ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

マラソン大会 小話

2020-04-25 16:03:37 | 出会い
 各企業への休業要請が続いている。
その要請に応じてくれた所には、協力金を支払う。
 そんな動きが、各地で展開されている。

 ところが、この協力金の金額について、
都道府県や市町村によって違いが生じている。

 その違いをどう考えるか問われた北海道の、
鈴木知事の答えに、『あっぱれ』を送りたい。

 「本来、休業補償は国が行うことです。
しかし、そうしないのです。
 だから、各地方が苦しい財源を、
やり繰りしながら進めているんです。」
     (不正確な箇所があるかも・・)

 そして、道内の某市長は、同じ協力金の支給についてこう述べた。
「乾いた雑巾を絞りに絞って出しました。」

 行政の首長として、2人に気骨を感じた。
「心強い!」「頼もしい!」。
 小市民の1人として、エールを送りたくなった。

 それに比べ、感染症対策専門家会議が紹介した
『人との接触を8割減らす10のポイント』なのだが・・・。
 さほど話題になっていないが、失望・・・・・。

 「10のポインドができれば8割削減できる!」。
そう期待して、その10に目を向けた。

 ところがだ。
「オンライン帰省」に「飲み会はオンライン」、
その上「待てる買い物は通販で」に「診療は遠隔診療」ときた。
 多くを語る気にもなれない。
的外れもいい加減にしてほしい、

 これが我が国コロナ対策のリーダーの提言なのか。
「情けない!」。
 私には理解不能だ。

 この有り様じゃ、今後も全国で混乱が続くに違いない。
そう覚悟しながら、長期戦に立ち向かおう。

 そう言いつつ、一市民として出来ることは、
2ヶ月前から同じだ。
 じっとしている。それだけだ。
何も変わらない。

 だから、「今回も少しは明るいことを」と・・。
7年前から年に数回、各地のマラソン大会に参加している。
 そこでの小さな出来事・小話を綴る。


  ① 申告は,速めにするの!!

 そのハーフマラソン大会の関門は、
5キロごとに設けられていた。
 そこを35分以内のペースで通過しなければならない。
ここ数年の私の走力では、ギリギリだった。

 特に、スタートから最初の関門、
つまり5キロにある関門まで。
35分で走り着かなければならない。
 これが、なかなかの難関なのだ。

 言うまでもないが、『関門』だ。
その時間までに通らないと、ストップがかかる。
 その後を走ることは許されない。

 ハーフマラソンを5キロで止められては、
悔いるどころではない。
 すごく恥ずかしいし、もったいない。
 
 ところが、私はそこで止められる可能性が十分にあるのだ。
その要因は、スタート時のロスタイムである。

 実は、大会は5000人のランナーがスタートする。
その前に、混乱を避けるため、走力順に並ぶ約束になっている。

 スタートラインには、自己申告した速いタイムの
グループから順に並ぶ。
 だから、私は当然最後尾になる。

 すると、スタートの号砲が鳴ってから、
スタートラインをまたぐまでに、最後尾は約3分間もかかるのだ。
 これがロスタイムだ。

 つまりは、最初の5キロまでを、
私らは、35分ではなく32分間で走らなければならないことになる。
    
 号砲が鳴ると、少しでも速くスタートラインまで行きたい。
前のランナーをかき分けたい心境になる。
 そんな時だ。

 最後尾を誘導していたベテランの大会役員が、
顔見知りランナーとでも話していたのだろう。
 その声が聞こえてきた。

 「正直に申告するから、最後尾なのよ。
もっと速い時間で申告すればいいの。
 そうしたら、もっと前に並べるでしょう。
最初の関門までが楽になるのよ。
 そんな考えの人、前の方にいっぱいいるよ。」

 「そんなのフェアーじゃない。」
そう思いつつ、すごく気が動転していた。


 ② オレ、教えたよ!

 旭川のハーフマラソン大会は、名所『旭橋』を渡る。
丁度、この橋が、中間点付近にあたる。

 スタートから概ね8キロで、
コースは市街地から堤防上の散策路に変わる。
 そこを2キロ程行くと旭橋である。

 その土手道をしばらく走った時だ。
少し前を行くランナーが、
道路脇で私たちを見ていた方に話しかけた。 
 
 「すみません。旭橋まではどの位ですか。」
道路脇の方は、無言で首を傾けた。

 しばらくして、そのランナーは、
また道路脇に訊いた。
 「旭橋までどの位ですか。」
再び無言で、分からないという表情が返ってきた。

 私は、走りながら左腕のランニングウオッチを見た。
そして、そのランナーに近づいた。
 「旭橋ですか。」
彼は、疲れた顔でうなづいた。
 「あと1キロくらいです。
がんばりましよう、」

