ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

カルルス温泉 高1の夏

2023-04-15 12:43:48 | あの頃
 11日は私の誕生日だった。
ついに後期高齢者入りである。
 それを理由にし、今も姉が勤務する登別温泉の旅館に、
一泊することにした。

 登別は、車で小1時間程度だが、
なかなか足を向けることがない。
 久しぶりに名所『地獄谷』でも見学しようと、
早めに出かけてみた。

 行ってみると案の定、すぐに興味が薄れた。
チェックインまでの時間を潰す策を探した。

 思いついたのは、
登別温泉からさらに山奥に10キロ弱の
「カルルス温泉」だった。

 この温泉は伊達に移った年の秋、
日帰り入浴して以来だから、10年ぶりになる。
 数件の温泉旅館と近くにスキー場があるだけだが、
辺りの様子をみようと車を走らせた。

 オロフレ峠に向かう道路から、
『カルルス温泉』の表示に従い左に曲がった。

 すぐ目に飛び込んできたのは、
玄関ガラスも窓ガラスも割れ、
所々は窓枠もはずれた廃墟と化した旅館だった。
 その無残さを直視できなかった。

 道を挟んだ向かいの温泉施設は、営業していた。
しかし、建物の外壁は何カ所も朽ちていた。
 さびれた温泉郷の印象を強くした。

 ゆっくりと車を進めてみた。
点在している民家も半数以上が無人で、
荒れ果てたまま放置されて・・・。
 営業している旅館はあったが。
人気はなく閑散として・・・。

 そんな様子を見ながら、助手席に座る家内に、
私は、言い訳がましく何度も同じことをくり返した。

 「昔のカルルス温泉はこんなんじゃなかった。
確かに昔も山間の温泉だったけど、
もっと活気があった。
 こんなんじゃなかったよ!」。

 言いながら、フロントガラスごしの山々と川の音が、
60年も前のことを、ふと思い出させた。

 それは中学3年の時、仲良しになった男5人で、
高1の夏にここを訪れた時のことだった。

 中学を卒業し、私たちは3つの違う高校へ進学した。
だから、夏休みに入ってすぐ、久々の再会を喜んだ。

 中学の思い出話で盛り上がった。
支笏湖のキャンプが話題になり、
「もう1度、テントで1泊したいね」と話が進んだ。

 「じゃ!この夏休み中に」と決まった。
誰からの提案か、どうしてそこなのか、
経過も動機も思い出せない。

 とにかく、お店からテントを借りて、
キャンプ場などないカルルスで、
2泊3日のキャンプをすることになった。

 終点のカルルス温泉でバスを降りた。
それぞれ分担した荷物を背負って、
温泉宿の間を流れる川のそばを上流へと進んだ。

 平坦な河原があったら、
そこにテントを張る計画だった。
 30分は歩いただろうか、手頃な場所があった。

 川の音が絶えないそばにテントを張った。
風もない静かな山間だった。
 絶好のキャンプ場所に、5人とも興奮していた。

 何を食べたか忘れたが、やがて真っ暗になり、
5人でならんで毛布にくるまり、テントの中で横になった。
 なかなかす寝付けなかったが、いつしか雑談も終わった。

 ところが、深夜、テントをたたく激しい雨音で目がさめた。
暗やみの中、5人ともじっと寝ていた。
 雨は激しくなるばかりだった。

 ついに雨水がテントの隙間から入ってきたよう・・。
毛布まで濡れ始めた。 
 地面に置いたままのリュックにまで、雨水が迫っているみたい・・。
みんな起き上がって、ろうそくの明かりでテント内を見回した。
 ジワジワと雨水がテントに入ってきていた。 

 「しまった。テントの周りに溝を掘り忘れた」。
誰かが言った。
 シャベルなどない。
でも、ずぶ濡れ覚悟で5人ともテントから出た。
 1本の懐中電灯をたよりに、
豪雨の中、素手でテントの周りに溝を作った。
 「うまくいった!」。
雨水の浸入は止まった。

 濡れた服のままテントの中で朝を待つことになった。
横になれなかった。
 濡れていない場所を探して座った。
長い時間だった。
 「これもいい思い出になるサ」。
「そうだよ!」と言いあった。

