つい先日、食文化研究家である長山久夫氏の、
エッセイに目がとまった。
『覚悟を決めた日』と題するそれは、
3.11の体験を記したものだった。
その時、氏は江東区お台場近くの大きな病院にいた。
そこから西武線練馬駅近くの自宅まで帰宅するのだが、
その間の様々な混乱を語っている。
そして、結びでこう述べた。
「巨大地震はいつおこるか分からない。
何かあった時、頼りになるのは自前の筋肉と直感力しかない。
歳も関係ない。
災害時にはまわりの人だって命がけなのだから、
自力でピンチを脱出するしかない。……」
氏の教訓に、同感である。
同時に、5年前のあの日、東京にいた私を思い出す。
当時、私は、校長職のカウントダウンをしていた。
卒業式まで2週間、退職まで3週間を残すだけだった。
その日も、5校時が終わり、
帰りの会そして下校時間へと移っていた。
「今日も無事終わる。」
気持ちが若干緩んだ時だった。
突然、職員室の緊急地震速報が鳴りだした。
「副校長さん、放送入れて。」と、叫んだ。
「緊急放送、地震です。地震です。
すぐに、机の下にもぐりなさい。」
その放送が、終わらないうちに、
校舎は、グラグラと揺れだした。
私は、校長室に備えてあるヘルメットをかぶり、
次第に大きくなる揺れの中で、
「もう少しで退職なのに、間が悪い。」
そんな思いが心をよぎった。
次第次第に揺れは激しくなる。ピークが分からない。
「これ以上大きくなると、子どもが危い。」
そんな危機感に襲われた時、揺れが止まった。
ここからは、月1回実施してきた避難訓練が生かされる。
『訓練は実際のように、実際は訓練のように。』
私は、訓練のたびに、そうくり返し言い続けてきた。
訓練のように、整然と校庭避難が行われた。
私の願いは、間違いなく浸透していたと思った。
校庭で、子どもの安全確認と今後の安全確保へと進んだ。
各担任から副校長に報告があり、集約が進んだ。
副校長と一緒に担任2人が、
少し緊張した表情で私のところに来た。
2人は低学年の担任だった。
地震発生数分前に、子ども達を下校させたとのことだった。
おそらく、下校途中で地震に見舞われている。
「だから、子どもの安全確認ができません。
下校させてしまい、すみません。」
と、顔色を失っていた。
避難訓練にはない事態である。
でも、私は、すぐに応じた。
「それはしかたない。無事に家に着いたか。
どうしているか。電話連絡をしなさい。」
その後、2人には電話確認ができない子どもへ、
自転車をとばし、家庭訪問をさせた。
近くの大人に手助けを受けた子もいたが、
2時間後、2学級とも全員の安全が確認できた。
さて、その間、校内では様々な対応に追われた。
第一は、校庭避難をした子どものその後である。
私は迷った。
3月とは言えまだ東京の外気は冷たかった。
とりあえず、もう一度教室に戻し、下校準備をさせたかった。
ジャンパーやコートを着せてあげたかった。
でも、余震が心配だった。
これから先の避難行動は、すべて私の判断だった。
校庭で、両膝をかかえて座っている300余名の子ども。
経験のない恐怖の中でも、
一人一人が気丈にいることがよくわかった。
訓練のようにいる子ども達。
今こそ『外柔内剛』だと心に誓った。
案の定、大きな余震がきた。
小さな悲鳴が聞こえた。
私は、表情一つ変えずに、、
全児童と教職員の前に立っていた。
この事態に対する情報は、ほとんど届いてこない。
判断は、私自身の想いと直感力しかなかった。
校庭には、保護者の姿が徐々に増えた。
私は、集団下校ではなく、
保護者への引き渡しを選択し、職員に指示した。
下校後、一人、余震に震える子どもを想った。
頼れる大人の元に子どもをしっかりと託す道を、私は選んだ。
「ランドセルなどの下校準備は、保護者の皆さんに引き渡した後、
保護者の方と一緒に行うか、
校舎へは入らず、そのまま下校するかしてください。」
有能な副校長は、簡易拡声器でくり返し、それを保護者に伝えた。
1時間後、残った子どもが50名ほどになった。
いつでもすぐに校庭避難ができるよう、
校庭への出入口がある1階の教室で、
暖をとらせながら保護者の迎えを待たせた。
「学級の全員を引き渡すまで、
決して子どものそばから離れないように。」
私は、担任に強調した。
「今、子どもが一番寄り添える大人は、
担任以外にはいない。」
そんなメッセージを暗に伝えたかった。
最後の子どもを保護者に渡したのは、
深夜12時を回っていた。
保護者は、仕事先の新宿から混乱する都心を抜け、
徒歩で学校までたどり着いた。
それまで、泣き言一つ言わなかった3年生の女子だったが、
お母さんの顔を見るなり、
大声を張り上げて泣きだし、抱きついた。
「いくらでも、泣いていいよ。」
と、言いながら、