 苦しさは同じだった。
でも、私の声を聞き、表情を明るくした。
 教えて上げて良かったと思った。
私の足どりにも、少し弾みがついた。

 だが、その次だ。
後ろをついてきた女性ランナーが、
彼に近寄った。
 そして、言った。

 「ずっと前の方、見てください。
緑色したアーチの橋。あれ、旭橋!
 分かります?」
 彼は、戸惑った風だが走りながら、
何度もうなづいていた。

 「余分なことをしたのは、オレなの?
それとも彼女なの?」。
 しばらくは、自問しながら走るはめになった。

 「オレ、教えたよ!」と言い返すべきか?
「いやいや、それは・・・・」。
 しばらく落ち込んでいた。

 ③ 根性が違う!

 1月に、体育館のランニングコースで、
久しぶりに出会った同世代のランナーとのやりとりだ。

 「去年の洞爺湖、俺は10キロだったけど、
フルを走ったの?」
 「はい、一応スタートはしました。」
「そうか。それで?」

 言いたくなかったが、応じないわけには・・。
なので、渋々言った。
 「30キロまでがやっとでした。リタイアです。
後は収容のバスで、戻りました。」

 すると、すかさず彼は楽しげに言った。
「30キロか。バスの中、男ばかりだったろう。」
 私が座った席の回りを思い浮かべてみた。
確かに、男ばかりだったように思えた。

 「言われてみれば、そうだったようです。」
「そうなんだよ。
そこまで行ったら、女は絶対に諦めないんだ。
 後12キロさ。倒れるまで頑張って走るんだ。女は!
そして、最後はゴールするんだ。
 男とは根性が違うんだよ。すごいよ。」

 自信にあふれた彼の言いっぷりもあるが、
私は、何故か納得した。
 そして、「その根性がほしい!」
と、叫びたくなった。 




  春が来た 春が ルンルン

     ※ 次回のブログ更新は5月9日(土)の予定です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ランニングコースのあの人は

2020-03-21 15:23:04 | 出会い
 ▼ 春らしい陽差しに誘われ、
数日ぶりに、すっかり雪が消えた道を走った。
 10キロを1時間少々かけて、自宅付近まで戻ってきた。
11時を回っていただろうか。
 歩道の向こうから、ランドセルを背負い、
両手に手さげカバンを持った少年が歩いて来た。

 3,4年生くらいに思えた。
近づいた頃合いをみて、声をかけた。
 「学校へ、行ってきたの?」。
コロナで休校中だが、伊達では分散登校が始まっていた。

 走ってきたランナーから突然声がかかり、
少年は驚いた表情をした。
 もう一度、同じことを言った。
「学校へ、行ってきたの?」。
 今度は、分かったようで、
「ウン」とうなずいてくれた。

 すかさず私は続けた。
「よかったね!」。
 それは、思わず出た言葉だったが、
その少年はすぐに反応した。

 「ウ~ン!!」。
はずむような明るい声だった。
 いつまでも心に響いた。
 
 一瞬のすれ違い。
しかも、初めて言葉を交わした少年の、わずかな仕草だ。
 それでも今の子どもの心情を感じ、胸が痛んだ。 

 ▼ そんな折り、東京都墨田区教育委員会が出したメッセージを知った。
まずは転記する。
 
 『      墨田区の子どもたちへ
   学校がおやすみになり2週間が過ぎました。
   今回のお休みは、皆さんの体を感染から守るだけでなく、皆さんを
  通して、ほかの人へとウィルスが広がることも防ぐための重要な取り
  組みです。
   皆さんの我慢や頑張りが、皆さんにとって大切な人たちの命を守る
  ことにつながるのです。
   皆さんは、このお休みの意味をよく考え、感染予防のために、手洗
  いやうがいをしっかりして、外にもあまり出ずに、規則正しい生活を
  していることでしょう。
   でも、毎日、テレビや新聞で報道されている、コロナウィルス感染
  のニュースを見て、いつから学校で勉強ができるのか、不安に思って
  いる人もいるでしょう。
   毎日、顔を合わせていた友達や先生とも会えずに、寂しい思いもし
  ているでしょう。特に、卒業を迎える小学校6年生、中学校3年生の
  皆さんは、それぞれの学校生活の最後の思い出を作る機会がなくなっ
  てしまい、本当に残念な思いをしているのだと思います。
   お休みの間の長い時間の、いやな面、困った面を見るだけでなく、
  今だからこそできることや、良い面にも目を向けてみましょう。
   お休みの日々を大切に過ごして、皆さんが登校するときに、先生や
  友達と元気に会えることを願っています。
               令和2年3月 墨田区教育委員会   』