 明るくなるのと同時に雨が上がった。
濡れていない着替えをもって、
バス停近くの温泉宿へ行った。

 事情を話し、温泉で温まりたいと頼んだ。
冷えた体が温泉の温もりで生き返った。
 湯船に浸りながら、5人は次第に饒舌になった。
ホッとする最高の時が流れた。

 お礼を言い、その宿を出る時、
ご主人からどこにテントを張ったか訊かれた。
 おおよその場所を説明した。

 すると、
「あそこは、危ない。ダメだ。
クマがでるところだ。
 テントをたたんで、
急いで戻ってきたほうがいい」。
 真顔で言われた。

 一気に湯冷めしたように、体中が固まった。
誰とはなく、目があった。
 そして、「はい!」の返事も忘れ、
濡れた服の包みを道路脇に放り投げ、
5人とも走りだした。
 
 息をきらしながら、川沿いの道を駆け上った。
テントまで着くと、熊が現れないことを願いながら、
帰り支度を急いだ。 

 それぞれリュックを背負い、温泉宿が見える所まで戻ったとき、
はじめて川の大きな音に気づいた。

 大きく息をはきながら、「どうする?」と。
「どこか違うところでもう1泊キャンプする?」。
 みんなの気持ちは一緒だった。
「次のバスに乗って、帰ろう」。
 反対する者はいなかった。

 何も話さず、バス停のそばに座って待った。
車内でもみんな無口だった。
 それは、それぞれ帰宅したときの、
1日早い言い訳で頭がいっぱいだったからだ。




エゾノエンゴサク ~水車アヤメ川自然公園
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梅 ! 桜!・・・ あ れ こ れ 

2023-03-11 12:25:13 | あの頃
 当地にも春の足音が聞こえ始めた。
根雪がとけた地面からは、福寿草の黄色、
蕗のとうの緑色が顔を出した。
 もうすぐ、色とりどりのクロッカスも、
現れるだろう。
 
 さて、本格的に春を告げる花は、梅と桜だろう。
東京近郊では2月下旬から梅、
桜は3月下旬から4月上旬に咲く。
 この2つの開花前線は、北上の早さに違いがある。
なので、北海道へはゴールデンウィークの頃、
同時に上陸し、一緒に満開する。
  
 2つの花見にまつわる思い出を綴る。

 ① 8年前の2月下旬だ。
当地は、雪に覆われていた。
 初孫誕生の知らせを受けたのは、
洞爺湖の温泉街にある小ホールの出入口でだった。
 農閑期だけ演奏活動をする
農業関係者のオーケストラを聴いた直後、その電話があった。

 帰宅してすぐ、翌日のフライトとホテルの手配をした。
早朝、家内は赤飯を炊いた。
 それを重箱に詰め、息子らが暮らす船橋市内の産院へ向かった。

 昼過ぎ、駅から徒歩10分程度と聞いた道を急いだ。
その途中に海老川橋があった。
 橋のたもとで、1本の紅梅が満開を迎えていた。

 一面真っ白な雪景色ばかりの私に、
梅の紅色は華やかで素敵だった。
 思わず急ぐ足を緩めた。
立ち止まって、もう一度見た。
 「これから初めて会う孫は、きっと幸運に恵まれる」。
そう信じた。

 横にいた家内に、
「この梅の花は誕生の贈り物のようだ。記念の景色にしょう」
と提案した。
 再度、しっかりと脳裏に焼き付けた。

 当地にも、ほうぼうに梅の木がある。
開花の時期を迎えると、花見に足が向く。
 なかなか会えない孫だが、
幸運を信じたことを思い出すことができるのだ。
 
  
 ② 教職について15年が過ぎた時、
1年間学校を離れて研修する機会に恵まれた。

 研修期間が終わる頃、都立A病院を視察した。
この病院は、10年程前に閉鎖になったが、
主に児童精神科診療を行う精神科病院だった。
 当時としては珍しかったが、
その病院内に都立S養護学校の分教室があった。
 入院していても、子ども達には学習する場が
整っていた病院だった。

 その分教室での指導の様子を見せてもらった。
様々な子どもが学んでいた。
 15年間、通常学級での指導しか経験のない私には、
あまりにも難題の多い指導場面ばかりだった。
 次第に気持ちが沈んだ。
そのまま病院を後にした。

 最寄り駅までの通りに、
「梅まつり」と書いた赤いのぼりが、
何本もあることに気づいた。
 きっと気分転換がしたかったのだろう。
のぼりに導かれるように、
梅林のある公園の坂道を登った。

