▼ 学校の夏休みが始まり、
私の地域でも、ラジオ体操が2週間行われた。
例年の様に、家内と一緒に毎日参加した。
前年に比べ、参加者が少ない。
でも、顔馴染みになった子どもや大人と、
挨拶を交わし、一緒に体操するのは、
何とも気持ちのいいものだ。
ある朝、パークゴルフなどで親しくしている奥さんの顔があった。
挨拶と一緒に言いだした。
「今、日赤病院の花壇に水をあげてきたの。」
初耳だったが、活動的な方なので、驚きは大きくなかった。
それでも、早朝のことである。
「それはそれは、早くからご苦労様です。」
労いの言葉を返した。
「少しでも、日赤や患者さんの役に立てば、
それでいいの。」
早速、ネットで調べてみた。
数年前から、始めたらしい。
10数名の『伊達市赤十字奉仕団』が
伊達日赤病院前に花壇を作った。
今年も5月に、そこへ花の苗を植え、綺麗に造園した。
その後、そこの維持管理を継続していると言う。
そのメンバーに、3名も知った顔があった。
頭が 下がった。
▼ 数年前になる。
伊達で知り合いになった方に、
私の教育エッセイ『優しくなければ』をあげた。
「一気に読み、刺激を受けました。」
彼は、そう言って10数枚の原稿用紙を持ってきた。
「私も、書いてみようと思いまして、
機会があったら読んでみて下さい。」
思いたったかのように、
原稿用紙に文字が走り書きされた生原稿だった。
気持ちが先行し、飛躍がほうぼうにあった。
それでも、彼の人生を感じ、心が熱くなった。
その1部が、鮮明な記憶として今もある。
彼は、ある年齢になった時、
献血への協力を決意した。
そのために、健康管理にも取り組み、
献血の回数を重ねることを誓った。
自分の血液が、誰かの役に立つ。
ならば、出来るだけ献血しよう。
『献血功労』。
そんな言葉をはじめて、彼の原稿から知った。
「高齢のため、もう献血ができない。」
彼は、そう悔やみ、文章を終えていた。
献血を10回重ねるごとに、ガラス器が贈られる制度があった。
また、50回の方には賞状が。
そして68歳までに100回を越えた方には、
『有功章(ガラス器・金色)』が贈呈されることになっている。
実に恥ずかしい。
1度も献血に協力したことがなかった。
ところが、決して少なくない方々が、
献血のために腕まくり、
協力を惜しまない日々を送っている。
「いつか機会をみて」。
そのくり返しのまま、一歩を踏み出さずにきた。
そして、もう献血のできない年齢になってしまった。
私にもできそうな『献身』があったのに・・・。
▼ 北海道は、多くの沿線道路の脇に、
『交通安全』の黄色い旗が、立ち並んでいる。
伊達市の場合、それは市街地の生活道路にも並んでいる。
旗は、年に数回新しい物に変えられる。
その変換作業は、専ら各地域の自治会担当役員が行っている。
風雨にさらされ、
色あせた上に一部が千切れてしまった旗が、
一斉に真新しいものに変わる時がある。
ジョギングや散歩で、それに気づく。
そんな時、町に活気が蘇ったように感じるのは、
私だけではないと思う。
さて、その旗についてだが、
昨年のことになる。
台風接近がしきりに知らされていた日だ。
まだ強風にも雨にもなっていない昼下がりだ。
窓越しに見える十字路脇に立つ旗に、脚立が置かれた。
たった1人で、脚立に上がり、旗竿にその旗を巻いている方がいた。
テープでそれを止め、脚立をたたんで立ち去っていった。
台風への備えだと分かった。
その後、所用で車で出掛けた。
同じように旗竿に巻かれた旗を何本も、住宅街の一角で見た。
きっとその地域を担当している役員さんによる、自主的活動だろう。
嵐で旗が傷まないように、そんな心遣いに触れた。
そして、台風が去った翌日。
ふと気づいて、窓辺から十字路を見る。
案の定、もうその旗は小さな風に揺らめいていた。
やはり心ある人のすることは・・・。
▼ 5月下旬の朝、横浜でカリタス学園の子ども達が、
殺傷事件に巻き込まれた。
