『人』が自然創造神御謹製の自然量子生命体であることが
朧気ながらも深い理解として落とし込めたならば
自ずと『人』として生きる在り方も良心に写せるようになるだろう。
『人』の自律自覚なき「人間」の時代も記憶脳にあるべき在り方を模索し
平面形式から理想像を希求邁進した過去がある。
それはそれで「人間」と『人』の狭間での試金石ではあっただろう。
しかし 五感情報系から量子情報系にリコネクトしている『今』
五感記憶の理想像は量子絶対周波数により整然と再配置されることになるだろう。
回り道を敢えて繰り返した「人間」は漸く『人』として
自然クライン環の故郷に懐(いだ)かれて目覚めることだろう。
… … … … …
(一年前の感想)
分かっている。言葉に纏め得たからといえ それが全て伝わるものでもないことを。だからこそ 自分自身で扱う言語体系には齟齬の無いように心掛けている積りである。だが そうすればするほど平面概念からは掴みどころがないかのように印象してしまうのだろう。自分の中でさえ意識念と言葉の鼬(イタチ)ごっこは日常茶飯事である。他人格であれば それらはさらに輪をかけて甚だしく作用するものなのである。
とまぁ 不良惑星の日常であるからボヤキの一つも言いたくはなるが 畢竟『人』たらんとすれば不誠実構造を撥ね退け 創造原初に帰還する意念養成を欠かすことは出来ない。
(本年の感想)
ボヤキは敢えて自分自身にも他人にも聞かせることを承知で独り語るものであるが それはあくまでもボヤキの本質を越えるものではない。平面のジレンマからは抜けられない。
一方 本心即ち『魂』は自らの創造根源を遡り自然神への回帰を旨とし 只管 『自然クライン環』の励起を本願となすことが出来る。『自然クライン環』を健全運用することで 自然は自然を通して根源光を還元し 『人々』も根源光を培養し社会に流通させることが出来るのである。