9月とは思えない暑さの中、ブログ仲間の「山小屋」さんに誘われて鎌倉を歩いてきました。
新田義貞の足跡をたどりながら、高崎からスタートした「鎌倉古道歩き」も、
6月に鶴岡八幡宮到着で終了したようですが
「稲村ヶ崎は外せない」という声が出て、今回はオマケ編だそうです。
稲村ヶ崎から眺めた「江ノ島」方面
この日の午後にはカミナリを伴う大雨の予報が出されていて、流石に富士山は見えませんでしたが
雨どころか、午後も真夏の太陽が照り付けていました
我が家近くの「鎌倉古道」に興味があり、4月5日町田から瀬谷までのコースに、
友人と参加させて戴きましたが、私はその後骨折し、以後の2回は残念ながら不参加
せめてフィナーレだけでも見届けたいと、行ってきました。
「鶴岡八幡宮」
鎌倉駅で集合し、まずは「鶴岡八幡宮」に向います。
山小屋さんはじめ、4月にご一緒した顔なじみの方も何人かいました。
本堂に向う階段の手前にある「舞澱」の前で、参加者20数名が並び記念写真を撮りました。
鶴岡八幡宮は、源頼義が奥州の戦乱「前9年の役」で勝利した礼として
京都の岩清水八幡宮を現在の材木座元八幡(由比若宮)に勧請したのが始まりです。
その後、本拠地を鎌倉に定めた源頼朝が現在地に移し、鶴岡八幡としました。
鎌倉幕府滅亡後も「武門の神」として足利氏、豊臣氏、徳川氏に崇敬されたこの神社、
我が家からも近いので、息子、2人の孫の七五三はいつもここでした。
「源頼朝公の墓」(法華堂跡)
建久9年(1199)12月、源頼朝は相模川にかけた橋の完成祝いに出掛け、その帰りに落馬
それが原因で、翌年数えの53歳で亡くなりました。
大倉法華堂(現在の鶴岡八幡宮横の白旗神社)に葬むられ
現在の墓は白旗神社のすぐ横の階段を登った所にあります。
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墓の層塔(そうとう)は1779年(安永8)に、子孫である島津重豪(しまずしげひで)により
大御堂から移されたものといわれ、国の史跡に指定されています。
20人もの団体で行った私たちに、ボランティアのガイドさんが説明をしてくれました。
カンカン照りの中、歩いて南下し「宝戒寺」の先を左に折れて「東勝寺跡」を目指します。
住宅街でありながら「祇園山ハイキングコース」に通じる道は緑が深く、
ヒンヤリとした風が流れるとホッとします。
「北条高時・腹切りやぐら」
東勝寺は13世紀前半に鎌倉幕府の三代執権・北条泰時が創建した寺院です。
新田義貞らの鎌倉攻めの時、新田軍が若宮大路まで迫ってきた事を知った北条高時は、
一族郎党870名余りとここに立て篭もり、火をかけて最後を遂げました。
鎌倉幕府終焉の地は金網に囲まれて、今は何もありません。
この裏山に自害した一族の墓「腹切りやぐら」があります。
瀟洒な家が並ぶ住宅地のすぐ裏の、ハイキングコースの入り口に、
鎌倉幕府終焉の地があること自体、いかにも鎌倉らしい風景ですね。
「本覚寺」
車の往来の激しい道を更に南下し、日蓮に縁のある「本覚寺」で一休みです。
正午近くなって、太陽の光は更に強まった感じ・・・
熱中症が怖いので水分を補給しました。
鐘楼には応永17年(1410年)銘の梵鐘がありました。
境内の大きなアメリカ芙蓉と、サルスベリが晩夏の風情を漂わせています。
積乱雲がモクモクと大きくなっていますが、午後から雨は降るのでしょうか
日傘をやめて雨傘を持ってきた私
これ以上の日焼けが怖いので、カンカン照りの中雨傘をさして歩きましたよ
「長谷寺」
鎌倉の古いお店が並ぶ道をひたすら歩いて、紫陽花で有名な「長谷寺」にようやく着きました。
ここで昼食タイムです。
拝観料300円を払って中に入りました。6月末に来た時は500円でしたね。
今は端境期でお花は殆んど咲いていません。
上境内の湘南の海が望める展望台横の、日影のベンチで持参したオニギリを食べました。
涼しさを呼ぶ頭上のミストも、この太陽光線であっと言う間に気体になっている
食後は一本のクスノキから彫られたという本尊の「木造十一面観音像」にお参りをしました。
高さ9,18mの日本最大級の木造の観音様です。
その後は涼しい日影を求めて散策し、1時半に山門前に集合
再び歩き始めました。
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日本の駅100選に選ばれている、江ノ電の可愛い駅舎「極楽寺駅」を右手に見ながら
線路に沿って進み、踏切を渡ると「石碑」が建っていました。
元弘3年(1333)5月8日、かねてから幕府に不満を持っていた上野国(群馬県太田)の御家人・新田義貞は
後醍醐天皇の幕府追討の令旨により、上野国の氏神明神社前で挙兵し
鎌倉幕府のある鎌倉目指して関東平野を南下しました。
鎌倉は三方を山で囲まれた天然の要害で、攻め込むことのできるのは、鎌倉七口と呼ばれる切通のみ・・・
新田義貞は、極楽寺切通からの攻撃を大舘宗氏という武将に命じました。
幕府は、極楽寺切通に大仏貞直を配置し防備に当たり、激戦の末、宗氏は極楽寺切通を突破しましたが、
北条軍に反撃され、宗氏以下11人が討死。
この11人が葬られたとされるのがこの塚で、十一面観音が安置され霊を弔ったといわれています。
ここから更に歩いて7~8分で「稲村ヶ崎」です。
新田義貞が「稲村ヶ崎」から鎌倉に攻め入ったのは、元弘3年5月22日(西暦1333年)
♪七里ヶ浜の磯伝い 稲村ヶ崎 名将の剣投ぜし 古戦場♪
と唱歌でも歌われていますね。
新田義貞が鎌倉攻めの際海中に宝剣を投げ入れ、潮が引いたところを一気に攻め入った…
という伝説が残っています。
フィナーレはそれにあやかって、この日のリーダーが自作の剣を海に投げ入れます。
(海に落ちないでね~)
新聞紙で折った兜をかぶり、真剣に挑む気持ちが素敵ですね。
こうして遊びを楽しむ姿勢が若さの秘訣なのでしょう・・・
最後に明治天皇が新田義貞を詠った碑の前で全員揃って記念写真を撮り解散となりました。
この日はフラダンスのイベントも開催されていて
現代の稲村ヶ崎は「古戦場」に思いを馳せるにはあまりにも明る過ぎました。
ここは夕景の富士山の撮影場所としても有名で、3~4日前にはダイヤモンド富士が見えたのでしょうか?
「今日の歩きは僅か10kmで少ないよ。15000歩程度だね」と、
お仲間がおっしゃっていました。
でも炎天下の鎌倉歩きは決して一人ではできません。
私も丁度良い足馴らしができました。
山小屋さん、お誘いいただき有難うございます。
汗びっしょりになった後の、皆さまとご一緒に飲んだが何とも美味しかったです。