登校中の惨事に言葉を失った。
その事件が契機なのか、
その後、登校時の子どもを見守る方が、増えていることに、
朝ジョギングをしながら気づいた。
今まで見かけなかった道路脇で2人、
黄色いジャケット姿で立っていた。
信号機のあるT字路で、同じ年格好の方が3人、
これまた同じ交通安全旗を手に、横断歩道の誘導をしていた。
さらに、コンビニのある交差点では、
黄色い帽子をかぶった大柄な男性が、
無言のまま横断する子どもたちの手助けをしていた。
そして、ずっと以前から、
私の住まいの周辺では、主な交差点で、5人もの方が、
1年を通して、毎朝、見守りを続けている。
▼ 日々の暮らし、その身近にある善意。
しかも、どれもみな同世代の献身だ。
私にもできそうなことだが、その一歩がなかなか難しい。
1年ほど前になるだろうか。
伊達市と、近隣市町の若いランナーらが、
『ガードランナー』と言う組織を立ち上げた。
みな市民ランナーである。
趣味で朝夕に、街中などをランニングする。
その最中、子どもや年寄りに声をかけたり、
手を貸したりすべき場面に出会うことがある。
でも、「もし不審者と思われたら・・」。
そんな気持ちが、ついつい手助けの障害になってきた。
そこで、彼らは組織を作った。
その取り組みが、『ガードランナー』と記したTシャツと腕章だ。
警察にも届け、それぞれがランニング時にそれを着用する。
不審者ではない。
だから、堂々と子どもやお年寄りに声をかけられる。
手を差し出せる。
そんな取り組みを始めたのだ。
若い市民ランナー達の、純粋な意気込みに、
心が熱くなった。
しかし、私は高齢ランナーだ。
手助けより、手助けされる側と思い、参加をためらった。
ずっとずっと心に漂っていた。
「腕章をつけて走ること、
それでいいならできるのでは・・」。
私の周囲にある様々な善意が、遂に背中を押した。
今朝も、『ガードランナー』の腕章を巻いて、
5キロのジョギングをした。
ご近所の花畑 ガーベラが素敵
私の地域でも、ラジオ体操が2週間行われた。
例年の様に、家内と一緒に毎日参加した。
前年に比べ、参加者が少ない。
でも、顔馴染みになった子どもや大人と、
挨拶を交わし、一緒に体操するのは、
何とも気持ちのいいものだ。
ある朝、パークゴルフなどで親しくしている奥さんの顔があった。
挨拶と一緒に言いだした。
「今、日赤病院の花壇に水をあげてきたの。」
初耳だったが、活動的な方なので、驚きは大きくなかった。
それでも、早朝のことである。
「それはそれは、早くからご苦労様です。」
労いの言葉を返した。
「少しでも、日赤や患者さんの役に立てば、
それでいいの。」
早速、ネットで調べてみた。
数年前から、始めたらしい。
10数名の『伊達市赤十字奉仕団』が
伊達日赤病院前に花壇を作った。
今年も5月に、そこへ花の苗を植え、綺麗に造園した。
その後、そこの維持管理を継続していると言う。
そのメンバーに、3名も知った顔があった。
頭が 下がった。
▼ 数年前になる。
伊達で知り合いになった方に、
私の教育エッセイ『優しくなければ』をあげた。
「一気に読み、刺激を受けました。」
彼は、そう言って10数枚の原稿用紙を持ってきた。
「私も、書いてみようと思いまして、
機会があったら読んでみて下さい。」
思いたったかのように、
原稿用紙に文字が走り書きされた生原稿だった。
気持ちが先行し、飛躍がほうぼうにあった。
それでも、彼の人生を感じ、心が熱くなった。
その1部が、鮮明な記憶として今もある。
彼は、ある年齢になった時、
献血への協力を決意した。
そのために、健康管理にも取り組み、
献血の回数を重ねることを誓った。
自分の血液が、誰かの役に立つ。
ならば、出来るだけ献血しよう。
『献血功労』。
そんな言葉をはじめて、彼の原稿から知った。
「高齢のため、もう献血ができない。」
彼は、そう悔やみ、文章を終えていた。
献血を10回重ねるごとに、ガラス器が贈られる制度があった。