 「梅まつり」のわりには、人出はまばらだった。
公園のいたる所、小道の両脇で紅梅も白梅も開花し、
咲き誇っていた。
 私の背丈ほどの満開の木からは、
いい匂いがそっと漂ってきた。
 
 近くで、春色のコートの女性が、
ちょうと背伸びをして手を伸ばし、
小枝を顔に近づけ香りを楽しんでいた。
 映画のワンカットみたいで、印象的だった。

 右へ行っても、左でも、
前も後ろも、赤と白の梅だった。
 次第に足どりも気持ちも軽くなった。

 駅までにどれだけの時間、寄り道したのか忘れてしまった。
でも、その駅名が『梅ヶ丘』なことだけは、ずっと覚えている。

 
 ③ 移住した翌春、北上する桜前線が、
北海道へ上陸したニュースが流れた。
 以前から「桜は松前」と聞いていた。
勇んで向かった。

 函館からは予想以上に時間がかかった。
左手に津軽海峡を見ながらの長距離ドライブだったが、
松前城公園に着いた。

 桜の種類が豊富とかで、開花の時期が微妙に違っていた。
なので、満開の木もあれば、すでに散った木も、
まだ蕾のままも。
 
 一面の桜が一斉に咲き誇るのを期待していたので、
消沈した。
 「致し方ないこと!」。

 前年に見物した千鳥ヶ淵のソメイヨシノを思い浮かべながら、
長い長い帰路のハンドルを握った。

 翌年、また期待外れでもいいと覚悟して、
今度は、函館の五稜郭公園の桜を見に、愛車を走らせた。
 ソメイヨシノ1500本が、星形のお堀の内側と外側で、
一斉に咲いていた。

 五稜郭タワーに上り、見下ろすのもいい。
お堀にそって間近で、同じ背丈の桜を見上げながらの、
散策もいい。
 春の青い空と桜色の美しさを、十分に堪能できた。

 帰り際、その一角で花見の宴席を準備しているところを見た。
ガスコンロの上にのっていたジンギスカン鍋だった。
 北海道らしさに、つい微笑んでしまった。

 
 ④ 車通勤をしていた先輩の先生から、こんな誘いがあった。
「私の団地を出てしばらく行くと、道の両側が桜並木なんだ。
 今は、桜のトンネルがずっと続いて、
運転しながらでも見ごたえがあるんだ。
 どう桜見物に行かない!」。

 長男が1才になる前だった。
なれない育児に追われていたが、
「ずっと続く桜のトンネル」に惹かれた。

 日曜日に待ち合わせ場所まで、
家内と息子を乗せて1時間ほど車を走らせた。 
 同じ学校の同僚家族4組が集まった。

 『桜まつり』の最中だった。
桜のトンネル道では、地元小学生が鼓笛パレードをしていた。
 その沿道で、私は長男を抱きかかえながら、
パレードと満開の桜を交互に指さした。

 息子が、私の誘いに気づき、
指さす方を見たかどうかは忘れた。
 でも、開花した桜並木の人混みの中で、
小さな我が子に語りかけながら、
抱きかかていた新米パパを思い出すことは、今もできる。

 千葉県松戸市常盤平駅付近の3キロも続く「さくら通り」では、
あれから50年が過ぎる今年も『桜まつり』があるらしい。

  


      春  春  春だっ!
                 ※ 次回のブログ更新予定は 3月25日(土)です。
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物 売 り の 声 ・ ・ ・

2022-12-10 11:41:33 | あの頃
 ① 家内が参加している朗読ボランティアの会が、
次の例会で、著名なエッセイ『物売りの声』(?)を朗読し、
録音すると言う。
 家内も、その一部を担当するとか・・。

 エッセイの内容を尋ねると、
昔はよく物売りの声が聞こえたが、
今は、聞くことがなくなった。
 どうやらそんなことが記述されているようだった。

 幼い頃のうっすらとした記録が、断片的に蘇った。
納豆売りや豆腐売りの声が、
目覚めたばかりの早朝や遊び疲れた夕方に、
よく近づいてきた。
 
 時々だが、早朝に母に頼まれた。
小銭を握り、外へ飛び出した。
 荷台に木箱をのせた自転車にまたがり、
「ナットウ! ナットウ!」と叫ぶお兄ちゃんを、
道端でジッと見た。

