朝晩は冷えるけど、日中は20度前後の暖かい日が多かった感じです。
今朝、TV番組の天気予報で「今日(11/24)から冬です」と言っていましたが・・・
まだ薄暗い朝6時20分に家を出て、地域の公園でのラジオ体操に参加・・・
その後40~50分の散歩をしていますが、この11月に入って庭以外で見るお花は圧倒的に「山茶花」が多い
(撮影・11月21日)
最近はあちこちに背の高い「皇帝ダリア」も目につきますね。
このお花のバックは青空が似合いますが・・・
我が家近辺の里山も色付いてきました。一番先に真っ赤に染まるのは「ハゼの木」ですね。
横浜郊外の丘陵地帯に大規模に開発された住宅地の外側に出ると、このような里山が存在しています。
以前は地主さんの昔ながらの大きな家がありましたが、代が変わるとミニ開発されて
今では借りている畑から見える風景も変わりました。
作成中の我が家の花壇には秋の七草の「ナデシコ」が咲いています。
10月11月はガーデニングや菜園作業の繁忙期で、私も大忙しでした。
でも丹精こめて育てれば植物は応えてくれますね。
コロナ感染者も減って、普通の生活に戻りつつある中でワンゲルも再開されましたが、、、
まずは足慣らしで行った「馬堀海岸から観音崎公園」までのハイキングの続きを記したいと思います。
県立「観音崎公園」(10月29日)
東京湾に大きく突き出した観音崎周辺は、房総半島との距離が約7キロの狭い海域で
この浦賀水道を行きかう世界中の船やタンカーとその向こうの房総半島が一望できます。
私たちは「横須賀美術館」裏の芝生広場で昼食後、バスで一駅の終点「観音崎」に直行する6人と別れて
8人で観音崎公園の3軒家園地を登って行きました。
隣接する三軒家砲台跡はもっとも保存状態の良い砲台です。
首都を守るため、明治時代に東京湾口部に日本で最初に建設された西洋式の砲台群は
日本最重要防御拠点として、旧陸軍が明治10年代~20年代にかけて9つの砲台を建設。
日清・日露戦争の時は戦争配備に着いたが、実戦で発砲することはなかったそうです。
その後兵器の進歩や国防方針の変更などにより、多くは大正時代に廃止となりました。
こちらは弾薬庫でしょうか?
太平洋戦争後、ここは県立公園として整備されたため、手つかずの自然の中に明治期砲台の遺構が
この様に残されているようです。
花の広場に出て(この時期お花は何もなく、造園業者が入って春用花壇の造成中)
左に曲がり「戦没船員の碑」を目指しました。
昭和46年に建立された戦没船員の碑に出ました | 高さ24mのモニュメント船員と人魚の「群像」 |
第二次世界大戦や海難事故で犠牲になった6万余数人の民間船員の霊を慰め
かつ永遠の平和への願いをこめてもうけられました。
ここは眼下に多数の船舶が航行する浦賀水道、対岸の房総半島の山々が見渡せる眺望の丘でもありました。
ぎざぎざの山稜は「鋸山」(ノコギリ山)でしょうか?
レンガ遺築物などがあちこちに残っていて一見の価値がありますね | 100年以上たったとは思えない美しさです |
深い緑の自然の中に残る歴史的遺構が見事な「観音崎公園」でした。
道路わきに小さなブルーの宝石のような「実」が生っていました、何の実でしょうか?
少し摘んできましたので菜園に蒔いてみるつもりです。
坂を下って灯台方面に進みましたが、「今回灯台はパスです」とリーダーが言いました
「直行組にバス停横の食事処で1時間前後待つようにと話してあるので、時間がありません」との事
私は20年以上も前に行った覚えはありますが、「観音崎」と言えば神奈川県民は「観音崎灯台」が浮かびます。
明治元年(1866年)にフランス人技師ヴェルーニの指揮で起工・建設
翌年点灯された日本初の洋式灯台です。二度の震災で倒壊して現在は三代目です。
私たちは灯台守が主人公の映画「喜びも悲しみも幾年月」の歌を口ずさみながらバス停に向かいました
佐田啓二と高峰秀子が演じる夫婦が最初に勤務したのがこの「観音崎灯台」でしたね
直行組と合流して、3時過ぎのバスで馬堀海岸駅に出て帰途につきました。
この日の歩きは16728歩、足慣らしとしては丁度良い歩きでした。
「観音崎公園」はまだまだ見所がいっぱいあります。詳しい情報はこちらをご覧ください。
黒芝小太郎との日々
今回の記事はもっと早くUPする予定でしたが、またまたハプニングがあり遅くなりました。
(いつも言い訳ばかりの私です)
2週間前から週に3~4日、孫娘が飼っている黒芝小太郎の面倒を見ていて、てんやわんやの日々・・・
毎朝、孫娘が我が家近くの中学校への登校時(朝の8時半)に連れてきて、下校の16時過ぎに連れて帰ります。
事の発端は20日前から始まった小太郎の「心因性の下痢」
長い夏休みから緊急事態宣言が続き、孫たちもリモート授業が続いて家にいる日々・・・
公的な文化施設で仕事をしているお嫁ちゃんも閉鎖が続いて、家にいる日が多かった。
小太郎にとっては嬉しい毎日でした。
それが宣言が解除になって普通の日々が始まって、小太郎はお留守番ばかり
遂に「心因性の下痢」になって痩せてしまった
家ではトイレができない小太郎、お嫁ちゃんがノイローゼ気味となり私の出番となった次第です
最初は見張っていないと心配で、趣味の会のコーラスも体操も休みました。
雨の日も風の日もひたすら散歩をさせて、我が家に来出して3日目で下痢は治りましたが
これからも小太郎の心の安定を考えて、月・水・金と預かる事になりました。
(今まで年に2回位、息子一家の旅行時に預かっていましたが、定期的となると負担が全然違います)
慣れるまで心身ともに疲れますが、孤独を味わった者同士、寄り添って行きましょう
何年ぶりかで「孫は来て良し、帰って尚良し」の心情を、犬の小太郎で味わっていますよ