また、50回の方には賞状が。
そして68歳までに100回を越えた方には、
『有功章(ガラス器・金色)』が贈呈されることになっている。
実に恥ずかしい。
1度も献血に協力したことがなかった。
ところが、決して少なくない方々が、
献血のために腕まくり、
協力を惜しまない日々を送っている。
「いつか機会をみて」。
そのくり返しのまま、一歩を踏み出さずにきた。
そして、もう献血のできない年齢になってしまった。
私にもできそうな『献身』があったのに・・・。
▼ 北海道は、多くの沿線道路の脇に、
『交通安全』の黄色い旗が、立ち並んでいる。
伊達市の場合、それは市街地の生活道路にも並んでいる。
旗は、年に数回新しい物に変えられる。
その変換作業は、専ら各地域の自治会担当役員が行っている。
風雨にさらされ、
色あせた上に一部が千切れてしまった旗が、
一斉に真新しいものに変わる時がある。
ジョギングや散歩で、それに気づく。
そんな時、町に活気が蘇ったように感じるのは、
私だけではないと思う。
さて、その旗についてだが、
昨年のことになる。
台風接近がしきりに知らされていた日だ。
まだ強風にも雨にもなっていない昼下がりだ。
窓越しに見える十字路脇に立つ旗に、脚立が置かれた。
たった1人で、脚立に上がり、旗竿にその旗を巻いている方がいた。
テープでそれを止め、脚立をたたんで立ち去っていった。
台風への備えだと分かった。
その後、所用で車で出掛けた。
同じように旗竿に巻かれた旗を何本も、住宅街の一角で見た。
きっとその地域を担当している役員さんによる、自主的活動だろう。
嵐で旗が傷まないように、そんな心遣いに触れた。
そして、台風が去った翌日。
ふと気づいて、窓辺から十字路を見る。
案の定、もうその旗は小さな風に揺らめいていた。
やはり心ある人のすることは・・・。
▼ 5月下旬の朝、横浜でカリタス学園の子ども達が、
殺傷事件に巻き込まれた。
登校中の惨事に言葉を失った。
その事件が契機なのか、
その後、登校時の子どもを見守る方が、増えていることに、
朝ジョギングをしながら気づいた。
今まで見かけなかった道路脇で2人、
黄色いジャケット姿で立っていた。
信号機のあるT字路で、同じ年格好の方が3人、
これまた同じ交通安全旗を手に、横断歩道の誘導をしていた。
さらに、コンビニのある交差点では、
黄色い帽子をかぶった大柄な男性が、
無言のまま横断する子どもたちの手助けをしていた。
そして、ずっと以前から、
私の住まいの周辺では、主な交差点で、5人もの方が、
1年を通して、毎朝、見守りを続けている。
▼ 日々の暮らし、その身近にある善意。
しかも、どれもみな同世代の献身だ。
私にもできそうなことだが、その一歩がなかなか難しい。
1年ほど前になるだろうか。
伊達市と、近隣市町の若いランナーらが、
『ガードランナー』と言う組織を立ち上げた。
みな市民ランナーである。
趣味で朝夕に、街中などをランニングする。
その最中、子どもや年寄りに声をかけたり、
手を貸したりすべき場面に出会うことがある。
でも、「もし不審者と思われたら・・」。
そんな気持ちが、ついつい手助けの障害になってきた。
そこで、彼らは組織を作った。
その取り組みが、『ガードランナー』と記したTシャツと腕章だ。
警察にも届け、それぞれがランニング時にそれを着用する。
不審者ではない。
だから、堂々と子どもやお年寄りに声をかけられる。
手を差し出せる。
そんな取り組みを始めたのだ。
若い市民ランナー達の、純粋な意気込みに、
心が熱くなった。
しかし、私は高齢ランナーだ。
手助けより、手助けされる側と思い、参加をためらった。
ずっとずっと心に漂っていた。
「腕章をつけて走ること、
それでいいならできるのでは・・」。
私の周囲にある様々な善意が、遂に背中を押した。
今朝も、『ガードランナー』の腕章を巻いて、
5キロのジョギングをした。
ご近所の花畑 ガーベラが素敵