 自転車を止め、「納豆か?」と訊いてくれた。
私は、黙ってうなずき、お兄ちゃんを見上げ、
手のひらをひろげ小銭を見せる。
 お兄ちゃんは、荷台から納豆を取り出し、
手ひらの小銭を取り、その手に納豆を載せてくれた。

 再び、自転車をまたぎ、「ありがとう!」と言い、
「ナットウ! ナットウ!」と言いながら、
お兄ちゃんは遠ざかっていった。
 しばらく後ろ姿を見ていた。

 家に戻りと、母は「あら、偉かったね」と言い、
納豆を受け取った。
 何も言わないで買ったことを、
いつも誰にも言わなかった。
 後ろめたさが、心に残った。
 
 何年が過ぎただろうか。
確か、小4か小5の頃だったと思う。
 国語で早口言葉を学習した。
「瓜売り」の言葉だけは、それからずっと覚えている。

  瓜売りが 
  瓜 売りに来て
  瓜 売り残し
  売り売り帰る
  瓜売りの声 

 まだ誰も帰って来ない家の中で、
声を出して、「瓜売り」の言葉を繰り返し練習した。

 急に、「ナットウ! ナットウ!」の声と、
自転車にまたがり、遠ざかっていくお兄ちゃんを思い出した。
 一緒に、『売り売り帰る 瓜売りの声』が、悲しく心に響いていた。

 「もしかしたら、お兄ちゃんも納豆を売り残したかも」。
そう思うと、息がつまった。
 一人ぼっちの家で、ベソをかきそうになった。


 ② 私が3歳の頃から、父と母は魚の行商を始めた。
リヤカーに魚を積み、一日中、売り歩いた。

 今も、魚料理専門店の厨房に立つ10歳違いの兄は、
中学を卒業するとすぐに、
両親と一緒にリヤカーを押し、商売を手伝った。

 朝食を済ませ、6時半に父と兄は市場へ行った。
9時過ぎに帰ってくるまでに、
母は台所仕事や洗濯など家事を済ませた。

 市場で仕入れた魚が届くと、リヤカーに積み込み、
3人は10時に出発した。

 売り歩くコースは、曜日によって少し違ったが、
ほぼ変わらない。
 途中で、昼食のため一度戻るが、
休む間もなく4時、5時まで行商は続いた。

 戻ると、売れ残りの処理をした。
魚の多くは干物にした。
 中には氷でもう1日冷蔵保存した。
夕食は、決まって7時を回ってからだった。

 中学生になると、「休みの日ぐらいは手伝え!」。
兄に言われた。
 渋々リヤカーを横から押して、手伝いの真似事をした。
その時、はじめて父と兄の物売りの声を聞いた。

 毎日、決まった時刻にリヤカーを止め、
お客さんを呼び寄せる場所があった。
 そこに近づくと、2人は声を張り上げた

 「ちわー! ちわー! 来たよー!」
「ちわー! ちわー!
いいニシンあるよー! イカもいいよー!」
 「ちわー! ちわー!」

 しばらくすると、1人2人とお客さんが寄ってきた。
時には、7、8人がリヤカーを囲んだ。
 その人達が買い物を済ませると、
次の売り場所へ、リヤカーは移動した。

 再び、そこで2人は、
「ちわー!、ちわー! ・・・」と、
リアカーの魚屋が来たことを告げた。
 その声に買い物客は、集まってくるのだ。

 やがて、兄は運転免許をとった。
リヤカーは小型トラックに変わった。
 行商のエリアも広がった。
なのに、車を止めては「ちわー! ちわー! ・・・」と、
声を張り上げた。

 見かねた私は、その声を車載拡声器でするよう提案した。
しかし、兄は真顔で教えてくれた。
 「この辺りは、三交代で仕事してる人、多いべ。
昼、寝てる人もいるべさ。迷惑かけられないべ」。
 
 「やっぱり、この人はすごい!」。
脱帽した。


 ③ 首都圏の団地暮らしでは、
古紙とトイレットペーパーの交換を、
車載拡声器でアナウンスしながら、
頻繁に回る小型トラックがあった。
 しかし、それもいつ頃からか聞かなくなった。

