Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

木々はいつも緑

2007年12月17日 | 家・わたくしごと
 実家の傍には玉川上水が流れる。先月帰ったときにはちょうど紅葉だったと思いきや、今回は、クヌギやコナラの葉もだいぶ少なくなって、落ち葉で地面が埋まっている。この街に35年住んだはずなのに、沖縄に住み始めてからこういう風景に遭遇するたびに、別世界の光景を見るようで心が躍る。
 沖縄には基本的に本土に見られるような紅葉というものがない。「ない」と断言できる。今もなお、家から見える木々は青々と茂っているし、黄色くなって落ちる葉も、ひらひら落ちるというよりは、ボタッという感じだ。インドネシアでは、葉の色が変わって落ちるときは、その葉が「病気」だからだと言われた。もちろん葉は病気でなくてもいつかは落ちるものだが、季節ごとに一気に葉が消えてしまうようなことはない。沖縄もインドネシアも同じだ。
 沖縄に戻ってから子どもと二人で、高台から海が一望できる風呂に入りながら、「冬なのに」ではじまる川柳を考えた。
 冬なのに 山の景色は いつもあお(緑)
 そんな句を次々に読みながら二人で笑う。終わってみればどの句も、沖縄には冬が感じられないという内容のものばかりだった。最後に一句。
 冬なのに オーバー知らずに 速度違反 
 はい、ごめんなさい・・・。


ANAに浮気の顛末

2007年12月16日 | 東京
 東京に日帰りした。朝8時5分発で羽田、その足で国分寺の実家で用を済ませ、19時55分発のフライトで那覇に戻った。沖縄に観光に来る人から見ればなんとせわしいと思うかもしれないが、出張だと思えば沖縄=東京間は完璧に日帰りの距離である。
 私はJALのマイラー(JALのマイルを貯める人のこと)なので、基本的にはJAL以外の航空会社に乗ることはない。国際線も出来る限りONE WORLD加盟の航空会社と決めている。とはいえ、どうしても都合の良い便がないときは、スター・アライアンスに搭乗して、ユナイテッド航空にマイレージを貯める。とりあえず、1年半に一回マイルが増えれば、ANAやJALのマイレージと違って期限がないからである。
 その期限が迫ったため、今回の往時だけANAに浮気をしたのである。ちょっとやましい気もするが、一年に一回だからまあいいじゃないかと軽い気持ちで乗ってしまったのだ。やはり違う航空会社に乗ると、同じ機種の飛行機でも落ち着かない。だいたい客室乗務員のユニフォームが違っただけで、海外に来ているような気分である。とはいえ、早起きしたせいか機内は爆睡。羽田空港に離陸した瞬時に目が覚めた。
 寝ぼけ眼でボーッとして機内が出る。いつもと勝手が違う。あれ?もしかして飛行機間違って乗ったのだろうか?この空港はどこだ?あれ、あれ、あれ・・・。頭はボケボケのままなのに、血圧が一気に上昇し冷や汗が背中を流れる。こんなことあるのだろうか。だいたいANAはチケットをなくして、変なシステムにかえたからよくわからないんだ。本気で悩んでしまうが、機内を出た乗客の流れにのって歩かざるをえない。戻って誰かに聞かないとだめだ・・・。でも「ここはどこですか?」なんて聞くのは相当に勇気がいるぞ。
 と、その時である。私はやっと気が付いたのだ。ここは羽田の第二ターミナルだ!そうだ。ANAに乗らないために新しい空港に入ったことがなかったのだ。そう思った瞬間、ものすごく安心する。一気に血圧が下がった感覚。ANAに浮気をしたせいで、とんでもない災難が降りかかったのであった。これも浮気のバツである。


RYU KYU INCENCE (琉球香)

