20年前のことになる。
まずは、当時のこんな一文から始める。
『昭和46年4月、私は東京都E区で教職の第一歩を踏みました。
以来、26年になりますが、この間、常に心がけてきたことは、
教育に対する情熱と児童愛をもって子どもの教育に当たることでした。
私はこの26年間、様々な子どもにめぐりあってまいりました。
その中で「教育の基本は児童理解に始まり、児童理解に戻る」
ことではないかと考えるようになりました。
そして、今では、それが私の信条になっております。
今、子どもの情況を見ますと、
まもなく訪れる21世紀の社会に不安を感じているのは、
私一人ではないように思います。
このような時だからこそ、私は、信条であります
「教育は児童理解に始まり、児童理解に戻る」ことを
学校経営の基本に据え、
子どもにどんな困難をも乗り越える力と
他を思いやる心を育てたいと考えております。
そのために、次の3点を教職員に求め、
学級経営や授業に生かすように、指導して参ります。
その第1は、子どものありのままの姿を理解すること、
そのことを指導の基本姿勢にすること。
第2に、子どもを決して否定することなく、
よさや可能性を伸ばす指導を徹底すること。
第3に、常に子どもの側に立った
支援・指導の工夫・改善に努め、その実践を継続すること。
最後になりますが、私は、学校のこのような努力する姿を、
家庭や地域社会に知らせることに心がけながら、連携に努め、
今後の学校教育にあたる所存です。
以上、私の紹介と校長になった場合の抱負と致します。』
その年、教頭であった私は、『校長選考』に挑戦していた。
第1次の「論文選考」を通過し、第2次の「面接」へ進んだ。
上記の1文は、その面接で求められる
「校長になった場合の抱負」を、
5分以内でスピーチする原稿である。
面接という『大事』へ向かう昼下がりの電車内で、
私は、この1文を何度も呟いていた。
面接会場は、有楽町駅で下車すると、
すぐの所だった。
それは、一駅前の東京駅から始まった。
私の乗った山手線から、沢山の人が降り、
何人かが乗り込んできた。
その中に、ガイドブックを片手にした、
大柄な外国人男女3人がいた。
空いた座席はなく、
3人は私の横の吊革につかまった。
何やら真剣な表情で、会話が続いていた。
私は、下車直前にもう一度と、例の一文を呟き始めた。
面接の冒頭でのスピーチである。
滑り出しが、面接の成否を決める気がしていた。
ブツブツと必死な私に、何の前触れもなく、
明るい笑顔の外国語が話しかけてきた。
その日、私は、まさに勝負服だった。
自前のスーツでも一番高価で気に入ったもの、
その上一目でブランド品とわかるネクタイをしていた。
自己評価は、ちょっとした『中年紳士』だった。
3人は、それを見て、話しかけたのだろうか。
言葉の響きから、何となく英語だとわかった。
しかし、相変わらずの
外国人アレルギー(昨年2月5日ブロクに記載)である。
サッパリ言っていることが分からなかった。
ビックリ顔で不安げな私に、
今度はややゆっくりとした英語が聞こえてきた。
3人は、とてもフレンドリーな笑顔で、
私を上からのぞき込んだ。
一瞬、私の周りのすべての時間が止まった。
私は様々なことを思った。
『東京暮らしも26年だが、
車内で外国人に声を掛けられたことなんてないのに。
なのに、こんな大事な日に。
それも、次で下車する間際に。
まったくもう…。
どうする? 無視しようか?
そうしたら、きっと引きずるなあ。
後悔したままだと、面接に集中できないかも。
どうしよう。
これは、大事の前の試金石だと思え。
どうなることか、とにかく何とか応じてみよう。』
私は、人差し指をかざし、
「ワンスモアー プリーズ!」と、言ってみた。
笑顔の男性が、少しだけかがんで、
さらにゆっくりとした言い方で話した。
その言葉の中から、「ゥエノ」だけが聞き取れた。
私は、すかざず「ウエノ? 上野?」と訊きかえした。
彼は晴れやかな表情で、
「ゥエノ、ゥエノ」と応じ、
そして、理解の出来ない英語を続けた。
それでも、上野へ行きたいんだと類推した。
その時丁度、電車は有楽町駅に滑り込んだ。
私は、即断した。
太い彼の腕をつかみ、「カモン!」と下車を促した。
驚きの表情で、彼は私に引っ張られホームに降りた。
2人も無言で下車した。
私は、そのまま彼の腕を持ち、
階段を下り、反対側のホームを上った。
「ネクスト、トキョーステーション。
カンダステーション。アキハバラ…。
オカチマチ…。ウエノステーション!」
指を折りながら、通じないと思いつつも、精一杯だった。
2度くり返し、駅名を連呼した。
3人は、ビックリした表情や戸惑いの顔をしながら、
顔を見合っていた。
すぐに電車が来た。
「プリーズ!」
乗り込むようにと、手でそのしぐさをすると、
パッと明るい表情に変わり、車両に乗り込んだ。
私は、ホームから「グッバイ」と手を振った。
ドアが閉じた。
3人は両手を合わせて小さく頭をさげた。
笑顔だった。
きっと、無事に上野まで行けるだろう。
そう確信した。
時計を見た。
まだ、面接時間までには余裕があった。
試金石を通過した。
胸を張って、面接会場に向かった。
5分間のスピーチ。
それは、驚くほどのできだったと思った。
数ヶ月後、合格の知らせを頂いた。
「大事」の前に、こんなことがあった。
近所の秋蒔き小麦の穂 こんなに成長