 一読し、熱いものを感じた。
メッセージの全てが、今の子ども達の境遇に寄り添っていた。
 学校へ行けない日々の寂しさ、コロナ感染への不安を察し、
その上で、自分自身と大切な人の命を守るための今だと、
優しく訴えかけていた。

 本来、なんとしても守るべき子ども達へ、
大人として精一杯誠実に、
送り届けたメッセージだと思えた。

 これを読んだ墨田区の多くの子は、
改めて資するものがあったに違いない。
 そう信じることができた。
私も一緒に頑張ろうと思った。
 
 ▼ さて、話題を変える。
伊達では総合体育館の閉鎖が続いている。
 冬季は、そこの2階ランニングコースをよく利用する。

 このコースでは、私と家内のように冬季のみの利用ではなく、
年間を通して汗を流している市民も少なくない。

 そんな方々の何人かとは、顔馴染みになり、
近況など言葉を交えることがしばしばあった。

 そこで体を動かす機会を失った方々の、
今が気になっている。

 ▼その女性とは、それまで数回挨拶をした程度だった。
それは、突然の申し込みだった。
 「いつも歩いているばかりなんですけど、
後ろからついて走ってみてもいいかしら。」
  
 「どうぞ、どうぞ。」
私も家内も、伴走者の出現を喜んだ。

 その後、走りながらのやりとりだったが、
長距離を走った経験がないこと、
いつも走っている私たちを見て、
走りたくなったこと、
機会をみて、声をかけようと決めていたことが分かった。

 私たちより一回り以上若い彼女は、
後ろからすいすいと走り、
1周200メートルを10回まわり、
「2キロも走れた。嬉しい!」
と声にし、その後はウオーキングに切り替えた。

 そして、出会う度に
「一人じゃ走れないので、付いていっていいですか。」
笑顔で同意を求めてきた。

 楽しく一緒に走った。
10周が、やがて15周、20周へと伸びた。
 そこで、コロナ騒動になってしまった。

 ▼ 私よりやや若い、その男性の姿をはじめて見たのは、
昨年の冬だった。

 ランニングと言っても、私と家内よりも遅い。
体育館のコースで、私たちが追い抜ける貴重な方だった。

 「後ろ、付いていってもいいかい。」
気さくに声をかけ、時折、私たちの後を追って走った。
 それでも、2,3周もすると、
付いて来れなくなり、音を上げた。

 ところが、今年の冬は違った。
走るフェームからスッとしていた。
 速さも別人だった。

 走りながら、言葉を交わした。
「いや、久しぶりですが、
走り方がいいですね。スピードもあってすごい。」
 衰える私の走りと比較し、心中は穏やかでなかったが、
素直に気持ちを伝えた。

 「そうかい。そう言ってもらって嬉しいわ。」
彼は、そう言いながら私の後を軽々と走った。

 「俺、脳梗塞で倒れてさ。
ようやく命があったんだ。
 助けてくれた先生が、運動するといい、
走るのもいいっていうから、やってるんだ。」
 そんな大病の後とは、想像もしなかった。

 思わず訊いた。
 「後遺症は、なかったんですか。」
「少し言葉がだめなんだ。」
 「気になりませんが・・・。」
「いや、こうしてしべっているとすごく疲れるんだ。」

 それから、何周かを一緒に走り、
「お先に」と、彼はコースから外れた。
  
 そして、別れ際に言い残した。
「また明日も頑張るさ。
2,3日、間を開けると辛くなるからさ」。
 その直後の、閉館になった。
走らない日が、きっと続いているに違いない。

 ▼ 私より2歳年上のその男性は、
午前中なら必ず総合体育館にいた。
 ランニングコースでなければ、
1階フロアーで,何人もの仲間とソフトテニスをしていた。

 挨拶や言葉を交わすようになって、
もう4年にもなるだろうか。
 気さくな人柄が、好きだった。

 この冬は、昨年よりランニングする姿をよく見かけた。
それも、軽快な走り方に目を見張った。
 年齢を感じさせないスタミナにも驚いていた。

 洞爺湖マラソンのエントリー受付が始まった。
彼も、毎年、フルマラソンにチャレンジしていた。
 「もうエントリーしましたか。」
走りながら、声をかけてみた。

 すると、
「郵便局の振り込みで申し込もうと思ったら、
今年からその方法がなくなったんだって、
だからもう参加しないことにした。」
 彼は、あっけらかんとそう言った。