 私が記憶する最後の物売りの声は、『サオダケ』である。
窓の外から「さおだけー さおだけー」のアナウンスが、
繰り返し聞こえた。

 車載拡声器からの物売りの声だと分かったが、
その品物が『物干し竿』と気づくまでには、
かなり時間を要した。

 聞いた当初、私の理解は「竿だけ」だった。
つまり「つり竿だけを売っている」と考えた。
 実に不思議だった。
「つり竿だけ・・、と言うことは、
釣り針とかリールは売っていない。
 当然、釣りエサも売ってない。
変わった物売りだ」。

 「全く、うさんくさい!」。
そう思うと、その声が近づいてきても、
窓から確かめる気にもなれなかった。

 それからしばらく年月が過ぎた。
買い物帰りの途中、
「さおだけー さおだけー」と、
コールする小型トラックがゆっくりと通り過ぎた。
 うさんくさい目で、その荷台を見た。
我が家のベランダにある物干し竿と同じ物が
数十本、斜めに並んでいた。

 「なんだ、竿竹だったか!」。
大きく納得した。
 「あんな長いものは、店で買っても持ち帰りが大変だ。
そうか! ああして売り歩いているのを買うのが一番だ」。
 思い込みのギャップもあって、そんな強い想いに至った。

 ところが、「さおだけー」へのそんな想いが、禍した。
団地の近くに、30階建ての高層マンションができた。
 そこはペットと同居ができた。
愛猫を堂々と飼うためにもと、購入を決めた。

 引っ越しの日、
最後の荷物を積み込み、最終のトラックと一緒に、
新居に向かおうとした時だった。
 「さおだけー さおだけー」のトラックが近づいてきた。

 今、積み込んだばかりの物干し竿を思い出した。
20年以上も使い、さび付いていた。

 何一つ迷わなかった。
竿竹の購入は、「さおだけー」のトラックからだ。
 「買い換える絶好のチャンス!」。

 引っ越しの作業員と、「さおだけー」のトラックを呼び止めた。
新しい竿竹を買い、古いものを引き取ってもらった。

 その後、引っ越し作業は順調に進んだ。
ところが、全ての作業が終えた頃、
作業員たちが車座になって、小声で相談をしだした。

 そして、作業主任がやや困り顔で、私のところへ。
「実は、先ほど買った竿竹ですが、
2つの角を曲がってから、こちらの玄関があるものですから、
長い竿をベランダまで運び入れることができません。
 外からの搬入も、こちらの高さの階まででは、無理でして、
申し訳ございません」。
 主任は、深々と頭をさげた。

 「竿竹のトラックが来たから、
つい衝動買いをしてしまいました。
 後で、スーパーで伸縮性の竿を買えばよかったのに、
ご迷惑をかけました。
 買った竿竹は、不用品扱いで持ち帰ってもらえませんか。
お願いします」。
 今度は、私が頭を下げた。

 


    有珠山 == ずっと平穏でいて!
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釣 り ~あんなことこんなこと

2022-11-19 12:32:01 | あの頃
 ▼ 移住して10年が過ぎた。
転居当初、「この先、必要になることもあるだろう」と、
しまい込んだ物が、物置にいろいろとある。

 確かに、その中から取りだして使った物もあるが、
多くは引っ越しからずっと、同じ場所に置かれたまま・・。
 そこで、もう不用品として処分しようと重い腰をあげた。

 その中に、釣り道具があった。
竿が3本、リールが3個、クーラーボックス1個、
それに蓋付きの箱に、重り、各種釣り針、サビキ網、
ハサミやら小道具やらがギッシリ。
 どれも、使ったまま錆とほこりで古ぼけていた。

