花と緑を追いかけて

山を愛し、花を愛し、旅と
映画とパソコンと、好奇心も
いっぱいの主婦の日記です

エジプト紀行その10・「アブ・シンベル神殿」音と光のショー

2010年05月09日 | エジプト紀行

今日は「母の日」ということで、息子夫婦がこんな可愛いプレゼントを持ってきてくれました。
これに有名ケーキ屋さんのクッキーが一箱添えてあります。

美味しいクッキーは、爽やかな風が気持ちよいデッキでいただく事に致しましょう。

ハンガリーのブタペストで買った、緑色の花模様の「ヘレンドのコーヒーカップ」
挽きたてのコーヒーを入れてね


目の前のフェンスには白い清楚な「モッコウバラ」が揺れています。

♪時は春、日は朝(あした)
朝は七時、片岡に露みちて、
揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
・・・・・・・・・・・・・ 
すべて世は事も無し♪

(ブラウニング作)

うろ覚えのこんな「詩」を口ずさみながら、緑の中に浸ります
      

デッキの周りは今花盛りです。
こちらは白い「タツナミソウ」、今年は紫色が少ないですね~
他にアッツザクラにキエビネ、ノエビネ、オダマキなどなど・・・

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そしてこの「クレマチス」(主人はテッセンと呼んでます)
マウスオンでもう一枚の画像もご覧下さい

どちらの呼び名が正しいのか?
以前調べたことがあります。こちらの記事を参考にどうぞ・・・

主人からは、近くの日帰り温泉の「入浴券&マッサージ券」がプレゼントされました。

心労が重なり、この所ずっと胃腸の調子が悪くて、肩、背中、腰がゴリゴリに張っています。

挙句にくじいた覚えもないのに、足のくるぶしの所が痛い
久しぶりの畑作業が響いたのでしょうか?

昨日は主人とに行き、1時間ほどマッサージを受けました。

嗚呼~、気どって優雅にデッキでお茶の時間を過ごしても、体はガタガタなのでございますわ

おあとがよろしい様で・・・


       

エジプト「アブシンベルのホテル」

壮大な「アブ・シンベル神殿」をジックリ見学してから、バスで5分の所にあるホテルに到着です。

ヌビア地方の天然石を積み上げた洒落た外観の「セティ・アブ・シンベル」
ここは砂漠の中とは思えない、一大リゾートエリアでした

中庭とプールを囲むようにコテージが連なっています。


K子さんと順番にシャワーを浴びてから散歩に出ました。

「夕陽が見られるかも」
小走りで湖の見えるところに行きましたが、最後の光が輝いて丁度陽が沈むところでした。
慌ててカメラをセットしましたが、間に合いませんでした


あとは静寂が周囲を支配していました。

ここはアフリカ大陸・・・
おりしもこの日は私の誕生日、この日この時、ここに立っていることが不思議でした。


私の大好きなトワイライトの明かりの中で
ナセル湖のナイルのさざ波を見ながらいっとき感傷にひたりましたが・・・


すぐにいつもの2人に戻って遊びます。
「女性雑誌の婦人画報やミセスに載っていた様な、素敵な旅のショットを狙いましょう」

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デジカメ教室の先生から教わった「素敵な写真の撮られ方」をK子さんに伝授します。

「両手でお尻を持ち上げて、片足を半歩前に出す」
「胸もお腹もそのまま斜め横、顔だけこちらに向けてハイ!ポーズ

ほら素敵な写真でしょ(マウスオン)、私もいっぱしの名(迷)カメラマンだわ
きっとモデルが良いからよ

「アブ・シンベル神殿」音と光のショー

「音と光のショー」がこのツァーだけの貸切で見られるということで
日が暮れてから再びバスで「アブ・シンベル神殿」に向かいました。

寒いと聞いていたので、我が家から成田に向かった時と同じ厚手のズボンにダウンの半コート姿で、
カシミヤの山用のセーターとマフラー、ホカロンもバッグに入れました。

そして、皆がいっせいに使うとお湯が出なくなるという話がもれ伝わっている、
ホテルの部屋のバスタブにタップリと熱いお湯を張ってから出発です。


昼間とは違う、幻想的な雰囲気の「アブ・シンベル神殿」です。
夜空が大きくて星が綺麗でした

神殿を正面に見るように石のベンチが並んでいて、そこに30名の我ら一行が座りました。
目の前には大きなアンプ・・・

やがて遺跡のライトアップが消えて音楽が流れ出し、
遺跡がスクリーンとなり古代エジプトの物語が始まりました。

激しい雨の音、
「エジプトはナイルの夏の洪水で、肥沃な土地が造られ栄えたのです」というナレーション

「ラムセスさま~」ネフェルタリの声
「おぉ、ネフェルタリ、見るが良い。この神殿をおまえのためにハトホル神に捧げよう」ラムセスの声

2人の愛のお話もちりばめられておりますが、戦い続きで苦悩するラムセスも描かれていました。
何だか遺跡のラムセス2世がそのまま語りかけているような不思議な錯覚も・・・

最後にはユネスコの活動も紹介されて、移築の時の説明もありそれなりに感動しました。
 

こちらは小神殿です。
音楽とともに遺跡に画像が映し出されるショーの時間は35分、寒くて途中でセーターを着ました。

昼間の賑わいとは異なり、暗い中、貸切の我々30人だけというのも少々淋しさがありましたね。

8時前にホテルに戻り、そのままビュッフェスタイルの夕食でしたが
ナント!ガーデンエントランスの屋外テーブル
冷えた体には堪えます。
誕生日の夜だと言うのに、寒くて乾杯のビールを飲む気にもなりません
典型的な砂漠気候のようです。
グラスワインを飲みながらお食事をいただきましたが、灯りも暗くて何だか侘しい・・・

オマケにTVでエジプトとどこかの国のサッカー中継をやっていて、従業員は気もそぞろ
完全にサービスを忘れています

どんどん片付けられて急かされて、ユックリ食べる間もありませんでした。

添乗員のH島さんから「お誕生日おめでとうございます」」と声をかけられたのがせめてもの救いでした。









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エジプト紀行その9・「アブシンベル神殿」

2010年05月06日 | エジプト紀行

ゴールデンウィークも終わりましたね。

この期間中はずっとお天気に恵まれ、つい一週間前までは朝夕暖房を入れていたのに、
春を飛び越えていっきに初夏の陽気になりました。

連休中は病院もお休みなので父の付き添いも一休みです。
その分「ノンビリ出来た」のかも知れませんが・・・

「混んでる時は出かけない」主義の我が家
でも私は、青空に映える新緑の美しい山々が目に浮び、気持ちが落ち着きませんでした。

この一週間、我が家の庭の「藤」が丁度見頃でした

「端午のお節句」の頃は、和室の床の間に息子の鎧兜を飾り、この実家から持ってきた藤の花の下で
まだまだ元気だった実家の両親を招待して、毎年バーベキュウをやったものです。

庭に放し飼いの愛犬ジュン君も鼻をヒクヒクさせて仲間入りし、
高校生の息子とお肉を分け合って、食べている姿も写真に残っています。

まだ家族みんなが充分に若く、輝かしい未来があると信じていた頃を懐かしみながら
しばしこの「藤」を見上げて、写真に収めました。


この連休中、私は2回両親に会いに施設に行きましたが、その内の1回は息子一家と一緒に行ってきました。

ひ孫達を見て両親は喜んでいましたが、来週には父の検査結果が出るはず・・・
厳しい現実も覚悟しなければなりませんね。

そして今年の「端午の節句」は、孫のハー君の「兜」が飾られた息子宅のリビング前の
主人手製のデッキでバーベキューを楽しみました。

こうして世代は移り代わりながらも、家族の絆は受け継がれていくのでしょうね。

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借りている菜園では今「絹サヤ」「スナックエンドウ」のお花が咲いています。
藤の花と良く似たお花です。マウスオンでご覧下さい

手の平いっぱいの収穫も間もなくですよ
青空の下、私は連日家庭菜園で土いじりをして「夏物野菜」の苗を植えました。

緑豊かな季節を迎えて、ふと砂漠の国を思い出しました。

エジプトから帰ってきてから両親の事でバタバタし、私も何かと余裕がありませんでした。
なかなか進まない「エジプト紀行」ですが、久しぶりに綴ってみたいと思います

       

エジプトの第一目はカイロ郊外の「ピラミッド」を見学し、二日目は早朝2時半出発で
南部の「アスワン」に飛行機で飛び、「アスワンハイダム」や「イシス神殿」を巡り、
バスで280km南の「アブ・シンベル」に向かいました。