 ビックリして、私は応じた。
「私は、ネットで申し込みました。
追加できますよ。
 手間はかかりませんから、申し込みましょうか。」
「いや、いい。洞爺はもう止めた。」

 そう言いながら、彼の走りは私よりもスムーズだった。
「私よりもずっとずっといい走りなのに、
走らないんですか。
勿体ないですよ。」
 本当の気持ちだった。
しかし、すかさず彼は切り換えした。
 「嬉しいこと言うね。
冗談でも、その気になっちゃうよ・・・。
 その分、伊達ハーフで頑張るさ。」

 それから数日後、
伊達ハーフマラソンの中止も発表になった。
  
 

    山深い牧場の 早春 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戸別訪問 ・ ・ ・ !?

2018-10-20 15:01:11 | 出会い
 それは、8月中旬のこと。
自宅に1本の電話がきた。

 同じ自治会で、顔馴染みになった方から、
「頼まれてほしいことがあるんですが・・」。
 そんな言い出しだった。

 その頼み事とは、
 ・市役所が人探しをしている。
 ・私も頼まれたが、他に引き受け手が中々いない。
 ・そんな難しいことではない。
 ・決められた地区の住宅を見て回って、調査を依頼する。
だいだい、そんな内容だった。

 「なぜ私なの?」
そんなことより、
「引き受け手がいない。」ことに心が動いた。
 さほど面倒な仕事でもないように思えたので、
「私でもできるのなら・・。」
と、お引き受けした。

 数日後、市役所の担当から、
依頼文が届き、一緒に手続き書類の提出が求められた。
 顔写真と共に必要な記載をし、返送した。

 それにしても、久しぶりに目にした行政の文書は、
分かりやすいようで分かりにくいと、感じた。

 10日程置いて、仕事内容の説明会があった。
5年に1度、全国一斉の統計調査だとか。
 市から委託を受けた50人を越える調査員が集まっていた。

 説明は、VTRとパワーポイントを使い、
しっかりと事前準備がされ、行き届いたものだった。
 後は、その場で配られた大小4種類のマニュアルに目を通せば、
理解できると思った。

 今、振り返ると、難しい事は何一つなかった。
しかし、未経験による不安は、年令に関係なかった。
 
 説明会と、マニュアルの読み取りで仕事のおおよそは分かった。
なのに、それが正しい理解かどうか、確信が持てなかった。

 それでも、まず第1ステップが始まった。
調査のお知らせを記したチラシを、
担当地区約150軒の自宅郵便受けに投函するのだ。

 調査員であることを証明する顔写真入りの名札を下げて、
一軒一軒の自宅に、チラシを配布する。

 私は、自宅からやや離れた地区の担当だった。
担当地区には、空き家もあった。アパートもあった。
建築中の住居も、二世帯住宅も、長屋も、いろいろだった。

 あるお宅では、お主人が庭の手入れをしていた。
名札を示しながら、チラシを手渡しした。
 調査は、全世帯ではなく、数軒に1軒の抽出調査だと伝えた。

 「じゃ、当たらないといいけど・・」
「そうですね。でも、当たった時はよろしくお願いします。」
 「その時は、仕方ないよ・・。」
 何気ないやり取りだが、
私が知っている伊達の人と同じ空気感にホッとした。 

 そして、また1人。
 「5年に1度だったか。
ウチは、この前もその前もやったよ。
あれって、どうやって決めてるの。」
 「抽出方法まで、私たちに説明がないので・・」
口ごもる私に、
「いいんだ。いいんだ。
ちょっと言ってみただけだから・・。」

 「案ずるより・・・」だ。
第1ステップは、そんな人の良さに触れながら、
順調にクリアーした。
 
 それから、約2週間後、
市役所の担当から送られた書類には、
30数軒の抽出家屋が明示されていた。

 第2ステップへ進んだ。
抽出されたお宅を戸別訪問するのだ。
 そして、自宅と土地の統計調査をお願いする段取りだ。

 調査票の質問事項に回答する方法と、
インターネットで応じる方法があった。
 統計調査の趣旨と一緒に、調査方法を説明する。

 突然の訪問である。
できるだけ手短で分かりやすい説明を心がけた。

 まずは、訪問宅のインターホンを押す。
応答があると、胸の名札をかざして言う。

 「こんにちは、私は、
国が行っております住宅と土地の統計調査の調査員、
塚原と申します。
 本日は、その調査のお願いに伺いました。」
マニュアル通りを少し明るい口調で伝える。