担任は何度もタオルで目頭を抑えていた。
たくさんの教職員で、親子の後ろ姿を見送った。
次に、第2の大きな対応であるが、、
それは、まだ保護者への引き渡しの真っただ中から始まった。、
区内小中学校を避難所とする決定が届いた。
災害時用の服装で区職員2人が、
分厚い災害時マニュアルの本を小脇に、学校に来た。
この本にあるからと、「避難場所はどこにしますか。」
と、突然私に訊いてきた。
2人は、体育館だと思っていたようだ。
しかし、私は戸惑いながらも、3月のこの時季、
暖房のない所での避難に抵抗があった。
体育館ではなく、1階の教室から順に、避難場所にすると答えた。
一瞬、「えっ」という顔を見せた。構わなかった。
電車は、いっこうに動く気配がなかった。
夕暮れとともに、徐々に学校を頼りにしてくる人が増えた。
急ぎ用意した避難者名簿に、50名を超える記載があった。
毛布2枚とペットボトルの水、缶詰の乾パンを配るよう指示した。
そんな時、若い女性から、声が届いた。
「男性の方と一緒に横になるのはいやだ。」と言う。
私は、急いで、男性用と女性用の避難教室を決め、
移動をお願いした。
すると、今度は、
「こんな時だから、一緒にいたい。」
と言う男女が現れた。
男女共用の避難教室も急いで設けた。
マニュアル本を片手に、目を丸くする区職員。
「いいんだよ。きっとマニュアルにはないけどね。」
と、肩を叩いた。
午後9時過ぎ、一気に80名の方が学校に来た。
近隣の大型店舗で、電車の再開通を待っていた人たちが、
閉店時間でしめ出された。
店内放送が、近くの小学校が避難所になっていると知らせた。
どの人の顔にも疲労があった。
みんなで協力し合い、迎え入れた。
その日、『帰宅難民』と呼ばれる方が、
150名以上不安な一夜を私たちと一緒に送った。
そして、多くの教職員が、その対応に献身的に当たった。
翌朝、電車が動きだすのと同時に、
学校から人々の姿がなくなった。
一夜を過ごした各教室の中央には、
毛布、ペットボトル、空き缶が、きれいに置かれていた。
お礼の言葉がなくても、私には伝わるものがあった。
教室に残されたそれらを、教職員と運びながら、
災害時用服装の区職員が、
「勉強になりました。」と、私に笑顔をくれた。
もう一度、長山久夫氏の言葉を拝借する。
『災害時には……自力でピンチを脱出するしかない。』
湿った雪が載ったジューンベリー
エッセイに目がとまった。
『覚悟を決めた日』と題するそれは、
3.11の体験を記したものだった。
その時、氏は江東区お台場近くの大きな病院にいた。
そこから西武線練馬駅近くの自宅まで帰宅するのだが、
その間の様々な混乱を語っている。
そして、結びでこう述べた。
「巨大地震はいつおこるか分からない。
何かあった時、頼りになるのは自前の筋肉と直感力しかない。
歳も関係ない。
災害時にはまわりの人だって命がけなのだから、
自力でピンチを脱出するしかない。……」
氏の教訓に、同感である。
同時に、5年前のあの日、東京にいた私を思い出す。
当時、私は、校長職のカウントダウンをしていた。
卒業式まで2週間、退職まで3週間を残すだけだった。
その日も、5校時が終わり、
帰りの会そして下校時間へと移っていた。
「今日も無事終わる。」
気持ちが若干緩んだ時だった。
突然、職員室の緊急地震速報が鳴りだした。
「副校長さん、放送入れて。」と、叫んだ。
「緊急放送、地震です。地震です。
すぐに、机の下にもぐりなさい。」
その放送が、終わらないうちに、
校舎は、グラグラと揺れだした。
私は、校長室に備えてあるヘルメットをかぶり、
次第に大きくなる揺れの中で、
「もう少しで退職なのに、間が悪い。」
そんな思いが心をよぎった。
次第次第に揺れは激しくなる。ピークが分からない。
「これ以上大きくなると、子どもが危い。」
そんな危機感に襲われた時、揺れが止まった。
ここからは、月1回実施してきた避難訓練が生かされる。
『訓練は実際のように、実際は訓練のように。』
私は、訓練のたびに、そうくり返し言い続けてきた。
訓練のように、整然と校庭避難が行われた。
私の願いは、間違いなく浸透していたと思った。
校庭で、子どもの安全確認と今後の安全確保へと進んだ。
各担任から副校長に報告があり、集約が進んだ。
副校長と一緒に担任2人が、
少し緊張した表情で私のところに来た。
2人は低学年の担任だった。
地震発生数分前に、子ども達を下校させたとのことだった。
おそらく、下校途中で地震に見舞われている。
「だから、子どもの安全確認ができません。
下校させてしまい、すみません。」
と、顔色を失っていた。
避難訓練にはない事態である。
でも、私は、すぐに応じた。
「それはしかたない。無事に家に着いたか。