「アブ・シンベル神殿」

バスはパトカー先導で砂漠街道をひた走り、アスワンからおよそ3時間で
「アブ・シンベル神殿」の駐車場に到着しました。

世界中の観光客で混んでいる入り口でセキュリティーチェックを受け中に入り、
ガイドのモモちゃんに案内されて丘の上を10分ほど歩いて行くと神殿が見えてきます。

流石に隣国スーダンまで50kmというエジプト南部、冬とはいえ降り注ぐ太陽の光は強烈でした。

大神殿

大神殿の正面には、高さ20mの「ラムセス2世」の4体の巨像が配置されています。

日本でもTVや写真などでこの巨大なラムセス2世像を見る機会はありましたが、
この4体ともラムセス2世だったとは驚きました

神殿が完成してから7年後(紀元前1248頃)の大地震で左から2番目の像の上半身が崩れ落ち
今でも足元に頭部が転がっていました。

ラムセス2世の巨像は、王を守護するコブラの頭を額につけ、王権を現すネメス頭巾をかぶり
王権の象徴である付け髭をつけ、両手を膝に載せています。


ラムセス2世は古代世界の数多くの王たちの中で、最も顕示欲が強かった王として知られており
「ラムセス大王」とも呼ばれていたそうです。

この大王の事は、ギザ郊外のメンフィス博物館にも巨大な像があり
そこの紹介記事でも記しましたが、90歳近くまで生きた「王の中の王」としてアチコチに遺跡が残っています。

その中でも「アブシンベル神殿」が最たるものだと思います。

ラムセス2世は王妃たちの中でも特に「ネフェルタリ王妃」を寵愛しました。
入り口の両脇に王妃の立像が見られます。

そして像の足元には200人近く居た子供達の一部の像が立ち
神殿の入り口の上には、ハヤブサの頭をした太陽神「ラー・ホルアクティー」の立像が見られます。


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内部は残念ながら撮影禁止です。マウスオンでご覧下さい

入り口の門番が「生命の印のアンク」に取り付けた錠前を持っていて、
興味を示した私たちに手渡し「カメラで写してあげる」みたいなことを言ってきました。

その後しっかりと「ワンダラー」と要求してきましたよ。
仕方無しに渡すと、もう一人の門番のおじさんまで手を出すしまつ・・・

今度はぷりんさんが「消せるボールペン」を渡し、使い方を実演して教えていました。

エジプトでは何故か「日本製のボールペンが人気」と聞いていましたが
案の上のようで、おじさんはニコニコと喜んでいました。

「小神殿」

アブ・シンベル大神殿から北に100mほど離れて、並ぶように造られている小神殿は、
ラムセス2世がネフェルタリ王妃と愛と音楽の神「ハトホル」女神に捧げた神殿だそうです。

ここも大神殿と同じ様に岩山を直接掘って造られました。

神殿の正面には高さ10mのラムセス2世の立像が4体、王妃ネフェルタリの2体の立像を
保護するかのように交互に配置されています。


「ネフェルタリ」とは古代エジプト語で”最も美しい女性”という意味
王妃は重いカツラをかぶり、その上に二枚の羽根と二つの角が付いた太陽円盤が置かれています。


中の「至聖所」前室には彩色の残るレリーフがたくさん刻まれています。

お借りした画像は「左のハトホル女神と右のイシス女神が、ネフェリタリ王妃の頭に冠を乗せている」図
三人ともそれぞれに「生命の印のアンク」を持っています。
この2人の女神の事は「イシス神殿」の見学時に、泉アキさん夫妻が即興で演じ皆で勉強しましたね


アブ・シンベル神殿の前には海のような「ナセル湖」(ナイル)が広がっていました。

1960年、アスワンハイダム建設が始まると、その背後にできる人造湖「ナセル湖」のために
アブシンベルをはじめ、ヌビア地方の数々の神殿が水没してしまう恐れがありました。

そのため、ユネスコ指導で世界規模の「ヌビア遺跡救済運動」が始められ、このキャンペーンにより
1964年から1968年にかけてアブシンベル神殿は元の場所から65m高い位置に移動しました。

大神殿は807個、小神殿は235個のブロックに切断しての移築です。


このことが、世界遺産の創設のきっかけとなりました。
「アブ・シンベル神殿」は世界遺産の象徴的な遺跡で、世界文化遺産に登録されています。

3000年前に建造された遺跡が、20世紀に水没の危機に直面し、世界中の協力と知恵
無事に保護されて、天空のラムセス2世もホッとしているでしょう・・・

洋上のホテルのような船が接岸されている青い「ナセル湖」は、そんな騒ぎも忘れたかのように
砂漠の中に満々と水を蓄えていました。




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エジプト紀行その8・「切りかけのオベリスク」

2010年04月09日 | エジプト紀行

古代からアスワン周辺はピラミッドや神殿に用いられた花崗岩の産地で、
ここから切り出された石材はナイル増水時に船でエジプト各地に運ばれました。

アスワン郊外にある古王国時代から開発されていた石切り場には、
今でも切りかけのオベリスクが残っていました

その長さは約42m・・・
完成していれば、現存するオベリスクの中では最大級の物ですが
製作中にヒビが入ってしまったため、そのまま放置されたようです。


まずは一同腰をおろし、モモちゃんの勉強会から始まりました。

オベリスクはまず切り出す大きさに溝を作り
そこに木製のくさびを打ち込み
水をかけて木材が膨張する力で亀裂を生じさせ切り出すとか・・・
切り口はほとんど凸凹がなく滑らかに切れるそうです

世界中に現存しているオベリスクは合計で30本だといわれています。
そのうちオベリスク発祥の地、エジプトには7本しか残っていません。
「たくさんのオベリスクがエジプトには在ったのに、そのほとんどを戦利品として盗られました
とモモちゃんは残念そうにつぶやいていました。

古代ローマ帝国がエジプトを支配下に収めたとき、
エジプトから50本ものオベリスクを本国ローマに持ち帰ったと伝えられていますが
その殆どが現在発見されていない状態で、ローマには13本のオベリスクが残されているのみです。

そのほかの10本のオベリスクに関しては、
イタリア各地、トルコ、イスラエル、フランス、アメリカ、イギリスなどに点在しています。
フランス・パリのコンコルド広場のオベリスクも有名ですね。


モモちゃんの説明が終わってから、各自石切り場の丘を登りました。
明らかに溝が掘られ表面が滑らかな長い石が横たわっています。
以前はこのオベリスクの上に登れたようですが、今は立ち入り禁止・・・


更にひと登りするとアスワンの町が見渡せました。
乾いた風は爽やかでしたが、照りつける太陽が強烈で、みんな帽子やフードを目深くかぶります。

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下を見下ろすと私たち仲間4人の影か見えています。。マウスオンでご覧下さい

「みんなでハ~イ、ポーズ」号令をかけてカメラで写しているのが私です


石切り場のてっぺんから、ヌビアの人々が暮らす家々が望めます。
もともとエジプトとヌビアはそれぞれ独立した別の国でした。

広大なヌビアの大地は金や銅を初めとする鉱物資源に恵まれていたため、
ヌビア人は小さな集団を形成していました。

現在ヌビアという国は存在しませんが、年中行事や冠婚葬祭、音楽や建築、衣装に見られるスタイル
エキゾチックな風貌などエジプトとは違う、ヌビアとしての独自性が色濃く残っています。


石切り場の丘を下ってお土産屋さんの並ぶ通路を通り、
トイレに寄ってからバスに戻ると「ランチボックス」を手渡されました。

これからいよいよ280km南にある、エジプト観光のハイライト「アブシンベル」に向かいます。

午後12時半、すべての観光バスは軍団になって、パトカー先導で行くようです。

エジプトではイスラム原理主義のテロによって亡くなった人は、
1992年から98年までにかけての6年間だけでも観光客地元民含めて1100人にものぼるとか・・・

特に1997年のルクソールの「ハトシェブスト女王葬祭殿」での出来事は戦慄でしたね。
日本人観光客10人を含め、68人がテロにより亡くなりました。

それ以来観光客は激減、特に日本からのツァーはいつまでも再開されず
観光立国のエジプトには多大な痛手となったそうです(そこがテロリストの狙い目?)
それで日本大使館と話し合いが行われ、このようなパトカー先導で行く措置がとられたとか・・・

モモちゃんに言わせると
「パトカー先導、こわ~いというのが日本人」
「おもしろ~い、というのが西欧人」なのだそうです。


警察官の見送りを受け出発です。
バスの中からはパトカーの姿は見えませんから、物々しさは特に感じられません。

たとえテロの心配がなくても、このようなアラビア語の標識では、
オーストラリアのようにレンタカーを借りて個人で行こうにも無理がありますね。


こちらは速度標識でしょうか・・・
どの車も凄いスピードで走り、守られているとも思えませんでした。

朝ごはんは、早朝のカイロ空港でお弁当のパンとチーズとヨーグルトを食べただけですから
流石にお腹がすきました。


こちらが「ランチボックス」の中味です。
炒めご飯とコッペパン・・・
パンの間に鳥の唐揚げをちぎってピクルスと一緒に挟んで食べたら、それなりに美味しかったですね。

後の席に座っていた泉アキさんが覗き込んで、「私、青唐辛子が大好き!」と言うので
お分けしましたわ。


広大な砂漠の中に送電線がどこまでも通じていました。
アスワンハイダムが出来て以来、有り余るほどにエジプトの電力事情は良くなったそうです。

砂漠街道をバスは速度を増して走ります。
その内、皆がコックリコックリ舟を漕ぎ出しました
この2日間、ほとんど寝る時間がありませんでしたものね。

          

ご報告です。
全身麻酔で行う父の二泊3日の検査入院の予約を来週に入れたのですが、
不安がいっぱいで眠れない日が続き・・・
一昨日、「あなたも真剣に考えて!」と弟を誘いだし、一緒に病院の主治医と再度話し合いました。
先生も「無理には勧めません」と言ってくれましたので、結局キャンセルしてきました。

