夕食後のくつろいだ時間、
お茶の湯飲みを片手にし、もう一方にリモコンを持ち、
面白そうなテレビ番組を探していた。
すると、「学校の怪談」が話題のバラエティーが映った。
それを、ボーッと見ながら、
似たような学校での体験を思い出した。
⑴
小学5、6年の担任は、
大学を出たばかりの男の先生だった。
近くでアパート暮らしをしていた。
休みの日に、友達何人かで突撃訪問した。
「よく来た。よく来た」と、
敷いたままの布団をたたんで、
私たちを部屋に入れてくれた。
そんな気さくな先生が、
宿直当番の日に、男子数人を夜の学校へ招いてくれた。
暗くなるまで、校庭で野球をした。
その後、学校のお風呂に入れてもらった。
夕食は、『小遣いさん』が用意してくれたことを、
鮮明に思い出した。
宿直室という和室の部屋で、
ワイワイガヤガヤと時間を過ごした。
その時、「学校の怪談」が話題になった。
校舎は鉄筋コンクリートの3階建てだった。
3階の一番遠い所にトイレがあった。
「そこに幽霊が出る」と、
子ども同士で言い合っていた。
それを聞いた先生が、
「本当に幽霊が出るかどうか、見に行ってこいよ」
と、言い出した。
話し合いの結果、
2人1組で順番に3階の角にあるトイレまで、
幽霊がいるかどうか、見に行くことになった。
私はSちゃんと2人で、最後に出発することになった。
暗い廊下を、懐中電灯1つで進んだ。
恐くて、足がなかなか進まなかった。
まだ半分も行ってない時、
Sちゃんが小声で言った。
「行ったことにしない?
・・・ここにいて、しばらくしたら戻ろう!」。
Sちゃんの足は、ガクガク震えていた。
私は救われた。
すぐに答えた。
「ウン! そうしよう!」。
暗やみで、しばらくの時間を耐えてから、
ゆっくりみんながいる宿直室へ戻った。
「幽霊、いなかったよ」。
2人一緒に口をそろえて言った。
その後、暗い廊下やトイレの中の様子を、
報告し合った。
私もSちゃんも口裏を合わせることに、
必死になった。
背中にいっぱい汗をかいた。
思い出すだけで、今も少し心が痛む。
⑵
校長として勤務したS区は、
昭和20年3月10日の『東京大空襲』で多くの犠牲者を出した。
私が赴任した小学校の周りにも、
沢山の焼夷弾が降った。
逃げる人々が校舎内や校庭の防空壕へ避難した。
しかし、校舎も防空壕もB29爆撃機の攻撃で焼かれた。
多くの方が折り重なるようにして亡くなった。
戦後、同じ場所に校舎は再建されたが、
私が赴任する数年前まで、児童が利用する正面玄関の床には、
人が焼け死んだ黒い焦げ跡が残っていたと言う。
そんな無念な最期をとげた方々には、
大変失礼な話だが、許してほしい。
そんな歴史がある学校である。
大空襲の犠牲者にまつわる「学校の怪談」が、
いろいろとささやかれ続けてきた。
校長の私は、そんな話にまったく耳をかさなかったが、
それでもなんとはなく耳に入った。
その1つが、心霊スポットであった。
校舎1階の廊下の角を曲がった辺りがそれだと言う。
その角は、別棟の物置へ行く扉があり、
施錠を解くと、外へ出られた。
その頃、校舎内での喫煙が禁止になった。
その扉から外に出た物置の横だけが、喫煙所になった。
愛煙家は、わざわざそこでたばこを吸った。
まだ私もたばこを止められずにいた。
1日に数回、その喫煙所まで行っては煙をはいた。
それは、夏の蒸し暑い日だった。
遅くまで仕事に追われた。
帰り道での歩きたばこは止めようと、喫煙所へ向かった。
学校には警備員さんだけで、もう誰も残ってなかった。
薄暗い廊下だった。
歩きながら、心霊スポットを思い出した。
決して信じていた訳ではない。
なのに、突然冷たい空気を全身で感じた。
鳥肌になった。
そんな馬鹿なと思いつつ、
廊下の角の扉から外へ出て、
物置横でたばこをくわえた。
その時だった。
閉めたはずの扉が、バタンと音をたて閉まった。
瞬間、薄暗い先の扉をパッと見た。
人影などあるはずもなかった。
静かだった。
急に恐くなった。
でも、「そんな馬鹿な!」と心を落ち着け、たばこを吸った。
風もない。
他に残っている人もいない。
なのになぜ扉の閉まる音が・・・。
ドキドキ、ドキドキが止まらない。
まだたばこは半分も残っていたが、
もみ消した。
恐る恐る扉に近づき、ノブを回して廊下へ戻った。
しっかりと施錠し、校長室へ向かった。
また、一瞬冷たい空気が全身を通り過ぎた。
鳥肌がたった。
まさかまさかと思いつつ、学校を後にした。
駅までの道は明るく、人々が行き交っていた。
やっとドキドキを忘れた。
この体験は、今日まで封印してきた。
きっと私の思い過ごしと、今も信じている。
アジサイは 夏の花
※次回のブログ更新予定は7月29日(土)です