どうしているか。電話連絡をしなさい。」
その後、2人には電話確認ができない子どもへ、
自転車をとばし、家庭訪問をさせた。
近くの大人に手助けを受けた子もいたが、
2時間後、2学級とも全員の安全が確認できた。
さて、その間、校内では様々な対応に追われた。
第一は、校庭避難をした子どものその後である。
私は迷った。
3月とは言えまだ東京の外気は冷たかった。
とりあえず、もう一度教室に戻し、下校準備をさせたかった。
ジャンパーやコートを着せてあげたかった。
でも、余震が心配だった。
これから先の避難行動は、すべて私の判断だった。
校庭で、両膝をかかえて座っている300余名の子ども。
経験のない恐怖の中でも、
一人一人が気丈にいることがよくわかった。
訓練のようにいる子ども達。
今こそ『外柔内剛』だと心に誓った。
案の定、大きな余震がきた。
小さな悲鳴が聞こえた。
私は、表情一つ変えずに、、
全児童と教職員の前に立っていた。
この事態に対する情報は、ほとんど届いてこない。
判断は、私自身の想いと直感力しかなかった。
校庭には、保護者の姿が徐々に増えた。
私は、集団下校ではなく、
保護者への引き渡しを選択し、職員に指示した。
下校後、一人、余震に震える子どもを想った。
頼れる大人の元に子どもをしっかりと託す道を、私は選んだ。
「ランドセルなどの下校準備は、保護者の皆さんに引き渡した後、
保護者の方と一緒に行うか、
校舎へは入らず、そのまま下校するかしてください。」
有能な副校長は、簡易拡声器でくり返し、それを保護者に伝えた。
1時間後、残った子どもが50名ほどになった。
いつでもすぐに校庭避難ができるよう、
校庭への出入口がある1階の教室で、
暖をとらせながら保護者の迎えを待たせた。
「学級の全員を引き渡すまで、
決して子どものそばから離れないように。」
私は、担任に強調した。
「今、子どもが一番寄り添える大人は、
担任以外にはいない。」
そんなメッセージを暗に伝えたかった。
最後の子どもを保護者に渡したのは、
深夜12時を回っていた。
保護者は、仕事先の新宿から混乱する都心を抜け、
徒歩で学校までたどり着いた。
それまで、泣き言一つ言わなかった3年生の女子だったが、
お母さんの顔を見るなり、
大声を張り上げて泣きだし、抱きついた。
「いくらでも、泣いていいよ。」
と、言いながら、
担任は何度もタオルで目頭を抑えていた。
たくさんの教職員で、親子の後ろ姿を見送った。
次に、第2の大きな対応であるが、、
それは、まだ保護者への引き渡しの真っただ中から始まった。、
区内小中学校を避難所とする決定が届いた。
災害時用の服装で区職員2人が、
分厚い災害時マニュアルの本を小脇に、学校に来た。
この本にあるからと、「避難場所はどこにしますか。」
と、突然私に訊いてきた。
2人は、体育館だと思っていたようだ。
しかし、私は戸惑いながらも、3月のこの時季、
暖房のない所での避難に抵抗があった。
体育館ではなく、1階の教室から順に、避難場所にすると答えた。
一瞬、「えっ」という顔を見せた。構わなかった。
電車は、いっこうに動く気配がなかった。
夕暮れとともに、徐々に学校を頼りにしてくる人が増えた。
急ぎ用意した避難者名簿に、50名を超える記載があった。
毛布2枚とペットボトルの水、缶詰の乾パンを配るよう指示した。
そんな時、若い女性から、声が届いた。
「男性の方と一緒に横になるのはいやだ。」と言う。
私は、急いで、男性用と女性用の避難教室を決め、
移動をお願いした。
すると、今度は、
「こんな時だから、一緒にいたい。」
と言う男女が現れた。
男女共用の避難教室も急いで設けた。
マニュアル本を片手に、目を丸くする区職員。
「いいんだよ。きっとマニュアルにはないけどね。」
と、肩を叩いた。
午後9時過ぎ、一気に80名の方が学校に来た。
近隣の大型店舗で、電車の再開通を待っていた人たちが、
閉店時間でしめ出された。
店内放送が、近くの小学校が避難所になっていると知らせた。
どの人の顔にも疲労があった。
みんなで協力し合い、迎え入れた。
その日、『帰宅難民』と呼ばれる方が、
150名以上不安な一夜を私たちと一緒に送った。
そして、多くの教職員が、その対応に献身的に当たった。
翌朝、電車が動きだすのと同時に、
学校から人々の姿がなくなった。
一夜を過ごした各教室の中央には、
毛布、ペットボトル、空き缶が、きれいに置かれていた。
お礼の言葉がなくても、私には伝わるものがあった。
教室に残されたそれらを、教職員と運びながら、
災害時用服装の区職員が、
「勉強になりました。」と、私に笑顔をくれた。
もう一度、長山久夫氏の言葉を拝借する。
『災害時には……自力でピンチを脱出するしかない。』
湿った雪が載ったジューンベリー