今更手術も出来ないのに、リスクの高い検査をしてどうするの!といった心境だったのですが、
一人で決断するには重すぎて、弟にも一緒に考えてもらいました。
これで後悔したとしても、2人で決めたことですから重荷は半分です。
姉妹がたくさんいらっしゃる方々を羨ましく思ったこの数週間でしたよ。

患部は前立腺なのでこれからホルモン療法に入ります。
まだまだCTスキャンやMRIの検査はあり、すべてはこれからなのですが・・・
取り合えず最初の難問は通り抜けてほっとしました。

昨日はピカピカのお天気の中、花のお江戸に繰り出し、そして明日はお花見に出かけます。
私も気持ち的にようやくを感じることができました。
ご心配いただいた皆様、ありがとうございました


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エジプト紀行その7・「イシス神殿」

2010年04月06日 | エジプト紀行

「イシス神殿」のあるフィラエ島はアスワンダムの上流・アスワンハイダムの下流といった場所に位置します。
フェリーボートに乗って10分、フィラエ島(旧アギルキア島)の桟橋を降りると正面に第一塔門が見えてきて
桟橋から、この第一塔門までは美しい列柱が続いていました。

この第一塔門の右側にはホルス神を中心にイシス女神らが、
左側には敵を打ちすえるファラオが刻まれています。


この島は神話の世界の神であるオシリス神の島であり、オシリスの妹であり妻でもある
イシス女神が息子ホルス神を生んだ島「聖地」として崇められていました。

古代エジプト末期王朝頃(クレオパトラの父の時代頃)にフィラエ島にイシス女神を祀る神殿が築かれ
緑の美しさともあいまって「ナイルの真珠」と呼ばれてきました。

しかし、この神殿もアスワン・ハイダムができ、水没する運命に・・・
そこで、お隣にあったアギルギア島に神殿は移築されました。

それにしても異国の神話の世界は難しい・・・
ガイドのモモちゃんは即興劇したてで説明をしてくれました。

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マウスオンでご覧下さい
イシス女神の役はタレントの泉アキさん、夫のオシリス神は桂菊丸さん。
息子ホルスとその妻ハトホル役はもう一組のご夫婦が演じます。
絶妙なキャストですね。

エジプトの神話を簡単に説明すると・・・
オシリスは弟であるセト神に殺されてしまい、死体をばらばらにされます。
(菊丸さんは早々に退場)
それを妹であり妻であるイシス女神が拾い集め、オシリス神を復活させ、オシリスは冥界の王となりました。

イシス女神はオシリス神の妻であるとともに、ホルス神の母として尊敬されています。
死者の保護者としても描かれることが多く、頭の上に、日輪と牝牛の角や玉座を乗せているのが特徴です。

ホルス神は、ハヤブサの頭を持つ天空の神。
ファラオはホルス神の地上での化身とされました。


神話の中の神様同士の関係を教わってから、神殿の中に入りました。


第二塔門の中央には、ハヤブサの頭を持つホルス神が彫られています。
このホルスは来る時に乗ってきたエジプト航空機のマークにもなっていましたね。


こちらは牡牛の耳を持つ、愛と喜びの女神ハトホルの顔を彫り込んだ柱です。
ハトホルはホルスの妻なので、この神殿にはハトホル柱が多いようでした。


神殿の中は壁一面に美しいレリーフが刻まれています。

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マウスオンでご覧下さい
イシス女神がホルス神を生んだ地とされるだけあって、
この神殿には母としてのイシスを描いたレリーフが多くありました。
一枚目はホルス神に立ったままお乳を飲ませているイシス女神です。

二枚目は神の顔の向きにより、ヒエログリフ(象形文字)で書かれた文章の
初めと終りが分るというモモちゃんの説明を受けたレリーフです。
「左を向いた顔の絵のところから文章は始まり、右を向いた絵のところで終わる」だったかな~?


中には女神が削られていたり、上からキリスト教の十字架が刻まれたりもしています。
キリストに祈りを捧げる礼拝堂の跡らしきものもありました。
後々ここはキリシタンの隠れ場所にもなったようですね。

イシスとホルスの母子の姿は、キリスト教徒にとっても「マリアとイエスキリスト」の姿に
ダブルものがあったとモモちゃんは話していました。


朝の9時過ぎ、モモちゃんの説明が終わって外に出てみると、
エジプト南部の強烈な太陽が照りだしていました。

私たちは「明日見学の予定の神殿を今日に変更」と言われ、何の予備知識もなくバスを降り
まさかの船の移動・・・
帽子すら持ってこなかったので慌てました。


長方形の建物は「トラヤヌス帝のキオスク」
神殿で儀式をするとき、船で帰還したイシスの休憩場所として造られたそうです。


14本の柱で構成され、神々とトラヤヌス帝のレリーフがありました。


ポールが建っている一帯がほとんど水没した「旧フェラエ島」
ユネスコが中心になり、この「イシス神殿」は隣の島に移築され、1980年に完成しました。

今では神殿の建つこちらの島が「フェラエ島」と呼ばれているそうです。


来た時と同じ様に再び船に乗り、バスに戻ります。
船の中から「イシス神殿」の全体の姿が見えてきました。


正面の長い長い堰は1902年に完成した古い「アスワンダム」


ヌビアの人々が暮らす町が見えてきました。
もうすぐ船着場です。


       

サクラは満開になりましたが、なかなかお天気に恵まれず、
未だに綺麗なサクラをジックリと見てはいません。

4日の日曜日は、今にも雨が降り出しそうな中、主人が中心となり
皆で息子宅の庭の造園仕事に頑張りました。

息子宅の目の前のテニスコートにも隣の公園にも、たくさんのサクラが咲いていましたから、
ここからの眺めで満足しましょう

日が暮れてから皆で大船の「日帰り温泉」に出かけました。
ユックリお風呂に入りお食事もここでマッタリと楽しみました

春休みなのに精神的に余裕がなく、孫達と一緒に遊べなかったばぁ~ばのおごりです。

TBSテレビ「世界遺産・ナイルの源流を訪ねて」

こちらの画像はTVに映し出された「ナイルの始まりの一滴」です。

私が毎週楽しみにしている番組に、日曜日の午後6時からのTBS「世界遺産」シリーズがあります。

4月4日は「ナイルの源流へ・ルウェンゾリ山地国立公園」をやっていました。
これは見逃すわけには行きません。
みんなで温泉に行っていたので録画をしておきましたよ。


アフリカを流れるナイル川は、全長約6650メートルの世界最長級の河川。
古代の歴史家が「エジプトはナイル川の賜物」と表現したように、ナイル川はエジプト文明をはじめ、
その流域の人間の文化や生活に昔も今もさまざまな影響を与え続けてきた偉大な自然であります。
ウガンダのルウェンゾリ山地国立公園は、そのナイル川の"源”を抱いた山々がある世界遺産です。
(TBSテレビより)


2世紀の地理学者であるプトレマイオス・クラウディオスが作成した地図に、
ナイル川の水源のある「月の山」が描かれていました。

19世紀当時、大河の源流の発見者になるのは大変な名誉で、
冒険家たちは伝説の「月の山」を目指してナイル川上流の未開の地へ踏み込んでいっていたのです。
そして1889年に、イギリス出身の冒険家、ヘンリー・モートン・スタンリーが
ヨーロッパ人として初めてルウェンゾリ山地を発見しました。
(TBSテレビより)


一般的には「ビクトリア湖」がナイル源流と言われていて、湖畔にはその碑も建っているようですが
まだまだ先があったのです。


アフリカ大陸第三位の高さを誇るルエンゾリ山地のマルガリータ峰(5109m)頂上付近の氷河から
最初の一滴が流れ出た「ナイル」は、やがて大河となって地中海に注ぐのです。

私たちはその一番下流のエジプトの「ナイル」をしっかりと堪能してきたわけですね。

さて・・・
父の容態をこのブログで綴りましたが、たくさんの皆様に励ましをいただき有難うございました。
これを読んだ友人達からも電話でアドバイスをいただいたりと、
とても心強く感じ感謝しております


施設の担当医に「是非に!」と勧められ、細胞検査を受ける方向で予約を入れましたが
「2泊3日の全身麻酔」と主治医から言われて再び迷い始めました。

従兄弟のコーちゃんからも「全身麻酔はやめた方がいい」という助言もあり、
明日、弟と一緒にもう一度総合病院の主治医と話し合うことにしました。

最近のお天気のように、私の心は相変わらず乱れています。


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エジプト紀行その6・「アスワン」に飛ぶ

2010年03月31日 | エジプト紀行
今日で三月も終りです。
それにしては真冬の寒さが続き、一昨日などは箱根や御殿場では結構な積雪となったらしい・・・
我が住宅地から見える丹沢の山々も雪で真っ白です


サクラの開花宣言が出されて10日が経ちました。

寒さに耐えていた「ソメイヨシノ」も、昨日の青空に花びらを広げだしていました
両親がお世話になっている施設のサクラは、30日時点で3分咲きといったところでしょうか・・・

