ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

自治会長 あれこれ

2024-09-28 10:37:31 | 北の湘南・伊達
 1期2年間の副会長を経て、
昨年度から自治会長をしている。
 定番の役割の他に、会長ならではの様々なことがある。
最近の中から、2つ記す。

 ▼ 宅地開発が進む前から、この地域に居を構えていた方々がいる。
記録には、70年前に37世帯が暮らしていたとある。
 その1戸だと思われる家が空き家になって、
もう5年以上が過ぎた。

 その家は、生け垣に囲まれた2階建てで、
外から見ただけでも、6つか7つの部屋はあるようだ。

 その空き家に、人が住んでいると言う。
それも、複数の外国人らしい男女だと・・。
 そんな情報が聞こえてきた。

 思いあたる節があった。
夏になる前から朝夕に自転車に乗った男女が、
我が家の前を通るのを何度が見た。
 その中には、イスラム教のスカーフをかぶった女性もいた。
きっとそのメンバーに違いないと思った。
 
 海外からの技能実習生なのだろうか。
いずれにしても、この地域内の家で暮らしているのだ。
 会長として、ある程度のことは知っておく必要があった。
まずは、訪問することにした。
 
 毎日、自転車で移動していることは間違いないので、
夕方、玄関横に5台の自転車があることを確かめてから、
インターホンを押した。

 しばらく時間がかかったが、玄関が開いた。
20代と思われる若者が現れた。
 アジア系の顔をしていた。
外国の人と直感した。

 「こんにちは、日本語、分かりますか」
ニコニコ顔で、ゆっくりと言ってみた。
 「ハイ、少しだけです」。
親指と中指を動かし「少し」を表して、私に見せた。

 まずは自己紹介である。
身振り手振りを交えながら
「私は、この当たりの人たちのリーダーをしています。
ツカハラと言います」

 「ハイ!」
理解できたのかどうか、明るく返事がきた。
 「ここで暮らして、どこかでお仕事をしてるんですね?」
「そうです。そうです」
 私は、続けた。
「どこで仕事をしてるの?」
 「センカジョウです。センカジョウ!」
「そうですか。そのセンカジョウはどこにあるの?」

 彼には、その説明が難しかったようだった。
部屋の奥に、自国語で声をかけた。

 同世代の男女が現れた。
女性はスカーフをかぶっていた。
 3人で、私が尋ねた場所を伝えようと
自国語で話し合いながら困っていた。

 私は、スマホを取り出しグーグルマップを示め、訊いた。
「センカジョウは、どこ?」
 すると、彼らは一斉に自分のスマホを出し、
その場所を知らせようと懸命になった。

 何度も何度も堂々巡りをしたが、
そこは私も知っている所だった。
 「ああ、ここで仕事してるんですね。
ここまで、自転車で行ってるのね」
 3人は口々に「はい、そうです!そうです」。
嬉しそうだった。
 1つの事が分かるだけで、彼らとの距離が縮まっていった。

 次を尋ねた。
「どこの国から来たんですか?」
 若者は 即答した。
「インドネシアです!」

 「そうですか。インドネシアですか!」。
たまたま、インドネシア語の挨拶だけは知っていた。
 なので、「じゃ、テレマカシ!」
3人の表情が、パッと明るくなった。
 そして、嬉しそうに「テレマカシ!」と返してくれた。
 
 「テレマカシ」後は、さらに打ち解けて話が進んだ。
簡単な日本語とスマホでのやりとりだったが、
彼らの世話役をしている方の連絡先も分かった。
 そして、11月までここで暮らし、仕事をすことも。

 最後に、「困ったことがあった時は、いつでも電話していいよ」。
私の電話番号も教えた。
 「ありがとうございます」
素直で明るい青年たちに、心が軽くなった。

 ▼ 役員の方から電話があった。
長年空き家になっているNさん宅前の歩道に、
幅15センチ程の穴が空いている。  
 急いで工事するように市役所へ要望してほしい。
そんな内容だった。

