大雨であったので、すでに礼儀を失した」と云うことだ。「庭立奏(にわだちのそう)は無かった。番奏は行なわれた」と云うことだ〈延喜八年は雨儀であった。番奏は無かった。庭立奏は行なわれた」と云うことだ。「今日は侍従厨家の御贄(みにえ)を献上しなかった。下器(かづき)を渡す者は階下(かいか)を得た」と云うことだ〉。「右大臣(藤原道長)〈左大将を兼ねている。〉が官奏を奉仕した」と云うことだ。一献の宴飲(えんいん)の後、氷魚を下賜した〈康保三年の例である。〉出居(でい)は左少将(源)明理朝臣が勤めた。
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)
(寛弘六年十月)一日、壬午。
孟冬の旬政に際して、一条天皇は紫宸殿(一条院寝殿)に出御なされた。御鎰奏(みかぎのそう)と官奏を行なった。他の次第は、常と同じであった。庭立奏(にわだちのそう)は無かった。酒番の侍従が、献盃を行なった。節会の際の盃を用いた。人々が相定めて、土器(かわらけ)を用いて酒を献上させた。次侍従を補(ほ)した。(略)
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)