ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

想いは 色あせることなく

2017-05-13 20:29:51 | 教育
 教職を離れて、丸5年が過ぎた。
現場を去った者として、できることは何か。
 毎日、奮闘する先生方の、
『後方支援』が少しでもできればと思いつつ、
その歩みは、欠落したままである。

 それでも、学校や子ども達への想いは、
色あせることなく、今も脈々と私の中にある。

 何気ない日々の中で、思い立ったことがある。
その2つを記す。


 1、未熟な実践から

 現職の実践を思い出し、その時々の1コマ1コマへの、
私の対応の是非を問い直すと、心が暗くなる。

 教職に生きた者の宿命だろう。
未熟な実践者だった自分の指導には、
弁解の余地がない。
 自責の念を抱くことがいくつもある。

 異年齢集団による交流活動が、まだ珍しかった頃だ。
1年生から6年生で班を作っての、
全校遠足が計画された。

 6年担任だった私は、学級で強調した。
「6年生がリーダーです。全員が班長か副班長になる。
楽しい遠足になるかどうかは、みんな次第ですよ。
 間違っても、迷子なんて出さないようにね。」

 体育館に、全校児童が集まって、
初めての顔合わせ会があった。
 始まってすぐ、私の学級の子が倒れた。
救急車で病院に運んだ。
 幸い、大事には至らなかった。

 後ほど、母親のひと言で、その原因が分かった。
「うちの子、今まで1度も、
班長なんてしたことがなかったんです。
 なので、朝から緊張していて・・。」

 全く気づいてやれなかった。
大きな負担を感じさせていたんだ。
 細やかな指導ができなかったことを恥じた。

 同様なことは、他にもある。

 学期ごとに、学級代表を決めていた頃だ。
学級会で、男女1名ずつの選出が議題になった。

 男子には、2名の推薦があった。
K君は、意欲満々だったが、
Y君は、それ程でもない様子だった。
 全員投票の結果、なんと大差でY君が選ばれた。

 学級代表といっても、さほど重要な役割はなかった。
全校集会などで、整列の先頭に立ったり、
時々は学級会等の司会をしたりした。

 なのに、学級代表になってからのY君は、
持ち前の明るさを次第になくしていった。

 個人面談での母親の話から、その訳が分かった。
「ぼくは、学級代表だから、
誰よりもキチンとしなければならないんだ。
 でも、忘れ物もする。廊下も時々走る。
ぼくは、学級代表なんかじゃない。」
 家では、そう言って暗い顔をしていたそうだ。

 Y君の気持ちに寄り添ってやれなかった。
どれだけ辛い思いで、学校生活を過ごしたことか。
 私の至らなさに、怒りを覚えた。
 
 このような未熟な指導は、計り知れない程ある。
しかし、これら数々の不十分な実践を通し、
私は、子ども達や保護者、同僚から多くのことを学んだ。
 そして、育ててもらった。

 満足な指導は、退職のその日まで、遂に実現できなかった。
それでも、反省ばかりの実践を糧に、
私は教師としての階段を、1つ1つ上ったと思う。
 教職の道とは、そんな歩みなのではなかろうか。


 2 新聞記事から

 朝日新聞の3月13日『天声人語』に、
しばらく心が冷えた。

 その内容は、昆虫写真家・山口進さんの、
仕事ぶりと功績の紹介だった。
 コラムは、こう締めくくっている。

 『▼約40年にわたり「ジャポニカ学習帳」の表紙を
飾ってきた虫や花の写真も、山口さんの作品である。
しかしここ数年は「気持ち悪い」という声に押され、
虫の写真はなくなった。
一部の復刻版を除き、花だけである
▼「子どもは虫が好きだと思う。
でも先生や親に苦手な人が増えているのでしょう」
と残念そうだ。
昆虫を入り口に、自然や科学へと目が開かれる。
そんな道はこれから細くなってしまうのだろうか。』

 学級全員のノートを集め、点検をした。
特に、男子の表紙に、虫の写真が多かった。

 バッタの眼光に、たくましい生命力を感じた子。
チョウチョウの羽根模様に、綺麗な自然美を知った子。

 一人一人のノートの内容をよそに、
表紙の写真で、
どれだけ子ども達との会話が弾んだか。

 今、その場面が教室にはない。
豊かなはずの学校教育が、
痩せていくようで、切ない。

 そんなことへの警告と思えるコラムが他にもあった。
5月5日・こどもの日の「折々のことば」である。

 『だいたい子どもというものは、「親の目の届
 かないところ」で育っていくんです。
                 河合隼雄
   これに「先生の目が届かないところで」
  もつけ加えたい。子供の自治が成り立つ場
  が今、社会のあちこちに埋め込まれている
  か? 子供は仲間とともに、ときに少々怖
  い目にもあいつつ、してよいことといけな
  いこと、どこまで人を頼りにできるかを学
  ぶ。これに親が信頼感をもてるかどうかに
  子供の成長は懸かっていると、臨床心理家
  は言う。「Q&Aこころの子育て」から。』

 いじめが、依然として大きな教育課題のままである。
いじめによる自殺が、最近のニュースから消えることはない。

 学校では、「いじめのサインを見逃すな!」の声が、
くり返される。
 いじめが問題化する前に、
いじめが起こらない指導の重要性が強調される。

 そのため先生方は、片時も教室を離れない。
注意を怠らず、過干渉かとも思えるほど、
指導と称した指示・助言が次々と飛ぶ。

 “子供は、目の届かないところで育っていく。”
そのような子育ての真理など、どこかに置き忘れているようだ。

 久しぶりに高学年を担任したベテランがいた。
その先生は、明るく楽しい学級にしたいと心を砕いた。
 自分の思い描いた学級、授業、子ども達なら、
決していじめも学級崩壊もない。
 楽しい日々が来ると信じた。

 だから、「こんなことをしようね。」「今はこうしましょう。」
「決してこのようなことはしないでね。」
次々と自分の思い描いたことを、くり返した。

 当初、担任の思いに、
精一杯応えようとしていた子ども達である。
 しかし、その指示・助言の多さ、細かさ、
口うるささが不快になっていった。

 “子供は、親や先生の目の届かないところで育っていく。”のだ。

 だから、担任の思いや指示には関係なく、
行動することが次第に増した。
 担任は、子供の気持ちをくみ取ることなく、
それを身勝手と決めつけた。

 ギスギスした関係が始まった。
それは、子供同士にも広がった。
 遂には、担任の思いに反し、
いじめや学級崩壊へと進んだ。

 くり返しになるが、河合隼雄氏は言う。
『親(先生)が信頼感をもてるかどうかに
子供の成長は懸かっている』
 教師や親の思いだけでは、子供は育たないのだ。

 子供の成長、それは『目の届かないところで』、
たくさんの秘密=親や教師への隠し事を持つことだ。

 私たちは、それを十分に理解しつつ、見届けること。
そんな豊かさをもった大人でなければと思う。

 結びになる。
山口県のある教育者が、長年の教育経験をまとめたものに、
「子育て四訓」がある。

 1,乳児は しっかり肌を離すな
 2,幼児は肌を離せ 手を離すな
 3,少年は手を離せ 目を離すな
 4,青年は目を離せ 心を離すな

 このような教えを基にした、揺るぎない信頼感を、
大切にしていきたい。 




  いたるところで 水仙が満開  
コメント
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