 まずは現地を見てからと、車でそこへ行ってみた。
丁度、花壇の手入れをしているお隣の奥さんがいた。
 自治会長だと声をかけると、
すぐに穴のところまで来てくれた。

 「近くに保育所があるんです。
そこの小さな子どもらが、よく散歩でこの道を通るんです。
 もしも、この穴に足でも取られたらって、
いつも心配してるんです」。
 私より10歳は年上と思える白髪の奥さんは、
静かにそう言った。
 
 いつの間にか、 同じように白髪のご主人も現れた。
「何かで蓋をしておこうと思っても、
私じゃ、ここを塞ぐような石は重くて、
とても無理で困ってたんです」
 
 歩道の穴に、心痛めていた老夫婦の気持ちが伝わってきた。
「わかりました。まずは、自治会にあるカラーコーンを
この穴の上に置くことにしますね。
 それから、ここの写真を撮って、
それをもって市役所にお願いに行ってきます」。

 2人は、「そうですか。すみません」と、
何度も何度も真白な頭をさげた。
 「じゃ、後ほど、また来ます」。
その場を離れながら、2人の誠実さが心に浸みていた。

 その穴は、5日後に塞がれていた。

   
 

       秋・コスモス 
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D I A R Y 24年8月

2024-09-14 12:15:40 | つぶやき
  8月 某日 ①

 暑い日が続いていても、無性にラーメンが食べたくなる。
丁度、コーヒー豆も切れる頃だったので、
「室蘭のスタバまで行くついでに」
と、元祖室蘭ラーメンと称する『清洋軒』へ行くことにした。
 「そこの塩ラーメンが大好き!」。

 家内を誘い、猛暑の昼下がり、
室蘭の市街地からはやや離れた、
町外れの一角にあるその店に行った。

 当地も室蘭も、ラーメン店は家族経営が多い。
ここも老夫婦と息子で切り盛りしているが、
最近はご主人の姿がなく、老いた母と息子だけ。

 駐車場は2台がやっとのスペースで、
私はいつも路駐である。

 店の近くまで行くと、
珍しく、道の両側に路駐が5台もあった。
 店内は,カウンター7席とテーブル席1つで、
11人で満席になる。
 案の定、店に入れない客が6人も、
暖簾の外に並んでいた。

 驚いて、路駐の車を見ると、
3台がレンタカーだと分かった。
 きっと旅行ガイドなどで紹介されたのだと思った。

 待ち時間30分を覚悟し、列に並ぶことにした。
話し声と雰囲気で、前に立っている方々が、
アジア系の外国人だと分かった。
 そして、店内で食べている人も同じ仲間だと推測できた。
町外れのこの店で、外国人と一緒になるのは初めてだった。
 インバウンドがここまで広がっていることにも驚いた。

 さて、予想通り30分後、
テーブル席に座った私たちにやっとラーメンが届いた。
 カウンター席では、アジア系の方が7人、
自国語で会話しながら、のんびりとラーメンを食べていた。

 待ちに待った塩ラーメンを食べながら、
彼らの様子が気になった。
 すぐそばの女性は、箸が進まないようだった。
少し食べては、コショウをふったり、
ニンニクを加えたりしていた。  

 その隣りも、少し食べては箸を止め、
また少しといった具合だった。
 きっと口に合わないのだと思った。

 どこの国かは分からないが、
濃い味に慣れているのなら、
このラーメンの薄味は物足りないのかも知れない。

 そう思いながら、私は「相変わらず美味しい!」と、
音を立てながらラーメンをすすった。
 ふっと、気づくと向かい席の家内も、
美味しそうに音を立てながらラーメンを食べていた。

 でも、カウンター席の7人からは、
すする音が聞こえてこなかった。
 ゆっくりゆっくりしか食べていないことに納得した。

 それにしても、市街地から離れたラーメン店まで、
レンタカーで乗り付け、食べたラーメンの味は、
どうだったのだろう。
 あの様子から推測すると、 
「ううーん! 残念!」と言うところだろうか・・・。 