まずは、当時のこんな一文から始める。
『昭和46年4月、私は東京都E区で教職の第一歩を踏みました。
以来、26年になりますが、この間、常に心がけてきたことは、
教育に対する情熱と児童愛をもって子どもの教育に当たることでした。
私はこの26年間、様々な子どもにめぐりあってまいりました。
その中で「教育の基本は児童理解に始まり、児童理解に戻る」
ことではないかと考えるようになりました。
そして、今では、それが私の信条になっております。
今、子どもの情況を見ますと、
まもなく訪れる21世紀の社会に不安を感じているのは、
私一人ではないように思います。
このような時だからこそ、私は、信条であります
「教育は児童理解に始まり、児童理解に戻る」ことを
学校経営の基本に据え、
子どもにどんな困難をも乗り越える力と
他を思いやる心を育てたいと考えております。
そのために、次の3点を教職員に求め、
学級経営や授業に生かすように、指導して参ります。
その第1は、子どものありのままの姿を理解すること、
そのことを指導の基本姿勢にすること。
第2に、子どもを決して否定することなく、
よさや可能性を伸ばす指導を徹底すること。
第3に、常に子どもの側に立った
支援・指導の工夫・改善に努め、その実践を継続すること。
最後になりますが、私は、学校のこのような努力する姿を、
家庭や地域社会に知らせることに心がけながら、連携に努め、
今後の学校教育にあたる所存です。
以上、私の紹介と校長になった場合の抱負と致します。』
その年、教頭であった私は、『校長選考』に挑戦していた。
第1次の「論文選考」を通過し、第2次の「面接」へ進んだ。
上記の1文は、その面接で求められる
「校長になった場合の抱負」を、
5分以内でスピーチする原稿である。
面接という『大事』へ向かう昼下がりの電車内で、
私は、この1文を何度も呟いていた。
面接会場は、有楽町駅で下車すると、
すぐの所だった。
それは、一駅前の東京駅から始まった。
私の乗った山手線から、沢山の人が降り、
何人かが乗り込んできた。
その中に、ガイドブックを片手にした、
大柄な外国人男女3人がいた。
空いた座席はなく、
3人は私の横の吊革につかまった。
何やら真剣な表情で、会話が続いていた。
私は、下車直前にもう一度と、例の一文を呟き始めた。
面接の冒頭でのスピーチである。
滑り出しが、面接の成否を決める気がしていた。
ブツブツと必死な私に、何の前触れもなく、
明るい笑顔の外国語が話しかけてきた。
その日、私は、まさに勝負服だった。
自前のスーツでも一番高価で気に入ったもの、
その上一目でブランド品とわかるネクタイをしていた。
自己評価は、ちょっとした『中年紳士』だった。
3人は、それを見て、話しかけたのだろうか。
言葉の響きから、何となく英語だとわかった。
しかし、相変わらずの
外国人アレルギー(昨年2月5日ブロクに記載)である。
サッパリ言っていることが分からなかった。
ビックリ顔で不安げな私に、
今度はややゆっくりとした英語が聞こえてきた。
3人は、とてもフレンドリーな笑顔で、
私を上からのぞき込んだ。
一瞬、私の周りのすべての時間が止まった。
私は様々なことを思った。
『東京暮らしも26年だが、
車内で外国人に声を掛けられたことなんてないのに。
なのに、こんな大事な日に。
それも、次で下車する間際に。
まったくもう…。
どうする? 無視しようか?
そうしたら、きっと引きずるなあ。
後悔したままだと、面接に集中できないかも。
どうしよう。
これは、大事の前の試金石だと思え。
どうなることか、とにかく何とか応じてみよう。』
私は、人差し指をかざし、
「ワンスモアー プリーズ!」と、言ってみた。
笑顔の男性が、少しだけかがんで、
さらにゆっくりとした言い方で話した。
その言葉の中から、「ゥエノ」だけが聞き取れた。
私は、すかざず「ウエノ? 上野?」と訊きかえした。
彼は晴れやかな表情で、
「ゥエノ、ゥエノ」と応じ、
そして、理解の出来ない英語を続けた。
それでも、上野へ行きたいんだと類推した。
その時丁度、電車は有楽町駅に滑り込んだ。
私は、即断した。
太い彼の腕をつかみ、「カモン!」と下車を促した。
驚きの表情で、彼は私に引っ張られホームに降りた。
2人も無言で下車した。
私は、そのまま彼の腕を持ち、
階段を下り、反対側のホームを上った。
「ネクスト、トキョーステーション。
カンダステーション。アキハバラ…。
オカチマチ…。ウエノステーション!」
指を折りながら、通じないと思いつつも、精一杯だった。
2度くり返し、駅名を連呼した。
3人は、ビックリした表情や戸惑いの顔をしながら、
顔を見合っていた。
すぐに電車が来た。
「プリーズ!」
乗り込むようにと、手でそのしぐさをすると、
パッと明るい表情に変わり、車両に乗り込んだ。
私は、ホームから「グッバイ」と手を振った。
ドアが閉じた。
3人は両手を合わせて小さく頭をさげた。
笑顔だった。
きっと、無事に上野まで行けるだろう。
そう確信した。
時計を見た。
まだ、面接時間までには余裕があった。
試金石を通過した。
胸を張って、面接会場に向かった。
5分間のスピーチ。
それは、驚くほどのできだったと思った。
数ヶ月後、合格の知らせを頂いた。
「大事」の前に、こんなことがあった。
近所の秋蒔き小麦の穂 こんなに成長