この所、1日おきに両親の顔を見に通っています。

父の検査入院が「痛くて辛いものだったら断ろう」と弟と決めていましたが
相談に乗ってもらった施設の担当医師は、
是非受けてください。はっきり分った上で今後の療法が考えられるのですから」と・・・
医者ならきっとそう言うだろうなぁ~

帰路、私の頭は混乱していて、このサクラを見上げた時にふと「涙」があふれました。
”そうだ、イトコのコーちゃんに相談してみよう”

コーちゃんは父の長兄の長男で、私より9つ上の従兄です。
先般、一家で両親のお見舞いに来てくれたのですが、
その時、父が疑われている病と同じ病気を患っていると聞きました。

早速TELして詳しいことを聞きました。
「その数値ならガンである事は間違いないと覚悟したほうがいい」
「でも細胞診検査はそんなに辛くはないので受けても大丈夫だと思う」
「ただ骨のスキャナー検査は僕でも恐怖だったから、叔父さんには受けさせたくないな~」
「とにかくもう今更手術とか放射線治療とかは考えるなよ。薬で抑える方法もあるからね」

そうです、このようにハッキリと具体的な意見を言ってくれる身内が欲しかったのです。

本家の跡継ぎ意識の強かったコー兄さんは、昔から私を可愛がってくれました。
「これからも何かと相談に乗ってね」
受話器を置いたとき、少し心が軽くなっていました。

         

さて、エジプト紀行がすっかり途切れていました。
帰国してから早2ヶ月が過ぎ、記憶も薄れてきそうで恐ろしい・・・

今考えると、私がエジプトから帰って来るまで父が元気でいてくれたことに感謝です。
きっと父が予定通りに行かせてくれたのでしょうね

<夕闇迫るギザの街>

エジプト観光第一日目、午前中はギザの「三大ピラミット」を見学し
午後からは郊外の砂漠の中にある古い「階段ピラミッド」「屈折のピラミッド」を見て周り
ギザに戻って、オリンピックで柔道の山下選手と戦ったラシュワン氏が経営する
「パピルスの店」でお買い物・・・

その後は夕食のためのレストランに向かいます。
バスの窓から、ゴミだらけの運河の向うに「ピラミッド」が見えてきました。


カフラー王と、その息子メンカウラー王のピラミッドは、ギザの街のあちこちから見えるようです。

この日は夕方から風が強くなり、砂漠は軽い砂嵐のようでした。


カイロ周辺も砂の影響でけぶっていて、夕陽がボンヤリと霞んで見えました。

「皆さん、明日は早朝出発の飛行機でアスワンに向かいます」
「今夜は早めに夕食を済ませてホテルに戻るので、明日に備えて早く寝てください」
「何時に出発かという事は僕は怖くてとても言えないです
ガイドのモモちゃんはニヤリと笑って挨拶を済ませ、カイロの自宅に帰っていきました。

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こちらがこの日の夕食です。マウスオンでご覧下さい

「旅のしおり」には、この日のメニューは「コフタ(ひき肉の串焼き)料理」と書かれています。
白いライスは香辛料の入ったバターライス、その横にボーイさんがポテトフライをドサッと乗せると
お皿の周りにポテトがパラパラとこぼれました
テーブルには昼食時にもあったヒヨコ豆とゴマのペースト、ナスの炒め物が並んでいました。

7時過ぎにホテルに戻りました。
「明日は4時35分発の飛行機に乗ります」ロビーで添乗員さんが翌日の予定を説明。
「モーニングコールは1時半」「ホテル出発は2時半です」
「荷物は2時までに、ロビーの正面玄関前に持ってきて下さい」
「朝食は出発前にレストランでお弁当ボックスを配ります」

お部屋に戻り、K子さんと順番に入浴し、それから2人で黙々と荷物の整理をしました。
飛行機となると手荷物や荷造りにもそれなりに気を使います。

2日目の夜も興奮していましたが、安定剤を飲むと起きられなくなる恐れがあり・・・
冷蔵庫に入れておいた成田で買った1本のカンビールを半分ずつ飲んで、11時過ぎに就寝しました。

1月25日・「アスワンへ」

カイロから飛行機で約1時間半で、南部の街「アスワン」に到着します。
上の地図をご覧下さい

エジプト南部の旅は、このアスワンから南の隣国スーダンに程近い「アブシンベル」まで南下し一泊
そして再びアスワンに戻って一泊
更にここから200km北上して「ルクソール」で1泊の、計3泊4日をバスで周る旅となります。

尚、このコースはナイル川をクルーズで巡る優雅な船旅もたくさんあります。
多少お値段は張りますが、体力的にはずいぶん楽かと思いますね。


朝の6時半過ぎ、寝不足の目に突然湖が見えてきました。
アスワンと言えば、私たち日本人はすぐに「ダム」が浮んできます。


ナイル川のダム湖(ナセル湖)の向うに朝日が昇ってきました。
睡眠不足でぼぉ~っとしていたせいか?、コンデジだけ抱えてバスを降り、
朝日をパチパチと写しました。


年間を通じて水の供給を図るために、当時エジプトを統治していたイギリスが
1902年に「アスワンダム」を完成させましたが、予想を超える人口増加で目的は果たせなくなり
1964年にソビエトの協力で長さ約3600m、高さ約111mの巨大な「アスワンハイダム」が建設されました。

上の画像は完成を記念して建てられた「ハイダム記念塔」です。


山の中の急峻な土地に建設される日本のダムのイメージとは大きく異なりますね。
幅が3.6kmもあるので、ダムというより長い長い堰きのようで・・・
その上が自動車道路になっているのです。

1973年にはダムによってできた「ナセル湖」の貯水も完了し、
充分な農業用水と電力が確保できるようになったそうです。

叉このダムは軍事機密地域になっていて、写真撮影も制限があるとか・・・
大きな望遠レンズは駄目だそうです。

ダムサイトの見晴らしの好い展望台に行くだけで、セキュリティーチェックを受けました。
このダムが決壊すれば、エジプトの主なナイル河畔の都市が水没すると言われていますから
このような厳重な警戒も必要なのでしょう。


ダムはエジプトに豊富な電力を供給していますが、毎年起こっていた洪水がなくなることにより
下流域に養分を含んだ土砂が運ばれず、土地が痩せたり、塩害が出たり・・・
ナセル湖の蒸発によって生じた雲から雨が多くなり、遺跡を削り取ってしまうなどの問題も出てきているようです。


アスワンから南の地方は、ヌビア人の国でした。
新国王時代にエジプトと同化しても、ヌビア人は独特の言語や文化を持ち続け
現在もその影響を見ることが出来るとか・・・

ヌビアの人々が暮らす村が正面に見えていました。


ギザのピラミッドを見た時モモちゃんに
「砂漠の砂を少々お土産に持って帰りたいけど、何だかラクダの糞だらけね」
と話したら
「アスワンに綺麗な砂があるから、明日はビニール袋を用意しておいて」と言われました。

約束どおりアスワンハイダム近くの砂山で、砂を少々採取しました。
本当に白くてサラサラの「パウダー・サウンド」です。
でもまたまた荷物が重くなりそうで悩みます。

「皆さ~ん、明日の見学予定のイシス神殿ですが、今時間があるのでこれから行きますがいいですかぁ~?」

モモちゃんの話を聞きながら車窓の風景をカメラで写していたら、
建物の門の前に立った哨戒中の兵士と目が合いました。ドキリ

「軍事施設を写しちゃったかしら
あわてて画像を消去しました。
ここはテロ対策が徹底しているエジプト・・・
平和ボケの日本とは違うということを心しないといけませんね。



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エジプト紀行・その5「サッカラの階段ピラミッド」

2010年03月02日 | エジプト紀行
「冬季オリンピック」も終り、気がついたら慌しかった2月は過ぎ去り弥生3月に入っていました。
春を探しに出かけたいところですが、この所の悪天候に足止めをくらっています。

引き続き「エジプト紀行」をUP致しますのでお付き合いください。

サッカラ
「メンフィス博物館」を見学してから、運河の反対側にあるネクロポリス(死者の町)として
数多くのマスタバ墳(墓)が造られたサッカラに向かいました。

ここはエジプトでのピラミッド建設の第一歩をしるしたと言われる
「ジェセル王のピラミッド」が在る所として有名です。

「階段ピラミッド」

風が強くなり「ナツメヤシ」が大きく揺れていました。
細かい砂が舞い上がり、バスの窓も曇りがち
「砂嵐」が多いのは3月から5月にかけてと聞いていますが・・・

そんな中、ジェセル王の「階段ピラミッド」が前方に見えてきました。


バスを降りて入り口を入ると、二列20本の柱が並ぶ柱廊が続きます。
モモちゃんが棒を使って、何やら柱の説明してくれましたが内容は覚えていません


柱廊を抜けると「階段ピラミッド」が目の前に現れます。
これが紀元前2650年頃の古代第三王朝時代に建てられた世界最古のピラミッドです。

マスタバを6段重ねた階段状になっていて、高さは約60m、基底部は140m×128mと小ぶりですが、
それまでとは全く違う新しい形の墓を造りました。
その形は独特で、私たちが持つピラミッドのイメージとも少々異なりますね。
(ただし今回見学したどのピラミッドも基底部は四角形です。三角錐ではありません)