 「はーい!」
すぐに玄関扉を開けてくれるお宅もある。

 インターホン越しに説明を求め、
「抽出なら、他の家にお願いして・・」
と、言うお宅もある。
 それでも、丁寧に説明すると、
調査票を受け取り、回答を約束してくれた。

 「すみません。もしも変な人ならと、
失礼な口の利き方をして・・・」
 帰り際に、そんな言葉をくれた主婦もした。

 そして、庭でご主人にチラシを渡したお宅も抽出されていた。
インターホンを押し、名札をかざすなり、
突然、聞き覚えのある声が、
 「あれ、ウチ、当たり。そうか、玄関、入って。」
私を快く迎えてくれた。

 一通り調査方法を説明し終えると、
「あれから少し間があったから、
ウチは当たらなかったと思っていたよ。」
 私は、小さく頭を下げた。
「いいんだよ、やり方がわかったから、大丈夫。
ご苦労さんです。」
 笑顔で、見送ってくれた。

 突然の訪問なのに、好意的なお宅が多かった。
初めてのお宅ばかり、そこへの戸別訪問である。

 引き受けたことと言えども、若干気が重かった。
各家の反応が、予測できなかった。
 その分、気を張って、インターホンを押した。
だが、意外だった。
 親しみある応対に、私の気持ちは、軽くなっていった。

 しかし、その日は、おおよそ半数のお宅が留守のようで、
反応がなかった。

 翌日は、休日だ。
午前と午後、2回訪問しようと決めた。
 留守のお宅には、市が用意した訪問の趣旨を書いた置き手紙を、
郵便受けに差し入れることにした。
 その日を終えて、残りが7軒になった。

 次の日、9時前をねらって、訪問してみた。
どこのお宅も、置き手紙が郵便受けにそのままになっていた。

 留守が続いているのか、それとも調査への非協力の意思表示なのか。
ここでも未経験が、不安を駆り立てた。

 それでも、夕方、やや遅い時間帯に再訪問をした。
4軒のお宅が、応対してくれた。

 気をもむことはなかった。
たまたま留守の時に、私が訪ねただけだった。
 「締め切り日までに、回答します。」
どこでも、快諾してくれた。

 また次の日、今度は昼時に、
残りの3軒を訪ねてみた。
 1軒目は、インターホンに応答があった。
「すみません。旅行から今朝帰ったので・・。」
 ホッとしながら、調査依頼をした。 

 2軒目は、2度、3度とインターホンを押してもダメだった。
あきらめかけた時、弱々しい声で、「ハイ」と聞こえた。
 私は、マニュアル通りの自己紹介をした。

 すると、「2日前から、妻も私も、風邪で伏せてまして・・。」
一緒に、咳き込む声も聞こえてきた。

 「じゃ、後日また伺わせて下さい。」
そう言う私に、ご主人は「短い時間で済むなら・・」と、
応じてくれた。

 私は、玄関先で、本当に手短に説明し、調査票を渡した。
そして、期日までに郵送してくれる返事を頂き、玄関のノブを握った。
 その時だ。
奥の間に居らしたのか、奥さんの声が飛んできた。
 「あのう、お帰りになりましたら、
必ずうがいをしてくださいね。
 風邪移ったら大変ですから。」
「わかりました。ありがとうございます。」
 玄関戸を閉めながら、私はぬくまっていた。

 残りの1軒だが、その後もくり返し訪ねてみたが、応答がなかった。
仕方なく、手書きの手紙を添えて関係書類を郵便受けに入れた。
 後日、分かったが、そのお宅も期日までに、調査回答を返送してくれた。

 最後の第3ステップは、
期日までに回答のなかったお宅への再訪問だった。
 「今からでも、お願いします。」
4軒ほど訪ねた。
 どこも、ちょっとした手違いで、すぐに応じてくれた。

 結びになるが、古い話だ。
大学に入学してすぐ、家庭教師のアルバイトをしようと、
学校周辺を、1人で戸別訪問した経験がある。
 それ以来の『戸別訪問』だった。

 “少しの不安感と緊張感を秘めながら”は当時と同じだった。
しかし、今回は、初対面ばかりなのに、
親しみや温もり、そして誠意に出会えた。
 貴重な経験になった。



 
ご近所のお花畑 マリーゴールドがずっと花盛り 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ダッチャン』の パワー

2018-07-20 22:05:19 | 出会い
 ▼ 顧問をしている東京都小学校児童文化研究会では、
毎年『東京都小学校連合学芸会』を開催している。
 第54回になる今年は、12月20日(木)に、
オリンピック記念青少年総合センターカルチャー棟大ホールで、
行うことになっている。