お茶の湯飲みを片手にし、もう一方にリモコンを持ち、
面白そうなテレビ番組を探していた。
すると、「学校の怪談」が話題のバラエティーが映った。
それを、ボーッと見ながら、
似たような学校での体験を思い出した。
⑴
小学5、6年の担任は、
大学を出たばかりの男の先生だった。
近くでアパート暮らしをしていた。
休みの日に、友達何人かで突撃訪問した。
「よく来た。よく来た」と、
敷いたままの布団をたたんで、
私たちを部屋に入れてくれた。
そんな気さくな先生が、
宿直当番の日に、男子数人を夜の学校へ招いてくれた。
暗くなるまで、校庭で野球をした。
その後、学校のお風呂に入れてもらった。
夕食は、『小遣いさん』が用意してくれたことを、
鮮明に思い出した。
宿直室という和室の部屋で、
ワイワイガヤガヤと時間を過ごした。
その時、「学校の怪談」が話題になった。
校舎は鉄筋コンクリートの3階建てだった。
3階の一番遠い所にトイレがあった。
「そこに幽霊が出る」と、
子ども同士で言い合っていた。
それを聞いた先生が、
「本当に幽霊が出るかどうか、見に行ってこいよ」
と、言い出した。
話し合いの結果、
2人1組で順番に3階の角にあるトイレまで、
幽霊がいるかどうか、見に行くことになった。
私はSちゃんと2人で、最後に出発することになった。
暗い廊下を、懐中電灯1つで進んだ。
恐くて、足がなかなか進まなかった。
まだ半分も行ってない時、
Sちゃんが小声で言った。
「行ったことにしない?
・・・ここにいて、しばらくしたら戻ろう!」。
Sちゃんの足は、ガクガク震えていた。
私は救われた。
すぐに答えた。
「ウン! そうしよう!」。
暗やみで、しばらくの時間を耐えてから、
ゆっくりみんながいる宿直室へ戻った。
「幽霊、いなかったよ」。
2人一緒に口をそろえて言った。
その後、暗い廊下やトイレの中の様子を、
報告し合った。
私もSちゃんも口裏を合わせることに、
必死になった。
背中にいっぱい汗をかいた。
思い出すだけで、今も少し心が痛む。
⑵
校長として勤務したS区は、
昭和20年3月10日の『東京大空襲』で多くの犠牲者を出した。
私が赴任した小学校の周りにも、
沢山の焼夷弾が降った。
逃げる人々が校舎内や校庭の防空壕へ避難した。
しかし、校舎も防空壕もB29爆撃機の攻撃で焼かれた。
多くの方が折り重なるようにして亡くなった。
戦後、同じ場所に校舎は再建されたが、
私が赴任する数年前まで、児童が利用する正面玄関の床には、
人が焼け死んだ黒い焦げ跡が残っていたと言う。
そんな無念な最期をとげた方々には、
大変失礼な話だが、許してほしい。
そんな歴史がある学校である。
大空襲の犠牲者にまつわる「学校の怪談」が、
いろいろとささやかれ続けてきた。
校長の私は、そんな話にまったく耳をかさなかったが、
それでもなんとはなく耳に入った。
その1つが、心霊スポットであった。
校舎1階の廊下の角を曲がった辺りがそれだと言う。
その角は、別棟の物置へ行く扉があり、
施錠を解くと、外へ出られた。
その頃、校舎内での喫煙が禁止になった。
その扉から外に出た物置の横だけが、喫煙所になった。
愛煙家は、わざわざそこでたばこを吸った。
まだ私もたばこを止められずにいた。
1日に数回、その喫煙所まで行っては煙をはいた。
それは、夏の蒸し暑い日だった。
遅くまで仕事に追われた。
帰り道での歩きたばこは止めようと、喫煙所へ向かった。
学校には警備員さんだけで、もう誰も残ってなかった。
薄暗い廊下だった。
歩きながら、心霊スポットを思い出した。
決して信じていた訳ではない。
なのに、突然冷たい空気を全身で感じた。
鳥肌になった。
そんな馬鹿なと思いつつ、
廊下の角の扉から外へ出て、
物置横でたばこをくわえた。
その時だった。
閉めたはずの扉が、バタンと音をたて閉まった。
瞬間、薄暗い先の扉をパッと見た。
人影などあるはずもなかった。
静かだった。
急に恐くなった。
でも、「そんな馬鹿な!」と心を落ち着け、たばこを吸った。
風もない。
他に残っている人もいない。
なのになぜ扉の閉まる音が・・・。
ドキドキ、ドキドキが止まらない。
まだたばこは半分も残っていたが、
もみ消した。
恐る恐る扉に近づき、ノブを回して廊下へ戻った。
しっかりと施錠し、校長室へ向かった。
また、一瞬冷たい空気が全身を通り過ぎた。
鳥肌がたった。
まさかまさかと思いつつ、学校を後にした。
駅までの道は明るく、人々が行き交っていた。
やっとドキドキを忘れた。
この体験は、今日まで封印してきた。
きっと私の思い過ごしと、今も信じている。
アジサイは 夏の花
※次回のブログ更新予定は7月29日(土)です