風がますます強くなってきたので、カメラを慌てて上着の内側へ隠し
そして、ウインドブレーカーのフードを深くかぶりました。

音声ガイドを通してモモちゃんの説明は続きます。

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マウスオンで、右側の三本の柱と「王の小館」をご覧下さい

東西277m、南北545mの周壁に囲まれ、「階段ピラミッド」を中心に「セド祭殿」、「葬祭殿」の
建物が残っており、ピラミッドコンプレックス(複合建築)の仕組みがよく分る場所す。

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今から4700年も前のピラミッドだけあって、崩壊が激しく手作業での修復がなされています。

モモちゃんが「ピラミッドから少し離れたこちらからの撮影がベストポイントです」というのを聞いて、
出口近くでもう1度カメラのシャッターを押しました。マウスオンでご覧下さい

カメラの前を横切った仲の良い二人連れ・・・
同じツァーで周っているTVでお馴染みのご夫妻です。
さてさて誰でしょう? 
(尚、お二人にはブログ掲載の了解をいただいてあります)


メンフィスやサッカラの周辺は、日本の昭和30年前後のような懐かしい風景が広がっています。

果物屋さん頭に荷物を乗せて運ぶ女性

去年旅したバリ島の田舎の風景にも良く似ています。

ただ「バリ島」では制服を着た小学生の姿が見られましたが、
ここではお父さんの手伝いをする子供の姿はあるものの、学校らしきものが見当たりません。


こちらの無数の穴のあいた塔は「鳩料理用」の鳩を飼っている「鳩小屋」です。
鳩のヒナ料理はエジプト料理でも有名で、結構美味しい物でしたよ。

車窓の風景を楽しみながら、モモちゃんの案内を何気なく聞いていました。
「エジプトには義務教育はありません」
「エエッ~、知らなかったわ」

「カーペットスクール」見学

「ペルシャ絨毯が有名ですが、エジプトの絨毯も品質が良くて負けません」
「このサッカラ周辺にはたくさんのカーペットスクールがあるので、これから見学に行きます」


「繊細なシルクのカーペットを織るのは、10歳前後の少女の指が丁度良いのです」
「ここでは8歳から15歳までの少女達が習っています」

中に導かれ入っていくと、薄暗い中でいたいけな少女達がせっせとカーペットを織っていました。
一瞬、昔読んだ小説「野麦峠」で描かれていた「女工哀史」の悲劇が頭に浮かびましたよ。

ここはあくまで「観光用」で、絨毯の製作をお見せするのが目的のようでしたが・・・

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マウスオン・クリックで三枚の画像をご覧下さい

10cmを織るのに一ヶ月かかると聞いています。
気が遠くなるようなお話しですが、私のカメラに向かって微笑んだ少女の笑顔を見てホッとしました。
大人の先生達は指が太いので、織るのはウール専門だそうです。

最近、草木染と織物に懲りだしたK子さんは熱心に先生達が織る姿を見ていました。

私たちはチップも要らない綺麗なトイレを使わせてもらってから、2階に案内されました。

2階の絨毯売り場は撮影禁止でした。
流石に100万円を越すような超高級カーペットが並んでいます。


私が買えるのはこの程度、絹で織られた(35cm×15cm)小さな花瓶敷きを購入しました。
米ドルで110$、日本円で1万円とか・・・

プリンさん姉妹と一緒に「同じものを3枚買うから負けて」と交渉しましたが、
負けてくれたのは僅か500円、9500円を払いました。

少女たちの姿にほだされて記念に買いましたが、何だか上手く乗せられた気持ちがなくもありません。

今我が家のリビングのカップボードの上に敷いて、備前焼きの壷を置いています。
それが案外マッチしているので良かったと思っていますが・・・


ギザの街に戻り、最後は「パピルスの専門店」に案内されました。

「皆さんはロスアンゼルスオリンピックで、柔道の山下選手が金メダルを取った試合を覚えていますか?」
バスの中でモモちゃんがその時の試合のビデオを流し、そして語り始めました。

「あの時の決勝戦の相手はエジプトのラシュワン選手でした。」
「彼は山下選手の負傷している足を狙わずに、フェアプレーで戦い負けましたが、エジプトでは英雄となりました」
「山下選手とも深い友情が生まれ、それが縁でラシュワンは山下選手の監督の妹さんと結婚
「ここギザにパピルスのお店を開いています。これからいく所がラシュワン選手のお店です」

店内は撮影禁止でしたが、実演をまじえてのパピルスから紙を作るまでの説明を受け、
ウエルカムドリンクとクッキーを戴き、そしてパピルスの額とお土産用のしおりを10枚買いました。

ツタンカーメン王の夫婦が描かれた額「ツタンカーメンの玉座」(25cm×25cm)は100$(9000円)、
JTBのお客様は1割引になりましたが、物価の安いエジプトから考えれば結構なお値段です。

「町の市場で売っている安物のパピルスはサトウキビから出来ています」
「甘いから、やがて蟻がたかって変色します」
というモモちゃんの言葉を信じて、ここで本物を買いましたよ。

山下選手のお話も聞かされて、本当に説明の構成が上手いプロ中のプロのガイドさん。
イケメンでステキなお方でしたわ

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エジプト紀行・その4「ダハシュール」&「メンフィス」

2010年02月26日 | エジプト紀行
「ピラミッドが見えるレストラン」でランチを済ませてから、午後は市街地を離れ郊外へ・・・
ギザの南約10km~20kmの所に、午前中に見学した「三大ピラミッド」の原型となる
古いピラミッドが点在しているのです。


まずはバスの車窓から眺めた、マンションが建ち並ぶギザの街の風景をご覧下さい。

道路はどこもゴミだらけ・・・運河の周りもゴミだらけ・・・

清掃車の姿も見えるのですが、ゴミの収集は全然追いつかないようです


ゴミだらけの運河に沿って南下し、サッカラ、メンフィス、ダハシュールへと向います。

やがて車より馬やロバが多くなります。こちらはロバの八百屋さん?



カイロ近郊は世界一の「ナツメヤシ」の産地だそうです。
運河の向う側は一面に広がるナツメヤシの林・・・

それがいつの間にかなくなり、気がつくとバスは砂漠の中を走っていました。
最初はギザから約20km南にある、ダハシュールの古代ピラミット見物です。

ダハシュール
軍事施設があるために、1996年までは非公開だったたダハシュールには6基のピラミッドがありますが
主なものはクフ王の父、スネフル王が建設した2基のピラミッドです。

ギザのピラミッドは市街地と隣接し観光スポットの代表的な存在ですが、
ここは本当に砂漠の真っ只中、お土産屋さんなどはいっさいありませんでした。

「屈折のピラミッド」

その名のとおり、高さ105mの真ん中地点(50m)から傾斜角度が変わっています。
何故こうなったのか?諸説はいろいろあり、

「建設途中で地盤沈下が起きたため、角度を変えて高さを低くし石の量を減らして重さによる崩壊を防いだ」
叉「王の死が近いので工事を急いだ」という説もあるようです。

モモちゃんの説明では「最初の角度では途方もない高さになるため、途中で変更」というミス説でした。


左に見えている崩れかかったピラミッドは、アメンエムハト三世の「黒いピラミッド」です。
他の三基は崩れて丘との見分けが付かなくなっているようです。

「赤のピラミッド」

スネフル王のもう一つのピラミッドは「屈折のピラミッド」の北にあります。
バスはこのすぐそばに駐車しました。

表面の化粧岩がはがれて出土した石が赤いことからこう呼ばれているそうですが、
他と比べて特に赤いとも思えません。

基礎部分の四角形の1辺は220m、高さは105m。
一面が美しい三角形の「真正ピラミッド」ですが、傾斜角度が緩やかなので(43度)、
後に建てられたギザの三大ピラミッドに比べると迫力に欠けます。
しかし「最古の真正ピラミッド」として意義があるようです。

ここも中に入れるようですが、私たちは先を急ぎました。


この「リビア砂漠」の砂の中には天然のガラスが混じっているそうです。
モモちゃんが砂の塊をひっくり返して、光る粒を教えてくれました。

ツタンカーメンの黄金のマスクにも使われている宝石「天然ガラス」
隕石が衝突した時の衝撃と高熱で、砂に含まれるガラス成分がくっつき結晶化した
天然ガラスだと言われています。

この旅行の直前に観たTV「世界不思議発見」という番組でも取り上げていました。
ここリビア砂漠の奥地には大粒の天然ガラスがゴロゴロと落ちているらしい・・・
砂漠にはまだまだ不思議な「ロマン」がたくさんありますね。

叉ここダハシュールは近年石油が掘り出されたそうで、
パイプから激しく燃え上がる炎がはるか遠くに見えました。

メンフィス
メンフィスは今から約5000年前、第1王朝が始まったときに建設された古代エジプト最初の首都です。
歴史的には重要な役割を果たした都ですが、今では荒れ果てた神殿跡が残るだけの、静かな農村でした。


バスは北に戻り、行きに通り過ぎた「メンフィス」の町へと入りました。

「メンフィス博物館」

セキュリーティーを通って入った「博物館」の正面に「ラムセス二世の立像」がありました。
ラムセス二世本人が、メンフィスの土地神を祭った「プタハ神殿」に奉納した高さ7mの像だそうです。