 都内の区や市を代表し、8~10校の児童が舞台狭しと、
渾身の演技を披露する。
 毎回、演じる者、観る者、それぞれに感動がある。
学校内では得られない貴重な体験だ。
 多忙を極める学校であるが、
このような機会を決して絶やさず、今後も継続してほしいと願っている。

 さて、取り組み方に違いはあるが、大阪では
毎年2月に『大阪市こども演劇フェステイバル』が行われる。
 これは、私たちの研究会と繋がりが深い
「大阪市小学校学校劇と話し方研究会」と、
大阪市立こども文化センターが主催している。

 校長になってから、何度か大阪まで行った。
そして、大阪の子ども達が演じる劇に見入った。

 ある年、ベテランの女性教員が、司会進行をしていた。
大阪弁を巧みに遣い、会場を盛り上げていた。

 その上、参加者を明るい雰囲気に包みこむ秘策を、
彼女は持ち込んでいた。
 それは、なんとも愛らしい動物のつり人形だった。
 
 その人形を片手に彼女が登場するだけで、
会場は静まり、和やかな空気が流れた。
 つり人形の仕草が、すごくかわいい。それに目がいった。
そして、彼女の話にうち解け、みんな笑った。

 「素晴らしい」。
感激と共に、「これを取り入れたいなぁ。」と思った。

 ▼ その年の夏休みだった。
母の墓参りを済ませ、
その後、当時観光地として脚光を浴びていた小樽へ足を伸ばした。
 人で賑わうお土産屋街を歩いた。

 ある土産店の前で、呼び込みをする店員がいた。
何気なくその手元に目がいった。
 思わず声をあげそうになるくらいだ。

 両手に、ダチョウの子どもと小さなラクダのつり人形を、
ぶら下げていた。
 思わず駆けより、店員に言った。
「そのつり人形、ほしい!」

 大阪で司会の女性が手にして人形とは違う。
でも、愛らしさは負けてなかった。
 きっとその店員が愛用している人形に違いない。
私は、旅のついでとばかり、無理を承知で店員に頼んだ。

 店員は、人形をあやつりながら、あっさりと応じた。
「店の階段を2階まで上がったところの左棚にあります。
まだ、1つか2つなら残っていると思いますよ。」
 「売っているの!?」

 人をかき分けるようにして店に入った。
階段を駆け上がり、左の棚を探した。
 店員が動かしていたダチョウとラクダが一体ずつ、
それぞれビニール袋に収まっていた。

 高価でも構わないと思った。
でも、私の小遣いで買えた。

 ホテルに戻るとすぐに、人形を動かしてみた。
ダチョウは二本足だった。
 その足1本ずつと頭、計3本の糸でつながれていた。
ラクダは、4本の足と頭、計5本の糸だった。

 ダチョウは、すぐに思うように動いてくれた。
しかし、ラクダは、練習を重ねても、うまくいかない。
 5本糸には、ほとほと手をやいた。

 ▼ 夏休みが終わってすぐ、全校朝会があった。
「夏休み中に、素敵な出逢いがありました。
1日も早く皆さんに紹介したくて、この日を待っていました。」

 そう言い終えると、私は一度朝礼台を降りた。
そして、ダチョウの子どものつり人形を手にして、
再び登壇した。

 全校児童の目が、ダチョウの子どもに注がれた。
いつもは、無言で私の話を待つ子たちだが、
あちこちで指を差しながら、ひそひそ話を始めた。
 校庭のザワザワがしばらく続いた。
 
 何も言わず、壇上で、つり人形の足や頭を動かした。
シーンと静まり、全員の目が人形に注がれた。

 「ダチョウの子どもです。かわいいでしょう。
これからは、時々こうして皆さんの前に登場します。
 そこで皆さんにお願いがあります。
この子に名前をつけてください。」

 校長室の前にポストを置いた。
1週間を区切って、名前を公募した。
 毎日、10枚ほどの名前が投函された。

 複数枚だが同じ名前カードが、2種類あった。
『ダーちゃん』と『ダッチャン』だった。

 次週の全校朝会で2つの名前から1つを決めることにした。
「みんなの拍手が、大きかった方にします。」
 結果は、「ダッチャン」が圧倒した。
こうして、ダチョウの子どものつり人形に名前がついた。

 その年の秋、学芸会があった。
私は、ダッチャンをつれて、校長あいさつの舞台に上った。
 ダッチャンは、中央のマイクまで歩いて、私に着いてきた。
子どもからも保護者からも、大きな拍手と歓声があった。

 「ダッチャンも、みんなの劇を見て、
すごいすごいって声を上げていたよ。」
 そう言うだけで、子ども達の表情が輝いた。
保護者も笑顔笑顔になった。
 会場が沸いた。
ダッチャンは、一気に人気者になった。