2007年12月15日 | 那覇、沖縄
 国際通りで大発見した品物の一つ、それがRYU KYU INCENCEと書かれた「琉球香」である。「りゅうきゅうこう」と読むので、「ちんすこう」の一種だと考えるのは相当に危険である。こちらは食べることができずに、たぶん「毒」である。
 さて沖縄には、「琉球香」なんて代物は以前からあったのだろうか?もちろんそんなものは聞いたことがない。ようするに新しい品物なのだ。しかも国際通りの店先にしっかり100円と書かれて販売している。100円は安いとはいえないが、決して「高価」な土産物とはいえまい。
 このお香、実は沖縄で作られたものではなさそうだ。中身はたぶんインドか、東南アジアのどこかの国で作られたものに、パッケージだけを RYU KYUとして売っているにすぎないのである。きっとこのパッケージも海外で作らせたに違いない。これもまた沖縄のイメージとして定着した汎アジア現象の一つである。だいたい、この品物を売る店はアジア民芸品店と沖縄のお土産を半分ずつ売っていて、どこまでがアジアで、どこまでが沖縄なのかという境界がよくわからないように品物が陳列されている。しかし、それもまたりっぱな戦略であり、「脱帽」といわざるを得ない。私の知り合いが、バリのカエルの置物を、沖縄のお土産だと思って友人にたくさん買ってきたという笑い話があるが、私にはこの話は決して「面白い」だけの話ではない。
 もう一度、この香の箱を見てみる。すると「RYU」と「KYU」が離れているではないか!これもまた大発見だ。決してアルファベットでは、「琉球」とは言っていない。琉球ならば、RYUKYUと記せばよいのである。つまりは、私たちがまんまと、「りゅう きゅう香」を、「琉球香」と読んでいるだけなのである。もしかすると「竜 宮 香」かもしれないのだ。とすると、これは「竜宮城」で使われていたお香なのかもしれないぞ・・・。それとも、このお香は玉手箱の中につまった、あっという間に人間を年寄りにさせる、あの「不思議な煙」を発するのか?いやいや、もしそうなら、RYU GU INCENCEのはずだ・・・。


ステーキハウス

2007年12月14日 | 那覇、沖縄
 沖縄の観光ガイドを見てみると、あいかわらずたくさんのステーキハウスが紹介されている。これらはすべてアメリカ統治下に築き上げられた沖縄のイメージであり、戦後は高級食の代名詞であった「ビフテキ」が、沖縄ではアメリカのように日常的に食べられるという幻想が作り出したものだ。1972年に日本に復帰してからすでに35年の月日がたっているにもかかわらず、今なお、この沖縄ステーキ幻想は変わらず存在し続けているのである。国際通りには「犬も歩けばステーキ屋に出会う」ほど、たくさんのステーキ屋が軒を連ねる。沖縄に赴任した当時、このステーキハウスの多さには驚愕したものである。
 土曜日に調査で学生達と国際通りを歩いていると、面白いステーキハウスの看板が目に入った。その名は「ステーキハウス ハワイ」、そしてその大看板のよこにはハワイを彷彿させるような女性の大きな写真が添えられている。しかしこの写真、よく見てみると、沖縄の女性のようにも見えるし、沖縄の海岸線に立つ高級リゾートホテルのロケ番組で、女性のレポーターが着ている沖縄風ムームーのような怪しさも醸し出されている。
 ふたたび、沖縄にくる観光客がこの看板から何を読み取るのかを考えてみる。ステーキは沖縄の代表的観光用料理である、という店からみれば、ステーキ屋の看板があることは特に際立ったものではないだろうが、問題は、その「ハワイ」という名前と、「女性の写真」である。この二つからは、沖縄のリゾート世界が見えてくる。国際通りは海から遠いが、やはり「沖縄=青い海=白い砂浜=照りつける太陽=夏のような暑さ」の図式が観光客の中に存在する。このハワイと名づけられたステーキハウスは、観光客の深層にある不思議な連鎖の図式を彷彿させるのだ。 

メニューから見えるもの

2007年12月13日 | 那覇、沖縄
 国際通りのちょうど真ん中あたり、テンプス(沖縄の言葉では「へそ」)というビル前の広場にこんなメニューが掲げられた不思議な看板が出ている。インドネシア通の者ならば誰もがこの間違いに気づくはずだ。ナシゴレンは、タイ風チャーハンではなく、インドネシア風チャーハンである。タイならば、カオ・パッとなる。もちろん、ナシ・ゴレンとカオ・パッは味付けが異なる。
 しかし興味深いのはその間違いだけではない。ナシ・ゴレンの下に書かれているのは、沖縄のタコライス、そして最後には、ハワイのロコモコが並んで書かれていることだ。タコ・ライスは沖縄のアメリカ統治時代に作られたご飯の上にタコスの具を乗せた食べ物である。それにしてもバラバラな地域の料理を並べたものか?これは無国籍料理屋なのか? いやいや、インドネシア、ハワイ、沖縄、日本本土の料理と並べられているならば、環太平洋料理屋だ!
 ここで重要なのは、これらが、沖縄の観光地のメッカ「国際通り」の中心地のレストランのメニューであることだ。このレストランへ沖縄に住む人が行くことはまず十中八九ない。要は、観光客のためのレストランなのである。と考えれば、観光客が食べたくなるようなメニューが掲げられていると考えるのが無難である。
 そうなのだ。これは観光客が沖縄で必要とする食べ物なのである。つまりは、沖縄はある種、汎アジア的なイメージ、そしてハワイのもつ南国イメージを付与されているからこそ、この食べ物がベストチョイスなのである。ようするにインドネシアもタイもハワイも、沖縄とだぶるわけだ。ナシ・ゴレンがタイ風であろうと、インドネシア風であろうとあまり意味がない。重要なのは、それが東南アジアであることだ。沖縄とは本当に不思議なイメージの島である。


継続はモノなり

2007年12月12日 | 家・わたくしごと
 「継続は力なり」という格言がある。いい言葉だ。ゼミの学生だけでなく、自分自身にも言い聞かせたい名言である。さて本日は、「継続は力」だけではなく、モノをもらおうと必死に継続するというお話である。
 かみさんは最近、エアロビにはまっている。詳しいシステムはわからないのだが、一定の月謝を払えば、毎日、どこのクラスに何度通っても料金は変わらないらしい。つまり、通えば通うほど「得」ということになるわけだ。かみさんは当初、週に1回ずつコンスタントに通い始めたのだったが、11月くらいから突然、ペースが増え始めた。1日2回で週に6回なんて日もあり、私と子どもは驚くばかりである。
 さて、その理由であるが、なんと100回通うと、このエアロビ特製のTシャツがもらえるからなのである。11月末から残り15回くらいになると、カウントダウンが始まった。どの日に何度行けば、12月中に100回になるか?これがわが家の食卓の話題にのぼるようになったのである。
 「たかがTシャツ」1枚と思うが、本人にとっては100回達成が記されたTシャツは、「されどTシャツ」なのである。そして昨日、その「されどTシャツ」をかみさんはとうとうゲットしたのである。祝100回!帰宅するとなぜか、私の座る食卓机の前にリボンのついたTシャツが袋に入っておいてある。ところが肝心のかみさんがいない・・・と思いきや、101回目のエアロビに出かけた後なのであった。そうそう、「継続は力」であるのだから。感心、感心。


小麦色のキューピー

2007年12月11日 | 那覇、沖縄
 沖縄のおみやげの中で最近目立つものが、既製のキャラクター、たとえば、キティーちゃん、ドラえもん、キューピーなどといった全国版キャラクターに琉装をさせた「沖縄限定」ものである。こうした土産物は沖縄だけの現象でなく、全国でも展開されるまさに「おみやげ文化」といわれるものである。昨日、私は授業の一環で、観光客になりきったつもりで、学生達と国際通りの「観光文化」、「文化観光」の調査のために国際通りを歩いたのだが、そのときに新たなキューピーを発見したのである。
 なんとそのキューピーは小麦色なのだ。というよりもいわゆる「黒い」に近い。しかも琉装というよりもポップな「アフリカン・カジュアル」のように見える。エイサーのユニフォームをイメージしているのだろうが、どうみてもそうは見えないのである。
 さて観光客はこれにどのようなイメージを持つのだろうか?観光客の目線で考えてみる。「沖縄は暑い、だから人々の肌の色も黒い、そして着ている服は派手なのだ」という具合に連想していくのだろうか?それならば白いキューピーよりも、黒い方が沖縄向きだというのだろう。
 一方、沖縄側の視点に立ってみれば、女性の多くは日焼けに本土の女性以上に気を使うし、職業上は日焼けして浅黒い人もいるだろうが、東京や大阪と比べたところで、それほど肌の色に差はない。だいたいにして、真っ黒になって帰るのは、観光客の方である。夏の夕方、那覇空港の出発ロビーを覗いてみれば、そんなことは一目瞭然である。
 キューピーを小麦色にして琉装をさせるという発想、これは沖縄側が考えたものなのか、それとも本土側が考えたものなのか私にはわからないが、私はこのイメージにはどちらかといえば抵抗がある。これはある種の「差別」ではないか?だいたい、そういう面倒な議論は別にしても、キューピーは「マヨネーズ」の色じゃないと納得できない。といいながらも、「資料」として(?)、この黒い人形を購入してしまったのであった。


トップ・ガン

2007年12月10日 | 那覇、沖縄
 日曜日、航空自衛隊那覇基地のエアフェスタに出かけた。現在、何かとお騒がせの自衛隊であるが、だからこそ、きっと有り余るほどのサービスがあるんじゃないだろうか?などとあさましい期待を持ちつつ出かけたのであった。
 那覇基地は那覇空港に隣接している。空港は軍民共用なので当たり前である。普段はターミナルから見ることのない滑走路だが、基地の航空基地に入るとすぐ目の前が滑走路で、ANAやJALの民間機がすぐ手に届きそうな場所で離発着しているのに驚く。それと同じぐらい、ものすごく上等な望遠カメラを持つ航空マニアがあまりにも多いのにも驚愕する。鉄道マニア(鉄ちゃん)が持つカメラと比べると著しくレベルが違う気がする。
 ちょうどブルーインパルスの展示飛行が始まる時間で、滑走路にはものすごい見物人が集まっている。ちょっと隙間から覗くと、パイロットが乗り込むところである。五台の飛行機の前には整備士がもう微動だにせずにバシッと立っている。パイロットへの敬礼も「スマート」である。とにかく、一言でいえば皆「格好いい」のだ。もうその様子を見るだけでも感動的である。トム・クルーズ出演の「トップ・ガン」の実物を見ているような気分でドキドキする。しかも自衛隊もなかなかで、背景には「トップ・ガン」のサントラ風の音楽をかけているのである。結構、自衛隊は演出好きである。
 飛行も当然のごとく「すごい」の一言につきたが、正直、飛行よりも、あの整備士とパイロットの俊敏で、かつ揃った動きに感動してしまったのだ。あの俊敏性があれば、彼らは絶対バリのガムランがうまくなるはずである。リズムなどずれるはずがない。こんな風景を見ていると、自衛隊の飛行機のエンジンの納入をめぐっては、背広を着た役人が世間を賑わせているが、制服を着て現場を預かる人間とは全く無関係な話であるような気がしてきた。やっぱり、上に立つ人間は現場が見えなくなったらだめなんだな。でもこれって、どの組織にもいえるはずだよな・・・。


年賀状の季節

2007年12月09日 | 家・わたくしごと
 師走に入って、また年賀状作りの季節がやってきました。といっても原稿の仕事が終わらないと、どうしても他の仕事に手がつきません。売れっ子の漫画家は、週に何本も連載を持っても書き上げてしまうそうですが、私にはそれができません。一つのことを考え出すと、パソコンの前で他のことができなくなります。このブログ作りはある意味では、それができるようになるためのトレーニングなのです。他の仕事をやっていても、一日、15分間、頭を切り替えてブログを書くことで、沸騰した頭を気持ちよくクールダウンできるからです。
 来年の干支は「ねずみ」だそうです。と考えると自分の目の前には「マウス」が・・・。多くの日本人が右手で「ねずみ」を握って、カチカチやっているんでしょうね。そんなことを考え出したら、クリックの音がねずみの「歯軋り」に聞こえてきます。そうだ、「ミッキー」も「ねずみ」ですね。念のため言っておきますが、「ミッキー・カーチス」の方じゃなくて、「ミッキーマウス」ですぜ。それにゲゲゲの鬼太郎には「ねずみ男」なんていうのもいました。他は・・・そうだ「袋のねずみ」なんていう種類のねずみはどうでしょうか?「ねずみ色」なんていうまず幼稚園生でも言いそうなねずみもありますね。そんなねずみを閉じ込めてしまう兵器「ネズミ捕り」も忘れてはなりません。
 すると・・・今年の年賀状の案が思い浮かびました。まずは、「マウス」を右手でカチカチやりながらパソコンに向かって作るのですが、「ねずみ色」を基調にしたハガキに、「ミッキー」のぬいぐるみの入った大きな袋を持った「ねずみ男」が、ハガキいっぱいに書かれた「ネズミ捕り」に閉じ込められている絵なんていいんじゃない?
 そんなことを考えているうちに・・・すっかりリラックスできました。さて、さて、また原稿書きの再開です。


27年目の・・・

2007年12月08日 | 家・わたくしごと
 12月8日といえば、年配の人にとっては昭和16年の真珠湾攻撃、すなわち太平洋戦争勃発の日であろう。しかし私にとってこの真珠湾攻撃は歴史の教科書の一頁でしかない。知識として記憶した12月8日だからだ。
昭和16年12月8日よりも、私にとってずっと現実味をもった12月8日、それは昭和55年12月8日(月)である。この日、ぼくは吉祥寺の中古レコード屋で事件を知った。なぜ高校3年の私が月曜日に吉祥寺にいたのか全く記憶にないのだが、ぼくはその出来事を店主が店番の若い男性に話したとき、ちょうどジョン・レノンのレコードを手にとって見ていたのだ。だからその話の内容を耳にした瞬間、まるで体全体が瞬時に凍りついてしまったかのように、次の行動への第一歩が踏み出せなくなってしまったことを、それが今から数時間前に起きた事件のごとく鮮明を蘇らせることができるのだ。
「ジョン・レノンが撃たれて死んだらしいよ。」と確かに店主は、若い男に話した。
「うそでしょう。間違いでしょう?」と若い男は繰り返し、年配の店主に聞き返した。きっと信じたくなかったのだ。このジョン・レノン射殺事件、それが昭和55年12月8日なのである・・・。
 去年、さいたま新都心にあるジョン・レノン・ミュージアムに9歳になった息子と二人で出かけた。息子にはジョン・レノンがどんなミュージシャンだったか、そしてどんな活動をしたのかを知ってもらいたかった。彼はミュージアムにいる間、黙って私の話を聞いたし、その中に流れていた音楽に静かに耳をすました。帰りに私はミュージアムショップでキーホルダーを買って、すぐに息子が背負っていた小さなバッグにつけた。彼はそれを見て嬉しそうに何度も手で触っては、「ずっしり重いね」と言って喜んだ。
 ミュージアムに行ってからしばらくしてからだろうか、息子は家でジョン・レノンのCDを聞いたことがないのに、テレビや街からジョン・レノンの有名な曲が流れるたび、「これはジョン・レノンの曲だ」と独り言のようにポツリと言うようになった。あのミュージアムの記憶が、音になって焼きついているのかもしれない。もうジョン・レノンがこの世になくとも、その音楽だけはこうして世代間に受け継がれていく。