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広場の真ん中に、1912年に発見されたアラバスター製のスフインクス(約10m)があります。
ギザのスフインクスは顔が痛んでいますが、こちらは端正なお顔が残っています。

モモちゃんは「右側からのお顔が素晴らしい」とお薦めでした。
アップのお顔をマウスオンでご覧下さい


新王国時代のファラオ「ラムセス二世」がプタハ神殿前に建てた巨大な像が
今では足首から下の部分が破損したため、建物の中に横たわるように保存されています。

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顔の部分は保存状態が良く、威厳が感じられるような堂々とした表情です。
マウスオン・クリックでお顔のアップもご覧下さい


そしてこれが古代エジプトの歴代のファラオの中でも「大王」の称号を与えられるラムセス二世の証

モモちゃんの説明では「上(左)から太陽、王様、太陽、波。これがラムセス二世のマークです」
「これからも度々出てきますから覚えてください」と・・・

「太陽の王、光の息子ラムセス」
父セティ1世の没後、22歳で即位したラムセス二世は、其の後67年の永きにわたり国を治めました。
身長180cm以上という当時では並外れた体格に恵まれ、90歳近い生涯のうち200人もの子供をもうけた
超人的なファラオと言われています。(JTBワールドガイドより)

エジプトの旅では、この後の「アベシンベル神殿」でも巨大なラムセス二世と対面する事になり
その功績をあちこちで見聞きし、彼が「ファラオの中のファラオ、神々に祝福された王」
であることを納得させられました。

尚、今回のバスの車窓からの画像の半分は、同行した友人のぷりんさんが写したものをお借りしました。
ぷりんさん、どうもありがとう


         

 浅田真央ちゃん、銀メダルおめでとう

後半のミスが惜しかったけど、果敢に攻めていった真央ちゃんに拍手です

昨日はエジプトに一緒に行ったぷりんさんに「映画」に誘われて出かけました。
南アフリカの黒人初の大統領となった「ネルソン・マンディラ氏」をモデルとした
クリント・イーストウッド監督の「インビクタス/負けざる者たち」を観ました。

「ミリオンダラーベィビー」や「チェンジリング」のような強烈な内容とは違いますが
憎しみあう白人と黒人の対立をラグビーによって融合させたという、
正統派のしみじみと感激する映画でした。

実在するマンディラ大統領を演じたM・フリーマンも味があって良かったし、
C・イーストウッド監督の作品には「ハズレ」がありませんね。

映画の後はランチとお喋りで、私も鬱積していたものが消えてなくなりました。

そして今日は、女子フィギアスケートに熱くなり・・・

「バンクーバー」は私が初めて海外の地に足を踏み入れた最初の街。
「カナディアンロッキー・ハイキング」に行くために降り立った街で、ここで一泊しました。
オリンピック中継を見ていても感慨深いものがあります。

私も、いつまでも抜け殻状態ではいられませんね

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エジプト紀行・その3「ラクダとスフインクス」

2010年02月17日 | エジプト紀行
パノラマポイントからの眺め


ギザの三大ピラミッドが一同に見える「パノラマポイント」からの眺めです。
左から「クフ王」、「カフラー王」、「メンカウラー王」のピラミットが並んで見えます。
一番右の小さな崩れかけたピラミッドは王妃たちのピラミッド

正面に砂埃で霞んだギザの街が広がっていました。


バスを降りる時全員に、ガラベイヤという色鮮やかな民族衣装が手渡されました。
それを着て一同揃って記念撮影です。

今回のツァーは夫婦連れが6組、女性の2人連れが3組、男性の3人グループ、女性の5人グループ、
そして私たち4人の合計30名(男性9名、女性21名)でした。

この時期の10日間の海外旅行となると、圧倒的に中高年が主流です。
学生さんたちはまだ試験の季節なのでしょう・・・

ここでもたくさんのラクダの姿がありました。

「このツァーではラクダには乗らないのですか?」ぷりんさんが添乗員さんに聞きました。
「以前JTBのお客様がラクダから落下して骨折した人がいるのです。それ以来ツァーには入っていません」
「もし乗りたい方がいらっしゃるならガイドさんが交渉してくれますが、あくまでも自己責任でお願いします」


「砂漠にはラクダでしょう」とK子さんが言い、
好奇心旺盛な私たちはモモちゃんに頼みました。
「一人10$ね。2人乗りの方が安定感がありますよ」と・・・

私と同じ背丈のK子さん、2人とも歩くとガラベイヤがズルズルと引きずります
たくしあげてイザ、ラクダの背中に・・・
気の弱い私はK子さんの後ろ側に乗りました。

「ウァ~ォ
ラクダは後ろ足から立ち上がりますから、一瞬前につんのめりそうになり
慌てて取っ手にしがみつきました。


こちらは私たちの後ろに連なっているぷりんさん姉妹
ラクダの背中は思った以上に高く感じます。

雄大な景色の中を爽やかな風と強烈な太陽を感じながら
ほんの15分程度のラクダ乗り体験でしたが、忘れられない思い出となりました。

「あなた達って勇気あるわね~」と
ツァーの方々から感心(向こう見ずなお転婆ぶりに呆れ果てられた?)されました

「スフインクス」

エジプトと言えば「ピラミッド」、そしてピラミッドと言えば「スフインクス」ですね。
バスで少し戻り、スフインクスを間近で見ることになりました。
(右側にクフ王のピラミッドと太陽の船博物館が見えています)


ここでは三大ピラミッドの中央に位置する「カフラー王」のピラミッドから延びる参道や河岸神殿
スフインクスがセットになった複合体(ピラミッド・コンプレックス)が綺麗に残っています。

スフインクスの左側に見える石組みが「河岸神殿」(昔、ナイル川の船着場があった所)
スフインクスはこの神殿の上から見学することになります。


人面獣身で有名なスフインクスは全長57m、高さ20m。
顔はカフラー王に似せて造られたという説もあるようです。

アラブの侵入後、鼻が削られ、イギリスにはヒゲを盗られたその顔は(ヒゲは大英博物館にあるらしい)、
悲哀にあふれて見えますね


本来のスフインクスはこんなお顔だったと、モモちゃんが見せてくれました。
まるでアニメの主人公のような美男子です


長い前足に支えられるように建っているのは「夢の碑文」

これはトトメス4世が王子の頃、スフィンクスが夢枕に立ち「掘り起こしてくれたら王にしよう」
と告げたという逸話を記したものだそうです(紀元前1400年ころ)

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私達は「河岸神殿」から間近にスフインクスを眺めました。
マウスオンでアップの横顔もご覧下さい

古代エジプトではたくさんのスフインクスが造られましたが、このスフインクスが最大にして
最古のものだそうです。


胴体部分は元々あった岩山を彫ったもので、その後で石灰岩で作った頭部を乗せたと考えられていますが
相当痛みが激しいようで、大々的な修理が必要とか・・・


こちらがスフインクスのお尻
シッポを探してみましたか判りませんでした

ピラミッドもスフインクスも「いつ?何のために?」という疑問が
未だに解明されていません。

「ピラミッドはファラオの墓?」という説が古くからありますが、中からミイラは一つも出てこない上に、
一人のファラオに複数のピラミッドがあったりで決め手に欠きます。

最近急浮上しているのが「ピラミッドは公共事業だった!」という説。
ピラミッドはファラオの威厳を示すモニュメント・・・
年に一回起こるナイル川の氾濫時、仕事が出来なくなった農民達を集めてピラミッドを造らせ、
代わりに衣食住を保障したという説です。

折りしも、私たちがエジプトに旅立つ直前に
「クフ王のピラミッド近くから埋葬された労働者たちの墓が見つかった」というニュースが流れました。
「ピラミッドは奴隷を使って造ったものではない」との裏づけになったと聞きました。

「ランチタイム」

12時をとうに過ぎて流石にお腹が空きました。
旅の案内書には、エジプト旅行一日目のランチは
「ピラミッドの見えるお店でシーフード料理」と書かれていました。

テーブルの真ん中には、ヒヨコマメやピクルス、ゴマだれなどが入ったお皿が並び
ナンに良く似たパンが山盛りに置かれていました。


各自のお皿には、チャーハンに良く似たいためご飯と、お魚の唐揚げが配られました。
味は濃い目です。
お魚はパサパサ
でもナンに良く似たパンはモッチリしていて美味しい
これにゴマのペーストをつけて食べると、食が進みました。

マンゴージュースもドロリと濃くて、ビールもバドワイザーのようなサッパリ感がありグ~
もっとゆっくりしたかったランチタイムでした。

「エジプトトイレ事情」Ⅱ
ゆっくり出来ない原因の一つにトイレ問題があります。
不慣れなトイレに並ぶと時間がかかります

このレストランではトイレの一箇所が詰まって大変でした
「何故水の流れがチョロチョロなの」と誰かが叫びました。
そしてツァーの仲間皆が悟りました。

「トイレの中に大きなゴミ箱がある所では、紙はそちらに捨てるのよ」
紙は水に流してはいけないのです。日本の山小屋方式と同じでした。


       