 それらを、燃えるゴミと燃えないゴミに分別しながら、
しばらくの間、釣りにまつわる思い出に浸っていた。

 ▼ もうかれこれ40年も前になるが、
1984年の年賀状に、こんな詩を載せた。


   テトラポットの上に

 テトラポットの上に
 家族4人

 もうお兄ちゃんは
 鰯を5ひきも釣り上げた
 得意気な顔をして
 またリールを巻き上げている

 その横で
 「また きたか」と
 声をかけながら
 少しあせり顔のパパ
 まだ 2ひきしか

 ぼくは そのそばで
 コマセあみにスプーンで
 エサ係
 手に魚の臭いが
 こびりついても平気さ

 あっ また お兄ちゃんの
 さおが ひいているよ
 今度はくじらかな

 ぼくたちの後ろで
 ママはさっきから
 「危ないよ」
 「おちないで」
 ばっかり


 長男が小3、次男が保育所の年長だった。
好天の秋、休日の昼下がりに、
車と徒歩で15分程のヨットハーバーで、
釣りを楽しんだ。
 詩は、そのワンカット。

 その年だけ、釣りが私の『マイブーム』だった。
1週間前に同じヨットハーバーの堤防で、1人、釣り糸を垂れた。
 すぐから、カタクチイワシが一度に何匹もかかった。
夢中になり、歓喜した。

 その興奮が忘れられず、3人を誘った。  
まずまずの釣果があり、楽しい家族の時間になった

 しかし、釣りはそんな日ばかりではない。
2時間待っても3時間待っても、
一匹も釣れない。
 そんなことが、2度3度と続いた。
すると、どんなに誘っても3人は「行かない」と口をそろえた。
 徐々に、私の『マイブーム』も冷めていった。

 ▼ 毎年、夏休みには家族で北海道に帰省した。
その年は、家内の実家に3日ほど滞在した。
 初日、義父の案内でニジマスの釣り堀へ行った。
2人の息子は、次々と竿にかかる魚に、大喜びたっだ。