  8月 某日 ②

 芦別で、家内の両親が眠るお墓参りを済ませた翌日、
W市で大学時代の友人とパークゴルフをした。

 昨年、彼とは私の街で一緒にパークゴルフを楽しんだ。
そのお返しで、今回は彼の住まいがある地でとなったのだ。

 昨年は、地の利で私たち2人が勝ったが、
今回は彼のリベンジであった。

 さて、ラウンド後は市内のホテルでランチを予定していた。
ところが、行ってみるとレストランはお盆休み。

 そこで、車をホテルの駐車場に置いたまま、
市街を散策し、適当な食事処を探すことにした。

 ここは大学4年間を過ごした街である。
家内は同窓会で何度か来ていたが、
私がここを歩くのは大学卒業以来であった。

 歩いてみると、街は長い時間が流れて、
大きく変化していた。
 友人に、デパートのあった場所を尋ねた。
よくお酒を飲んで盛り上がった炉端焼きの居酒屋の場所も訊いた。
 冬のバイト先だった郵便局も・・・。
もやしと味噌の味が大好きだったラーメン屋も・・・。
 次々と知りたかった。

 そして、歩きながらふっと思い出したのが、
新入生歓迎コンパや卒業コンパで使った店だった。

 大学卒業後も彼は、マイホームをこの地に構えていた。
時には異動で離れた時期もあったが、多くをここで過ごしている。
 私の問いに、懐かしさを込めながら応じてくれた。

 そして、
「そうだ! コンパで使ったあの店だけど、
 今は,別の場所でレストランをやっているんだ。
あの頃と同じCという名前でね。
 そこで、ランチにしようよ!」。

 もう半世紀以上も忘れていた『C』の名前だった。
「今度のコンパも、Cで5時からです」
 そんな連絡が、50年ぶりに脳裏に蘇った。

 早速、そのレストランへ向かった。
私が知っているコンパ会場『C』は、
通りから直接2階へ行くことができた。
 そして、現在の『C』は3階建ての小洒落たビルの2階にあった。

 まったく様変わりしていたが、
ここも通りから直接階段で2階へ行けた。
 そんな共通項に気づいただけで嬉しくなった。

 お盆休みも手伝ってと閑散とした街中だったが、
それに反して店内は混み合っていた。
 私たちの3人席だけが空いていた。
豊富なメニューから3人ともカレーライスをオーダーした。

 やや時間をおいて届いたその盛りの多さに、
3人で目を丸くした。
 毎日、空腹感で過ごした学生時代、
『C』で出された盛りのいいコンパ料理を思い出した。

 あの頃と同じで、味も良かった。
だけど、明らかに私の方が違っていた。
 食後のコーヒーを持ってきた店員さんに、正直に言った。
「若い頃に食べた『C』と同じで、すごく美味しかったです。
でも、もうあの頃のようには食べられなくなりました。
 残してごめんね」。
店員さんは笑顔で、私と同じように食べ残した
家内のものも一緒にさげてくれた。 
 懐かしい時間が流れていた。




         秋   空
              ※次回のブログ更新予定は9月28日(土)です  
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こ の 街 の  あ れ こ れ

2024-09-07 11:47:47 | 北の湘南・伊達
 ▼ つい先日、室蘭民報に掲載された
『楽書きの会』同人M氏の随筆が、心にとまった。

 要約する。
M氏が、カルチャーセンター前の公園を歩いていた時だ。
 札幌から来たという70歳代後半とみられる紳士が、
「文化的な感じがして、いい公園ですね」と。

 そして、翌朝、
栃木から来たという60歳前後の男性が通りがかりに、
「伊達は町並みといい公園といい、いい所ですね」と言った。

 そこでM氏は、こう綴る。
『改めて自分の街のことを考えてみたが、
他所から見た彼の目を引きつけたのは何処なのか、
伊達の街の魅力とは何か、明確な答えが浮かばない』。

 そして、こうも・・・。
『昨日今日、続けてこんなに褒められて考えた。
 「いい街」というのは、空気のようなもので、
当たり前だから意識しない。
 住みにくさを言えと言われたら、
5つや6つ誰でも言えるだろうにである。
 我が街の魅力を知らないことに・・・
「うしろめたさ」を感じてしまった・・・』と。

 私も12年をこの街で過ごした。
町並みのよさや公園のよさなどに慣れてきたようだ。
 「危ない! 危ない!」。
 
 ▼ 台風10号が、ゆっくりと九州と四国を横切り、
その後、愛知県付近で熱帯低気圧に変わった。

 台風の近くだけでなく、
その後も全国各地で大雨による被害が数日続いた。

 北海道でも、冠水被害があった。
JRは栗山付近で線路の地盤が崩れ、復旧に数日を要した。
 近隣では、登別や苫小牧で主要道路の冠水があったらしい。

 そして、西日本も東日本も再び猛暑に見舞われている。

 そんなニュースが流れていた午後だ。
好天に誘われ、久しぶりに家内とパークゴルフへ行った。
 当地にしては日差しが強かったが、
すでに夏の風ではなく心地よかった。

 そんな陽気だからか、
パークゴルフ場には、顔見知りが数人いた。

 その中の1人が、誰にでもなく言った。
「いい所だね、ここは。
 東京とかは、35度だってよ。
台風だって、ここまで来なかったし、
その影響の豪雨も登別までで、伊達は全然降らない。
 お陰で、こうしてパークができる。
ありがたいことだ!」

 「本当に、そうですね」
言いながら、改めて気候の良さに気づかされた。
 「そうだった! ここは北の湘南・伊達だ!」。

 ▼ アイアンは、伊達に移住する以前からのものだ。
ドライバーは、移住してすぐに買い換えた。

 コロナ禍以前に比べ、めっきり飛距離が落ちた。
当然、体力の衰えによるものだ。
 致し方ない。
でも、それを少しでも補ってほしいと、
バーゲン品だが、新しいアイアンとドライバーに買い換えた。

 早速、ラウンドで使ったが、
振り慣れないからか、思うように飛んでくれない。
 少し振り込んだ方がいいと思った。

 そこで、暑い日中を避けて、
朝のラジオ体操を終えてすぐ、
伊達カントリーの打ちっ放し練習場へ行った。

 休日に加え、同じことを考える人がいるようで、
いつもは閑散としているのに、打席が半数ほど埋まっていた。
 やや端の方の席で、練習を始めた。

 しばらく練習をしていると、
すぐ後ろの打席で打ち始めた方がいた。
 クラブを変えて練習する時に、
その方を見た。

 長身で、男性にしては珍しく
ゴルフ帽ではなくサンバイザーだった。
 まだ若々しい感じだが、どこかで見覚えがあった。

 しばらく練習を続けた。
すると、後ろの彼に声をかけた人がいた。
 彼は、練習を中断し気さくに応じていた。
甲高い声だった。
 特徴のあるその声でピンときた。
      
 昨年4月、当時の市長が後継推薦した候補に大きく差をつけ、
初当選した現市長だった。
 まだ40歳半ばと若い。
これからのラウンドに向けた練習なのか。
 それとも単なる練習なのか。
しばらく市長と隣り合わせの席で打ちっ放しに汗を流した。

 市長とは何度か会合の席で挨拶を交わしていた。
しかし、この場はプライベートだ。
 その必要性はないと思った。
それにしても、隣同士でゴルフ練習とは・・・。
 「小さな街だから!・・・」のこと。

 ▼ 市街地には3つの小学校がある。
昨年度から、その1つの小学校の学校運営協議会の委員をしている。
 
 その小学校では校舎の立て替えがあった。
今年度に入ってから、旧校舎の解体も行われた。
 改めて、新校舎の全外観を見ることができた。

 初めて新校舎に入ったときから、釈然としなかったことが、
改めて大きな疑問になった。
 それは、建て替えた校舎が4階建てであること。

 東京23区の小学校には、4階建ての校舎が多い。
その主な理由は、校地確保の難しさである。
 2階や3階建て校舎の場合、広い校地を必要とする。
そのため、狭い校地ではどうしても4階建てになるのだ。

 それに比べると、当地の小学校はどこも、
小学生の体力では利用しきれない程広い校庭があり、
驚くほど広大な校地なのである。
 どう思いを巡らせても、4階建てにする意図が分からない。

 火災や地震発生で避難する場合、
高学年と言えども、4階からでは相当の時間を要することになる。
 3階からの避難に比べても、そのリスクは大きい。
加えて、毎日の昇降は子どもにも教職員にも負担は大きい。
 なのに何故、4階建てなの・・・。
 
 まさかと思うが、稚拙な想像をしてしまった。
実は、我が家を新築した時に熱心な建設業者さんが
「当社では、100年間もつ住宅を考えて建ててます」
と説明した。

 100年の耐久年数はともかくとして、
半世紀以上の使用を想定して、新校舎の建て替えをしたと思う。
 この先も少子化や地方の人口減少は進むだろう。
それに伴って、学校の統廃合も必然である。

 「それを睨み、小中学校合同校になっても使える校舎を、
想定して建て替えた!?」
 「まさか、まさか」と強く思う。

 それにしても、
「まだまだ、この街には分からないことが・・・」。 
 



    歩道脇の花壇 『 花 盛 り 』 
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老いることの意味

2024-08-31 12:29:43 | 思い
 ▼ 二男が誕生した年に父は亡くなった。
もう47年も前になる。
 享年70歳、胃がんだった。

 余命3ヶ月と医師に宣告されたが、
一時は自宅で療養するまでに回復し、
9ヶ月後に逝った。
 最後の言葉は、「俺の生命力もそろそろ終わりのようだ」。
看取った兄たちからそう聞いて、さすが私の父と思った。

 母は、96歳まで生きた。
膵臓にガンがあったようだが、
それよりも死因は老衰だった。

 次第に弱っていったが、
亡くなる1ヶ月程前に母を見舞った。
 しきりに「私にだけ見える虫が飛んでるのよ。
わずらわしいわ」と愚痴った。
 そして、「きっと、もう会えないね」とも。

 病室を出ると、車いすで廊下まで出てきた。
私がエレベーターに乗るのを見届けた。
 そのドアが閉まるまで、母は小さく手を振り続けた。
私は、変わらない表情のままでいようと必死だった。

 さて、私に「その時」が来たら、
どんな振る舞い方をするのだろうか。
 2人のように、ありのままを受け止めて、
鬼籍に入れるだろうか。
 悪い夢見で目覚めた朝、
気だるい体を起こしながら、そんなことを思った。

 最近は、最期のことが頻繁に心を横切るようになった。
そんな年齢だからなのか。
 それとも私の精神が老けたからなのか。

 ▼ 小中学校が夏休みになり、
今年も2週間のラジオ体操が行われた。
 70人もの子どもと大人が集まる日もあった。
多くは、6時半ぎりぎりに会場の広場に駆け込む。

 ある朝、私とは反対方向から来たご夫婦と、
広場の入り口でバッタリ。
 挨拶を交わし、少しの時間だが立ち話になった。
いつも、ご主人との会話だ。
 「特にどこが悪い訳でもないけど、
最近は何をやるにも腰が重くなってしまい、困ります」

 同世代だ。共感できた。
「同じですよ。どこへ行くのも、
ちょっと体を動かすのも。
 いやですね。歳ですかね」。

 すぐ横をラジオ体操のカードを首に提げた子どもが
勢いよく走って行く。
 やや恨ましそうな目で追っていると、
珍しく奥さんが加わってきた。

 「そうですよ。
あの子たちのようにはいきませんが、
まだまだお若いですよ。
 主人とは違います。
羨ましいくらい」

 誰のことかと思った。
「私ですか。そんなことはありません」
 「いつお会いしても、お元気で明るくて、
はつらつとしていらっしゃる」。

 「とんでもない」と否定しながらも、
奥さんの言葉を真に受け、気を良くした。
 いつもより元気にラジオ体操をした。

 体操を終えての帰り、
連休の時、10数年ぶりに再会した大学時代の友人夫妻を思い出した。
 わずか数時間の我が家訪問だったが、
帰る際に、私の事を
「うちの主人より、ずっとずっと若々しい」と、
家内と同級の彼女が言った。