こちら関東南部も今朝は一面銀世界の風景が広がりました。
例年だと西高東低の気圧配置が続き、晴れ間が多い季節ですが、今年はどうした事でしょう?
ハッキリしないお天気の寒い一週間でした。

父の病状は其の後回復し、病院通いからもようやく解放されました
ブログ仲間の皆様にはたくさんのご心配を戴きありがとうございました

私は父親っ子でしたから、病院の付き添いが苦労とは全然思いませんが・・・
痛々しい父の顔を見るのが辛く、検査に断固拒否する姿に胸が切なくなりました

往復1時間半かけて行った病院で、更に1時間待ち、そして目を開けてくれない父を説得して、
半目を開けた一瞬、たった1秒の眼科の診察でしたが
「充血と目ヤニがないようなので大丈夫でしょう」というお医者様の言葉にホッとしました。

今回の騒ぎで、親より先には死ねないと思いましたね。
弟も親孝行ですが、まだまだ現役のサラリーマン・・・
両親のことに関しては、土日は弟、平日は私が対応していますが、
病院に予約を入れてた日に、主人が車を使ってないのに気づき、唖然呆然

私に代わって面倒を見てくれとは言いませんが
私が親を思う気持、親のために動く行動の足をひっぱって欲しくないと、心の底から思いました。



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エジプト紀行・その2「ギザのピラミッド」

2010年02月11日 | エジプト紀行

バスの窓から、逆光の朝日に浮かび上がった黒く尖った三角形のシルエットが見えてきました。
一番大きな「クフ王のピラミッド」のようです
何だか町のはずれにそびえている「三角山」と言った感じです。

眠れないほど気になっていた私のお腹は、この時点では異常なし・・・
それでも気休めに朝食後「正露丸・糖衣錠」を飲んでおきました。

ガイドのモモちゃんは「エジプトの下痢に正露丸は効きません」
「私が良く効く薬を持っていますから、必要な方は申し出て下さい」と言います。

「これからピラミッド見学ですが、入り口を入ってセキュリティーを通ったら一旦集合の事」
「その後、トイレに行って下さい」との指示があり
トイレに必要な1エジプトポンドのコイン(20円)を一人10枚づつ両替をしてくれました。

ホテルを出発してまだ30分位しか経っていないのに、今トイレに行くように言われても・・・
「エジプトでは行きたい時にトイレに行くのではなく、行ける時に行っておくべきよ」
と誰かが声をあげ、ほとんどの人がトイレに並びました。

ここのトイレは、日本の尾瀬辺りのビジターセンターの横に有るような、大きくて綺麗なトイレでした。

<エジプト・トイレ事情>
エジプトのトイレには清掃も任されている管理者が居ます。
その人に1エジプトポンド(20円)を払うと、トイレットペーパーをちぎって渡してくれます。

チップというより有料トイレと思えば良いのかもしれません。
利用者が支払うお金が彼らの収入と聞きました。

私たちが行く観光地やレストランはどこも西洋式トイレでしたが、
水洗タンクの横に何やら小型シャワーのようなものがついている所がありました。

「アラブ式トイレ」はペーパーを使わずに、左手を使って水で洗うと聞いています。
それで左手は”不浄の手”、握手などでは使わないようにと言われています。
ギッチョの私には、少々面倒なお話しですヮ

そのための機器なのかもしれませんが・・・
私はこのギザのピラミッドのトイレで、水洗タンクの上のボタンを押したら、
わが身に向かって水が噴射され、ビショビショに濡れてしまいました

この日の私は小型のザックを背負い、山用のポロセーターの上に七分丈のウインドブレーカーを着ていたので、
タオルのハンカチで拭くだけでどうにか収まりましたが

「クフ王の大ピラミッド」

長々と話しが横路にそれてしまい申し訳ございません
さぁ~いよいよ本題の「ピラミッド」の登場でございま~す

ギザのピラミッドは今から4500年前の「古代エジプト王国・第四王朝」の時代に造られました。

こちらが一番大きな「クフ王」のピラミッドで、「大ピラミッド」とか「第一ピラミッド」とも呼ばれています。
本来の高さは146mでしたが、現在は頂上部がなくなったため137mです。


頂上の中央に建っている鉄の棒は本来の頂上を示していて、避雷針ではありません。
モモちゃんのお話では「頂上部分は金だったので盗まれてしまった」とのことでした。

かって表面は外装用の化粧岩で覆われていたそうですが、
今では全部盗まれて(モスクの建設や一般住宅用資材に使われたそうです)
ごつごつした岩がむき出しになっています。


ここでは内部見学ができます。
遺跡保存のため1日300人限定だそうですが、流石日本の旅行社さん、ちゃんと切符は手配済みとか

観光客用の入り口は、9世紀に盗掘に入ったアル・マムーンが掘ったものをそのまま使っているそうです。
(切符切りのおじさんが4~5人立っている所です

本来の入り口はもう少し上にあり、現在は封鎖されているので外から眺めるのみ・・・
画像の上の方ですが、分りますか~

内部は写真撮影禁止なので、カメラをモモちゃんに預けてから中に入りました。


こちらは、仲間のぷりんさんが以前イラスト満載のエジプトの紹介本に出ていたとかで
「ピラミッド見学は体力勝負なので、大いに鍛えましょう」」とメールで送ってくれた画像です。

旅行前に大笑いしながら読んだ「エジプトがすきだから」という
JTBから出版された本に記載されていたような・・・?
まさにこのように、薄暗い中を中腰で進むのです

蒸し暑くてかび臭い中、ハシゴの上り下りもあったりで汗が滲みます。
太った西欧人とのすれ違いは至難のワザとなりそうでした

大回廊の先は更に天井の低い登り通路となり、
前の人のお尻だけを見て手すりにしがみつきながら進むとやがて「王の玄室」に出ますが
大きな石棺があるだけの暗くて殺風景な空間でした。

「カフラー王のピラミッド」

私たちは更に真ん中に位置する「カフラー王」のピラミッドの中にも入りました。
これらすべてが有料ですが、私たちの場合は旅行代に含まれていました

高さは143m、クフ王のピラミッドよりも小ぶりですが、表面をおおっていた化粧岩も上部と下部の一部に残っており
「エジプトでもっとも美しいピラミッド」と言われているそうです。

「太陽の船博物館」

「クフ王のピラミッド」のすぐ脇に、
このピラミッドから発見された世界最古の大型木造船を展示した「博物館」があります。
ここでもセキュリティー検査を受けてから、靴カバーをはいて見学しました。


発見当時はバラバラに解体された状態で、ピットという溝に埋められていたそうです。

「太陽の船」とは、亡くなったファラオの魂が天空を往来する時に使うもの

博物館の船は1954年に発見されたそうで、
その後1987年に日本の調査隊(吉村先生!)が第二の「太陽の船」を発見しています。

<>

マウスオンでご覧下さい

この博物館では14年間かけて復元したという「第一の太陽の船」を展示し
二階の通路からグルリと見学できるようになっています。


ピラミッドの一つ一つの石は、人間の背丈よりも大きなものです。
自然界の雄大な山々を見慣れた私には、ピラミッドの大きさはさほど驚きませんでしたが
これらを人間の手で積み上げた事に圧倒されました
それも今から4500年以上も前に、何を使ってどのように


「太陽の船博物館」横から眺めた「カフラー王のピラミッド」と、その周囲の風景です。
ラクダの奥に見えるのが第三のピラミット、一番小さな「メンカウラー王のピラミッド」でしょうか・・・
その南側には王妃たちのピラミッドが有るようです。


そのままカメラを左に移動すると「西方(リビア)砂漠」が広がっています。
やはりピラミッドの背景には砂漠が一番似合いますね


更にカメラを左に移動してみると、カイロ首都圏の街が迫ってきています。
この日、ギザの高台から望んだカイロ方面は、砂埃でボンヤリと霞んでいました。

朝の内は風が冷たくて日本の「晩秋の寒さ」でしたが、
10時を過ぎると太陽の光がいっそう強くなり、初夏の暑さになりました
エジプトでは、1日の中に四季があるようです


各国の観光客を乗せた大型観光バスが、ゾクゾクと集まってきました。
今頃着たのでは、ピラミッドの内部見学はできるのかしら?

私たちは正面に見えている「カフラー王」のピラミッドをもう一度振り返りながら
この地を後にしました


     

12日追記
父のヘルペス騒ぎがあって忘れていましたが
帰国してから1日休んだだけで仕事に出た私、流石にぼお~っとしていたのか?
車を仕事先の駐車場のポールにぶつけて、凹ませてしまいました

嗚呼、修理の見積もりが今日出ましたが、16万円強
保険を使うことになりますが、我家の車の保険料はいつまで経っても全然安くなりませんわ

3日連続の点滴が功を奏して、父の顔の腫れはほとんどなくなりました。
病院の付き添いが、取りあえず一段落したとたん、私は目が廻りだしました。
腰と肩はバリバリ、頭はクラクラ、耳鳴りまでしています。
体がドーンと重くて家事をする気になれませ~ん

私の帰国と入れ替えのように、3泊4日の仕事を兼ねたゴルフ旅行に出かけた夫が帰ってきて
まるで明治時代の姑のように口うるさくゴチャゴチャと言い出して
時差ボケの最中に、仕事と父のことでバタバタしていた私は完全にプツンと切れました

父の病気は一見良くなっているように見えても、脳や目の神経に水疱瘡の菌が作用しているので、
未だに要注意なのだとか・・・

来週は叉仕事が始まり、そして父の検査のための病院行きにも付き合わなければなりません。
エジプトから帰った私の現実はストレスだらけの日々・・・
あの10日間は「夢だったのか?」と思う昨今です。

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エジプト紀行・その1「カイロに向けて出発」

2010年02月08日 | エジプト紀行

今回の旅行は、JTB通販の「旅物語」”感動のエジプト紀行10日間”を利用しました。
(詳しい日程は上のURLをクリックしてご覧下さい

3ヶ月前に、各社のエジプトツァーのパンフレットを大量に集め、
実際にエジプト旅行の経験がある仲間のお嬢さんに見てもらって候補を絞りました。

JTBの海外旅行ブランド「LOOK」と同じ様な所を回り、ホテルも似たり寄ったり・・・
それでいて30万円を切るお値段に魅かれて申し込みました。

「LOOK」と比べれば、食事の内容が劣っていたようですが、
私たちは特にエジプトにグルメは期待していませんでしたのでヨシとします。

<1月23日・成田国際空港第二ターミナル集合>
エジプト航空のカイロ直行便は14時25分出発
その2時間前の12時25分が集合時間です。

私たちは「成田エキスプレス」で早めに出かけ、空港で昼食を済ませて、
正午過ぎに「旅物語」のカウンターに行きました。

すでにエジプト航空の搭乗手続きは始まっていて、希望の窓側の席は取れず、
真ん中の4列に並ぶ事になりました。

各自で搭乗手続きを済ませてから、ツァーの一同が集まり、
30代前半の女性添乗員H島さんから説明を受けました。
参加人数は30名、中にTVで見覚えのある芸能人ご夫妻の姿がありました。


各自でセキュリティ検査を受け、出国手続きを済ませて、途中DFS等でお買い物をしながら
エジプト航空機の搭乗口にたどり着いた時は、集合時間ギリギリの2時・・・
すでに機内への搭乗が始まっていました。

主人との旅なら「何グズグズしているんだと怒鳴られたに違いありません

飲酒を禁じているイスラームの国ですからエジプト航空機内ではアルコールは出ません。
ただし持ち込みはOKなので、搭乗口近くのお店でビールと水も買いました。

中に入り、飛行機に乗り込む手前でもう一度セキュリティー検査があり、ボディーチェックまで受けました。
テロの頻発する国への旅行を実感し、少々緊張を覚えます。
座席にたどり着いた時は汗だくでしたが、「ホルス」のマークを見てホッと一息付きました。

私たちが乗ったエジプト航空MS965便は、30分ほどの待機を経てから、午後3時に飛び立ちました。
カイロまでの飛行時間は15時間です


「ホルス」とはエジプトの神話に登場する天空と太陽の神。
通常はハヤブサの頭をした男性として表現されています。

シートベルトのバックルや背もたれシート、お食事用のナイフやフォークにも「ホルス」の姿がありました。
モチロンエジプト航空のマークにもなっています
このホルスのお話しは、エジプトの「イシス神殿」でシッカリと説明を受けました


去年の今頃「バリ島」に行きましたが、その際は「ガルーダインドネシア航空」を使いました。
あの「ガルーダ」も、ヒンズー教の神鳥です。

「日航も以前の鶴のマークの方が断然好いのに、何故変えたのかしら?」という声が飛びました。
「あのような赤丸にしたから赤字になったのよ」という意見も加わりました。

<>

夕方の4時半頃に最初のお食事が出ました。
マウスオンでご覧下さい

K子さんがチキン、私はビーフを頼みましたが・・・
この先、飽きるほど硬いお肉料理を食べる事になるのですから、この時はお魚料理が食べたかったですね。


乗り馴れたカンタスパース便と同じ、窓側2列、真ん中4列で、座席にモニターがない古い型の飛行機です。
正面の壁に掛かった画面を写しました

空路は鳥取沖から日本海に出て、朝鮮半島を横断し、チベットの北のゴビ砂漠の上空を飛んでいるようでした。


お喋りにも飽きてウトウトしていた頃、こんなものが配られました
シャケのオニギリが美味しかったこと、ドラ焼きはバッグにしまい込みました。


真夜中の1時過ぎに再びお食事タイムです。天丼もありましたがとても胃が受け付けません。
海鮮オジヤにして正解でした。美味しかった~

エジプトとの時差は7時間ですから、これはきっと夕食なのでしょう。

日本時間の翌朝の6時近く、現地時間の午後11時頃に「カイロ国際空港」に無事到着
流石に15時間の狭いエコノミー席での飛行は疲れ果てました。

空港内の両替コーナーで、K子さんと2500円づつ出し合って、取り扱い最低単位の5000円分を
エジプトポンドに替えました。
今回は細かい米ドルをたくさん持ってきましたから、現地ポンドはトイレ用のチップのみとしました。

カイロの宿はギザのピラミッド近くの「アマランテ・ピラミッズ」
空港からバスで40分くらいの所にあるらしい・・・

バスの中でイケメンの現地ガイドさんの挨拶がありました
「私はモハンメドと言います。モモちゃんと呼んで下さい。カイロ大學の文学部を出て日本に留学しました」

真夜中のカイロの街は賑わっていました。
お酒も飲まないのにこの陽気さは何だろう?

12時過ぎにようやくギザのホテルに到着
「このジュースは安全です」と言われたウエルカムドリンクを飲みながら
添乗員さんからお部屋の鍵を渡され、説明を受けました。

「明日朝のモーニングコールは5時45分、レストランは6時から開いています。」
「各自で朝食を済ませてから7時15分にロビー集合して下さい」とのこと・・・
ひぇ~、一体何時間寝られるのかしら~

「私は5時45分のモーニングコールでは間に合わないから、5時半にしてちょうだい
粋でスマートなオバサマが声をあげました。
「ツァーでそれは無理というもの・・・」誰かが呟きました。

「JTBのお知らせには目覚まし時計が必要とは書いてなかったわよ
と、オバサマが更に声を荒げました

1月24日「ギザのピラミッド見学」へ
生野菜とカットフルーツはパスですチーズはまぁ~まぁ~かな?
パンは充実していて美味しい旅は体力勝負!、シッカリ食べました


こうして改めて画像を見てみると、エジプト第一日目の朝食をキチンと食べていましたね。
私、このホテルの事はさっぱり覚えていないのです

前夜、翌日の衣類や持ち物の準備をしてからお風呂に入り、ベッドに横たわったのが2時過ぎ
「水道水は飲まないで下さい。歯磨きもペットボトルのお水でするように」と添乗員さんから言われていたのに、
ウッカリ水道水で口をすすいでしまった
もう気になって眠るどころではありませ~ん
興奮と寒さも加わって一晩中悶々としていました

隣のベッドのK子さんを見るとダウンコートを着て寝ているではありませんか
私も慌て羽織りましたよ。


ナイル河畔の交通の要衝として中世に建設されたカイロの街は、
長い時代を通じてイスラム世界における学術、文化、経済の中心でした。

現在のカイロ首都圏(ナイル河西岸のギザ市含む)の人口は1525万人・・・
アフリカ大陸、中東地域の中での最大の都市です。


マンションが林立し、朝から車の大渋滞・・・
クラクションがけたたましく鳴り響き、喧騒の朝でした。


馴染みのなかったアラビア文字の看板が異国の文化を感じます。
信号や横断歩道などはほとんどありません。あったとしても信号は守られないとか・・・
車の間を人々はすり抜けて行きます。
日本人にはまず無理だろうなァ~


ピラミッドは遠い砂漠の中にあるわけではありません。
騒音の街の建物の向うに「ピラミッド」が見えてきました


      

昨日の日曜日、友人のマルさんからTELがありました。
「エジプト旅行記を楽しみにしているのに、全然UPされないからダウンしたのかと思って」と・・・

一緒に行った友人は帰国してから下痢が続き、腸炎と診断されて抗生物質を飲んだようですが、
私は一応は元気で居ます。

ただ父が目の周りのヘルペスに罹り、顔半分が腫れあがりました。
無意識に傷口を掻きむしるので、二次感染を起こしひどい事になりました

私のエジプト旅行の間は両親共々元気にしていたようで、ホット胸をなでおろした矢先の出来事です

失明の危機が有るとかで、私は父に同行し、皮膚科、眼科と掛け持ちして、
待ち時間2時間が当たり前の総合病院での、毎日(日曜日も!)の点滴に付き添っています。

仕事も一番忙しい第一週目で、時差ボケもあり、流石に睡魔には勝てずPCに向かう元気はありませんでした。
コメントのお返事も遅くなり、皆様の所へのご訪問もままならず申し訳ございません

仕事の週がやっと終わって少し余裕が出ましたので、エジプト旅行記第一弾をUPしました。
長い記事で読んでいただく方にはご迷惑をおかけしますが、私の保存版の旅行記ですので
お付き合い宜しくお願い致します。

お忙しい方は遠慮なくスルーしてくださいね。

     

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