 その夜、夕食を囲みながら、
「渓流釣りがしてみたい」と思いつきで言った。
 すかさず、義父が「じゃ、明日行くか?」。

 それまで義父が、渓流釣りをするなんて知らなかった。
2つ返事で、明朝の日の出前に2人で行くことになった。
 義父は、慌ただしく準備をしてくれた。

 まだ真っ暗な時間に、義父の運転する車に乗り込んだ。
どこに向かっているのか、詳しい説明を聞けないまま、
運転席にいた。
 ざっと2時間は、乗っていたと思う。

 運転席でウトウトしていると、川の水音で目が覚めた。
すっかり夜は明け、快晴の空だった。

 義父は、止めた車のトランクを開け、準備を始めていた。
急いで外に出ると、
太ももまでの長靴に履き替えるように言われた。

 その後、麦わら帽子をかぶり、
腰に魚籠とエサの入った道具箱をさげた。

 「いくぞ。渉君」。
竿を持った義父は、小さな橋のたもとから、
流れの早い川の渕へ。
 私も、義父を真似、竿を肩にかけ、後に続いた。

 2メートルほどの川幅だが、浅瀬でも流れは急だった。
それに逆らって上流へ進んだ。

 「この辺りから釣れると思う」。
エサのつけ方、投げ入れ方の手ほどきを受けた。
 そして、釣れそうな川のポイントも教えてもらった。

 立った位置より上流に、釣り糸を投げ入れ、
流されるまま竿を下流へと動かす。
 それを繰り返した。

 同じ場所で、何回か試して引きがないと、
上流へと釣り場を変えた。
 義父は、あきらめが早かった。
引きがないと、どんどん上流へ移動した。

 やがて、義父の竿先が動いた。
勢いよく上げた釣り糸の先で、ヤマメが跳ねていた。
 続けて数匹が義父の竿にかかった。

 「渉君、流れが静かなあそこを狙え!」。
義父の指さす方へ、竿を向け釣り糸を投げた。
 瞬時だった
握っていた竿が小刻みに振動した。
 凄い引きがきた。

 教えてもたったように、勢いよく竿を上げた。
糸の先で、ヤマメが跳ねて、青空に舞った。
 とっさだったが、こんな言葉で喜んだのは、
後にも先にもその時だけだ。

 私は、ヤマメの跳ねる竿を片手に、
川音にも負けない声で2回叫んだ。
 なんと、「ブラボー!」「ブラボー!」だ。

 その後、その声に驚いたのか、
2人の竿には全く引きがなくなった。

 だから、義父は再びどんどんどんどん上流へ。
そこで、初めて狭い川原にある小さな立て札に気づいた。
 黒い太字でこう記されていた。
『クマ出没注意 営林署』。

 目に止まらないのか、構わず上流へ行く義父。
進む先々に同じ立て札があった。
 たまりかねて、「父さん、ここにもこんな立て札が・・」。
指さして私は立ち止まった。

 「気にすんな!」。
義父はサラッと言うと、それまで以上の速さで川を上り、
釣り糸を垂れた。

 その後、私の竿にも強い引きがたびたびあった。
腰の魚籠も重くなった。

 でも、「ブラボー」なんて、2度と言えなかった。
立て札が恐かった。
 早く帰路に着きたくて、それだけを願っていた。

 渓流釣りは、その1回で懲りた。
確かに「ブラボー」と叫ぶほどだったが・・。

 ▼ 5年を担任した学級に、釣り好きな子が数人いた。
その子らの提案で、翌年、釣りクラブができた。

 月に3回、火曜日の6時間目のクラブ活動の時間に、
5,6年生の男子約20名が釣り道具を持って集まった。
 たまたま私が、そのクラブの担当になった。

 クラブの活動は、学校から歩いて5分程度の土手から、
川に釣り糸を垂れ、魚がかかるのをひたすら待つだけだった。
 釣りが好きな子ばかりが集まっていた。
じっと竿の先を見て、わずか30分程度の釣り時間を過ごした。
 釣れなくでも満足なのか、時間が過ぎると、
釣り道具をきちんとしまい、学校に戻った。

 近所に釣具屋があった。
火曜日の朝、何人かがそこで釣りエサを買った。
 それで、釣りクラブを知った店主が、
いつからか、無料でエサをくれるようになり、
釣り好きの子を励ました。

 ある日、どの子の竿にも次々とフッコがかかった。
土手は、活気づいた。
 多い子は、30分の釣り時間に4匹もつり上げた。
 
 いつも口数が少ない子らなのに、
その日は、学校までの道々、下校途中の子を呼び止めては、
釣れた魚を見せた。
 
 そして、釣具屋の前まで来ると、
勢いよく店の戸を開け、
店主に次々と釣った魚を見せた。

 「よかったネ。よかったネ」。
店主の明るい顔の横で、
私は何度も何度も頭を下げていた。
 
 それは1回だけ。
再び、釣果のないクラブ活動に。
 でも、翌年も釣りクラブに入部者があり、存続した。


 

       白 鳥 飛 来 
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学校の移り変わり ここにも

2022-11-05 12:34:07 | あの頃
 大学を卒業して、東京で小学校教員になったのは、
50年も前のことだ。
 当然だが、学習内容や方法をはじめ、学校の様相は、
その時々で大きく変わった。
 学校を支えるここも、変わった。
その一端を記す。
 
 ▼ 50年前の着任初日のことだ。
手違いで、住まいが決まっていないことが分かった。
 その日、宿泊当番だった警備員さんの計らいで、
学校の保健室に泊めてもらうことになった。

 当時、都内の公立学校の夜は、警備員が宿泊し、
校舎を管理していた。
 だから、知り合いの伝手もない東京での初めての夜を、
路頭に迷わずに済んだ。

 ところが、夜の学校警備は、
それから数年すると、体制が次第に変わった。
 校舎警備の機械化が始まったのだ。

 今では、都内の全ての学校が、深夜は無人になっている。
学校に限らず、警備システムが進化した。
 不審者の侵入、火災だけではない、窓や出入り口の施錠の不備まで、
システムは知らせる。
 その上、無人でも有事の警報があると、
瞬時に警備会社より人員が急行する。
 警備員が宿泊するよりも、夜の学校は安全になったと言える。

 ▼ 給食業務も大きく変わりつつある。
私が教頭をしていたK区は、
区の職員が各学校に配属され、給食を作った。

 ところが、校長をしたS区では、
多くの学校で給食業務が、
民間企業への委託に切り替わっていた。
 行財政の経費削減が主な目的だった。

 しかし、これによって、
学校給食が様変わりする第一歩が始まった。

 民間委託前は、学校規模によるが4名程度の区職員が配属になり、
調理をした。毎日、どんな献立でも、その4人で作業をした。

 ところが、民間委託は違った。
委託された会社には、学校に常駐する調理員の他に、
献立によって人手を必要とする場合は、臨時に派遣するスタッフがいた。

 従って、回数には制限があったが、
子ども達が2つの献立から1つを選べる、
『セレクト給食』ができるようになった。

 また、年に1回だったが、
5年生と6年生には、バイキング給食も実施された。


 ▼ 学校警備の機械化も給食業務の民間委託化も、
長い年月をかけ徐々に進められている。

 さて、3番目は、主事さんである。
この項は、やや長くなる。
 私が小学生だった頃は
『小遣いさん』と呼んでいた方々だ。
思い出がある。

 私の小学校はペチカがあることで有名だった。
教室のペチカに、毎朝、石炭を投げ入れ、
暖かい冬の教室へ私たちを迎え入れてくれたのは、
口数の少ない『小遣いさん』だった。