 一方、ラクダのつり人形だが、練習の甲斐なく、
うまく動かすことができなかった。
 ずっと自宅の押し入れの中となった。

 ▼ 翌年、幼稚園が併設されている小学校へ異動になった。
4歳児と5歳児が通う幼稚園の園長を初めて兼任した。

 すべてに戸惑った。
まずは入園式だ。
 今までその式に列席したこともなかった。
園長としての挨拶がある。イメージがなかった。

 ダッチャンの力を借りることにした。
まずは、小学校の入学式同様、
最初に来賓への謝意と保護者への祝意を伝えた。
 その後は、入園児へのお祝いの言葉。

 「みなさん、こんにちは。
園長先生です。今日からみなさんはサクラ組さんです。
 楽しい楽しい幼稚園での毎日が、始まりました。
ご入園、おめでとうございます。
 みなさんの入園をお祝いして、お家の方やお客様も来ています。
嬉しいですね、
 実は、私のお友達も、みなさんのお祝いに来ました。」

 そこまで話して、私は演台の下から、
ダッチャンを取りだし、前へ進んだ。
 ダッチャンは、私と一緒に歩き、園児たちの前に立った。

 最初に、歓声を上げたのは、保護者と来賓だった。
そして、年長の園児、先生たちと続いた。
 入園児は、黙って見つめていた。

 ダッチャンは、
「仲よくしようね。」「ケンカはダメ。」
「名前を呼ばれたら、ハイだよ。」
と私を通して話した。
 その後は、私と一緒に園長席に戻った。

 翌日から、ダッチャンは幼稚園の人気者になった。
「今度は、いつ会えるの?」
 園児達から質問攻めにあった。

 そこで、次のことを思いついた。
幼稚園では毎月、『お誕生日会』がある。
 その時、ダッチャンが登場して、
お誕生日の子、一人一人と握手をするのだ。

 園児達は、自分の誕生日会を心待ちするようになった。
そして、ダッチャンが手(足)を差し出し、
握手してくれる時を、ワクワクしながら待った。
 
 その後の私は、ダッチャンのパワーを機会あるごとに借り、
小学校と幼稚園での日々を過ごした。

  



    小さな川べりに咲いていた
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

方言 あれこれ

2017-04-14 22:50:02 | 出会い
 伊達も、ようやく春。
この時期になると、
朝のジョギングも少し明るい気分になる。
 私一人ではもったいない。
家内を誘うことが多くなった。

 つい先日、二人並走して、
いつもの農道へかけ上がった。

 このブログに何回か登場した愛犬と一緒に散歩する彼に、
(私はその方を『サンダルに片手ポケット』と勝手に言っている)
出会った。

 その方は、朝のあいさつと一緒に、
必ず短いひと言をくれる。
 その朝は、久しぶりに家内を見たからだろう。
こんな声が飛んできた。

「母さん、ゆるくないなぁ。」

 私は、一瞬、その言葉がのみ込めなかった。
家内も無反応だった。

 すぐに二の矢がきた。
「たいへんだなってこと。」
 そうだった。
「ハーイ!」
 走りながら、家内が素早く応じた。

 有珠山と昭和新山を背景にした春、
早朝の伊達でのワンカットである。
 
 しかし、『ゆるくない。』とは、
久しぶりに聞いた北海道言葉だ。
 地元でしか耳にできないが、
私の感覚にピッタリくる。

 さて、方言の話題である。
小学生の頃、担任の先生が教えてくれた。
 「私たちの北海道は、
昔、日本全国から人々が集まってきました。
 なので色々な地方の言葉が混ざり合ったので、
東京の言葉と同じになったんですよ。」