 そう! 彼女もあの奥さんも、
私の容姿を言ってるのじゃない。
 きっと雰囲気に若さを感じてのこと。
「それでもいいじゃないか!
若く思ってもらえたのだから」

 少し浮き浮きしていた。
今日も暑い日になるだろうと思いつつも、
やけに足どりが軽かった。

 ▼ ところで、最近の私の実際はどうだろうか。
コロナ禍前と比べると、老化は確実に進行しているように思う。
 
 視力・聴力の機能低下は明らかに進行している。
2か月毎に眼科へ通院し、
1日3回点眼薬を欠かさないようにしている。
 それでも、ゴルフボールの落下地点が見えなくなった。
車を運転していても視野の狭さを感じ、不安なることもある。

 聴力は、「耳が遠くなった」に尽きる。
テレビのボリュームを上げないと、
聞き取れないことが多くなった。

 特に、バラエティー番組での早口でのやり取りが、
聞き分けられない。
 だから、家内が笑っていても、
一緒に笑えないことが増えた。

 野球中継の解説も同じで、
応援の歓声と一緒になるともう聞き取れないのだ。

 人との会話でも、不都合がある。
よく聞こえずに、聞き返すこともたびたびだ。
 発言者の声も、一部が不明瞭な場合が多くなった。
聞こえたふりを粧ったり、
話の前後から類推したりすることも・・。

 そんな機能低下と同時に、体力の低下も著しい。
スロージョギングでさえ、無理なように思えてきた。
 朝、5キロをゆっくり走っても、
その後は疲れたまま1日を過ごすことになるのだ。
 もう2ヶ月も走ってない。
ようやく1週間前から朝の散歩を始めたが、
継続には自信がない。

 加えて感受性の衰えだ。
柔らかな感性が、陰ってしまっている。
 大自然の豊かさにも、人々の温もりにも、
想像を超えた劇的な出来事にも、
さほど心躍らないのだ。
 だから、それを期待しての行動も当て外れになる。
ドキドキ感やわくわく感が減っている。

 そんな近況をひと言で言おう。
「これら全てが、私のストレスになっている!」。

 年齢とともに、できないことが増えていく現実。
もう歳だからと、諦めることのなんと多いことか。

 しかし、「そんなあるがままを受け入れていいの?」
年齢と共に訪れる老いは当然だが、 
「どう老いるか」を決めるのは、私自身と思いたい。

 このまま老いのストレスを抱えたまま過ごす・・?
それとも、「あるがまま」へチャレンジする・・?
 「老いることの意味」は、
いずれの道を選択するかなのではなかろうか。

 


      収穫の時 玉ねぎ
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お 盆 の ピ ザ 

2024-08-24 12:41:40 | 思い
 昨年のお盆は、スケジュールの都合で、
芦別のお墓へ行けず、失礼をした。

 今年こそはと、13日に家内の両親が眠る芦別市民墓地へ
行くことにした。
 そして、15日には私の両親のお墓参りへと計画を立てた。


 まずは、13日について・・・。
芦別までは、高速道を利用して3時間半はかかる。
 私も後期高齢者である。
日頃、運転には十分に気をつけている。

 それにしても、この距離をいつまで運転できるか。
今年限りとは決めていないものの、
近い将来にはマイカーを止め、
「列車とバスでお墓参りへ行く」時がくるだろう。
 そう思うと、助手席に家内を乗せたロングドライブも、
貴重な時間のように思えた。

 さて、お昼をかなり過ぎてから、
芦別の道の駅に着いた。
 駐車場は、お盆ならではの賑わいだった。

 「まずは昼食!」と、2階のレストランへ行った。
その混雑は予想以上だった。
 出入口のフロアは、
予約表に記入した人たちでいっぱいだった。
 容易に1時間以上の待ち時間が予想できた。  

 早々に退散し、お土産品が並ぶ1階で、
菓子パンやおにぎりなどで昼食替わりにしようとウロウロした。

 そのフロアの奥へ進むと、
『ピッツァ芦別』と言うオープンカフェのようなピザ専門店あった。
 カウンターを囲むように、4人がけのテーブル席が5つ6つあった。

 ここには空席があった。
カウンターに尋ねると、注文を受け付けているという。
 2階の混雑との差に違和感があった。
勝手に、「評判が良くないのかも」と思った。
 それよりも今は空腹を満たしたかった。

 店のコーナーにあった自販機から、
ピザマルゲリータの食券を一枚求めた。
 写真にあった大きさなら、2人でシェアするのに十分だった。

 備え付けのピザ釜があった。
焼き上がるまで、時間がかかるようだった。
 空いていたテーブル席で待ちながら、
スマホで『ピッツァ芦別』を検索してみた。

 「横市フロマージュ舎のカマンベールチーズ」や
「横市フロマージュ舎直営」の言葉が並んでいた。

 つまりは、地元にある横市フロマージュ舎で
作ったチーズをつかったピザをこの店で提供し、
経営していることが分かった。

 急に、期待で胸が膨らんだ。
「横市」さんの名は、若い頃からたびたび家内から聞いていた。
 高校時代の友達が結婚した相手が「横市」さんなのだ。

 手作りチーズ工場で頑張っていた彼女とは、
毎年年賀状交換をしていた。
 しかし、数年前に他界した。
その「横市」さんのお店、
「横市」さんのチーズを使ったピザなのだ。

 丁度、お盆であった。
テーブルに置かれた焼きたてのピザを、
黙ってゆっくりと味わった。
 トマトにマッチしたチーズの美味しい味、
そしてピザ生地の美味しさにもチーズは合っていた。
 私の中では、美味しいと思ったピザベスト3に入った。
 
 「評判が良くないかも」などと推測したことを、
家内の友達にそっと詫びた。
 そして、たまたまに違いないが、
席まで空けてくれていたことに感謝した。 
 だって、食べ終わる頃には、
店の入口に長い行列ができていたのだ。


 次は15日について・・・。
去年は、兄と姉、私たちの4人でのお墓参りだった。
 姉が横浜の娘の所で、術後の療養をしているため、
今年は3人だ。

 お墓参り後のことだが、
数日前に、珍しく兄が我が家の庭が見たいと連絡があった。
 「それじゃ、夕ご飯も一緒に食べることにしよう」
と、話がまとまった。

 和食店なら行き慣れているだろう。
きっと中華や焼き肉も美味しい店を知っているに違いない。
 なら、市内に私も家内もお勧めのイタリアンレストランがある。
急ぎ「5時半過ぎに」とそこを予約した。

 その店はイタリアンらしく、
取り分けて食べるコースメニューがある。
 気取らずにシェアでき、3人には丁度よかった。

 最初の4種の前菜を食べ始めてすぐ、
兄は「美味しい」と呟いた。
 その中の2種は鯖と桜鱒の魚を使ったものだったが、
どれも驚いたように「美味い!」とうなずいた。

 次の、パスタ料理は2皿だった。
ペペロンチーノ風とボロネーゼ風。
 どちらも、軽い味付けで私好みだが、
兄は、慣れないフォークに苦戦しながらも、
黙々と食べていた。

 そして、静かに、
「オレの店では、小鉢料理にスパゲティーを使うことがあるけど、
こんな味付けはしない。美味しいなあ」。

 デザートの前は、
いつ食べても満足するピザマルゲリータだった。
 1枚を3人で取り分けた。
兄は、不慣れな手つきで6つに切られた1つを、
自分の小皿に移した。
 私たちのようにはかぶりつかず、
それを再び小さく切り分け、ゆっくりと味わっていた。

 食べ終えてから、
「スーパーなんかで売っているのを、
チンして食べたことはあるけど、
それとは全然違うなぁ。
 初めて本当のピザを食べたよ。
なるほどな、美味しい。
 今日は、いい物を食べさせてもらっている」。

 兄の顔は、コース料理を終えるまで、
終始仕事人の表情だった。
 私の教職生活は、兄の援助があったからである。
わずかだが、お礼ができたのかも・・・。

 遠くで母が、喜んでいるように思えたお盆であった。




     米不足解消を願う
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