 放課後に、『小遣いさん』のおばさんに呼び止められた。
ズボンの膝頭に開いた穴を、一針一針かがってくれた。
 その温かさが、心に浸みた。

 いつから『主事さん』と呼ぶようになったか、
分からない。
 小学生の頃の『小遣いさん』と変わらず、
私が勤務したどこの学校にも労を惜しまず、
仕事をする主事さんがいた。
 学校にはなくてはならない人たちだ。

 その主事さんにも、
ついに民間企業への業務委託案が持ち上がった。
 私が、校長会長の任にあった時だった。
学校関係者として、
教育委員会の検討会議に何度も出席した。
 
 そして、丁寧な議論を重ね、
翌年から数校で主事さんの民間委託による業務が始った。
 実は、S区のこの委託は全都でも先駆けだった。
区が提携した民間企業でも、
社員を主事さん業務に派遣するのは初めてだった。

 委託内容や経過を熟知しているからと、
私の学校が最初の委託校に選ばれた。
 
 内容までは知らないが、企業での半月間の研修を終え、
4月1日、50歳前後の男性1人女性2人が民間企業から、
主事さんとして私の学校に来た。

 S区と主事さん派遣の業務提携を結んだ会社は、
業務内容を明示して社員募集をした。
 選考の結果3人が採用になった。
3人とも、学校の主事としての経験はなかった。

 1日目、私が出勤すると、3人はすでに作業着姿だった。
男性を主任と呼び、職員室の掃除を終えるところだった。
 私の部屋の掃除はすでに終わっていた。

 「経験がないのに・・!」。
その日の仕事ぶりに目を見張った。
 3人は、時間を惜しむように、
一日中、学校の内外を忙しく動き回っていた。

 そして、入学式から数日が過ぎた朝だった。
1年生は登校に慣れていないのに、雨が降った。

 体にはまだ大きい真新しいランドセルを背負い、
不慣れな雨傘をさして、
上級生と一緒に1年生が玄関まで来た。

 その時、今まで見たことのないシーンを私は目撃した。
3人の主事さんが、1年生の靴箱前で、
両手にタオルを持って、待ち構えていた。
 1人1人の頭と背中、そしてランドセルの雨を、
忙しく拭きはじめたのだ。

 「頭も背中も鞄も拭いたから、教室へ行っていいよ」。
主人さんの声かけに振り返り、一瞬明るい顔で1年生は、
「ありがとう」と言い、教室へ向かった。

 3人の足下に置かれたカゴには、どこから集めたのか、
乾いたタオルがたくさん入っていた。

 「雨の日は、全員の頭や背中を拭いてあげたかったけど、
今日は、1年生にしかしてあげられませんでした」。
 私が礼を言うと、主事さんは残念そうな顔をした。

 以来、雨の朝の玄関には、
いつもタオルを手にした3人がいた。
 1年生だけでなく高学年も嬉しそうに、
主事さんに頭と背中を向けていた。

 ある日、近隣の方から電話があった。
私に直接言いたいとのこと。
 やや緊張して、受話器を握った。
明るい声だった。

 「4月から、学校の横のゴミ集積所を綺麗にしてくれる方がいて、
助かっていたのです。小学校の主事さんだと今朝分かりまして、
ひと言お礼をと思い、お電話しました」。

 受話器を置きながら、誰にだろうか、
深々と頭を下げていた。

 男性の主事さんが、校長室の蛍光灯交換作業していた時だ。
私は、日頃の仕事ぶりを取り上げ、感謝を伝えた。
 すると、いつも遠慮がちな彼が、小さく言った。

「私たちは、今までの方々と同じじゃ、ダメなんです。
いろいろ考えて、頑張りますので、よろしくお願いします」。
 新規事業に参入した意気込みが伝わってきた。
ここでも、小さな変化が歩み出していた。


 

    ご近所の花壇 マリーゴールド
                   ※次回のブログ更新予定は11月19日(土)です   
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