 私は、北海道の大学を卒業して、
すぐに東京の小学校に赴任した。
 だから、言葉遣いだけは、心配していなかった。

 なのに、北海道にも方言があることを、
すぐに気づかされた。

 体育の準備運動で、校庭を3周走った子ども達に、
「こわいか?」と尋ねた。
 首を横にふるのを見て、もう3周走らせたことは、
以前、このブログに書いた。

 私にも方言があると痛感したが、
どれがそれかは曖昧だった。
 それにともなった失敗エピソードは、数々あった。

 ある時、熊本出身の先輩教員と、
そんな失敗談で盛り上がった。

  ◆ まずは、私から語る。

 新米先生の初日だ。5年生の担任だった。
すぐに大掃除があった。

 元気のいいY君が、みんなに声をかけながら箒で、
ゴミを集めて、ゴミ箱に入れた。

 「それじゃY君、そのゴミ、なげてきて。」
今日初めて顔を合わせた先生からの、声かけである。
 明るかったY君の表情が、一変した。

 「どこから、なげるんですか?…屋上…か…ら…。」
私を向いたその声は、次第に小さくなっていた。

 私は、明るい声で応じた。
「何言ってるんだよ。焼却炉に決まってるだろう。」

 ごみ箱をかかえたまま、
Y君は大の仲良しのF君の耳元で、ささやいた。
 「焼却炉から、投げるのか。」
「そんな…、違うと思うけど……。」

 2人は、ゴミ箱を持って、そっと教室を出て、
隣の教室の先生の所へ行った。

 しばらくして2人は、空のゴミ箱をもって、
笑顔で戻ってきた。
 「ゴミ、投げてこいって言うから、
本当に投げるのかと思ったよな。」
「ビックリしたよなぁ。」

 「そうか、ゴミはなげるじゃなくて、捨てるなんだ。」
私は、2人に明るく詫びた。
 2人は、ニコニコしていた。
ホッとした。

  ◆ 次は、熊本出身の先輩だ。

 これまた先輩が新米先生の頃だ。
まず1つ目。

 彼は、椅子に腰を下ろす時、必ず「どっ!」と短く言った。
また、反対に腰を上げる時も、
「どっ!」と短く声を発した。

 その「どっ!」は、
彼が生まれ育った熊本のその地方では、
正座やあぐらでも、椅子でも、必ずそう言って、
座り、立ち上がるのだと言う。

 彼には、ごく普通のこと。
誰もがそう言っていると思っていた。
 だから、教室でも「どっ!」と発して、
座ったり、立ったりしていた。

 ある日、女の子が不思議そうに訊いた。
「先生、『どっ!』ってなんですか。」

 彼は、一瞬混乱した。しかし、
「だって、座ったり立ったりするでしょう。
だから『どっ!』って。」
 女の子は、困った顔のまま、その場を去った。

 その表情が気に留まった。
教室の子ども達を注意して見た。
 誰も「どっ!」などと言ってなかった。

 職員室の先生方を注視した。
みんな、無言のまま座り、無言のまま立った。
 「どっ!」と言って、平然としていたことに赤面した。

 数年後、彼は、同郷の方と結婚した。
奥様は今も、家庭では「どっ!」と言っているとか。
 それが座ったり立ったりする時には、
シックリいくと彼も言う。

 理解できそうだが、
なんとなく滑稽に思うのは失礼なことだろうか・・。

 先輩の2つ目は、『あとぜき』である。

 熊本を代表する方言のようだ。
先輩から聞くまで、『あとぜき』など耳にしたことがなかった。

 先輩が小中学生の頃、学校の生活目標として、
『あとぜき』の4文字は、
教室や廊下にたびたび掲示された。
 この4文字で、目標の意味は十分に理解できたそうだ。

 謎解きのような話であった。
熊本で『あとぜき』と言えば、それは、
「出入りのため開けた扉は、最後まできちんと閉めること」
を意味なのだ。

 「ちゃんとあとぜきせんかい!」
こんな遣い方をする。
 先輩は、その言葉で扉の開閉をしつけられた。

 だから、東京で教員になって、
なんのためらいもなく遣った。

教室のドアを開けたまま、廊下に飛び出した子に、
大きな声で言った。
 「あとぜき!」

 その声はどの子に向けらたのか。
何を意味しているのか。誰にも理解できなかった。
 廊下に出た子も、教室にいた子ども達も、
何事もなかったかのような態度のままだった。

 先輩は、その反応に違和感を覚えた。
そして、「もしかして、『あとぜき』は方言か・・?!」
 ぼう然としたまま、目を丸くした。

 さて、『あとぜき』に限らず、
方言には、独特の意味合いや利便性がある。

 なので、方言を標準語に直訳するのはなかなか難しい。
それでも、いくつかの北海道の方言を標準語にして、終わる。

 ・おばんです = 今晩は
 ・はっちゃきこく = 一生懸命やる
 ・ぺったらこい = たいら、ひらたい
 ・みったくない = みっともない
 ・あずましくない = おちつかない、居心地がよくない
 ・はんかくさい = ばかみたい
 ・もちょこい = くすぐったい
 ・だはんこく = 駄々をこねる
 ・じょっぴんかる = 鍵をかける、戸締まりをする
 ・こてんぱ = さんざん
 ・げれっぱ = 一番びり
 ・なんもさ = どうと言うことはない





エゾノリュウキンカ≪だて歴史の杜・野草園≫ 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする