(1)
* * * * *
≪教育エッセイ『優しくなければ』より≫
心の持ち方
いつの頃からだろうか、
私は史跡や古寺を訪ね歩くことが好きになりました。
なかなかそんな時間は作れないのですが、
それでも夏と冬の休みには、近くは鎌倉、
遠くは京都・奈良方面まで出かけていくことがしばしばです。
ある時、さほど名の通ったお寺ではなかったのですが、
その山門に「よろしければ、お持ち下さい。」と記された机に、
『心の持ち方八カ条』と題された紙片か重ねてありました。
私は、何気なくそれを手にし、一行一行にうなずくと共に、
大切なことを教えられたなと感じました。
人生を生き抜くことは、そうたやすいことではありません。
でも、この八か条の教えが役に立つときがあるかも………。
一、腹をたてるより 許す方がよい
二、にくむより 愛する方がよい
三、不平を言うより 感謝する方がよい
四、ぐちを言うより 喜ぶ方がよい
五、力むより まかせる方がよい
六、いばっているより 謙虚な方がよい
七、うそをつくより 正直な方がよい
八、けんかするより、なかよくする方がよい
* * * * *
この一文は、50代頃の寺社巡りから記したものだ。
別の寺院では、こんな「こころに響くことば」にも接し、
急ぎ書き写した。
【 批判ばかり受けて育った子は 非難ばかりします
敵意に満ちた中で育った子は 誰とでも戦います
ひやかしを受けて育った子は はにかみやになります
ねたみを受けて育った子は いつも悪いことをしているような気を持ちます
心が寛大な中で育った子は がまん強くなります
励ましを受けて育った子は 自信を持ちます
公明正大な中で育った子は 正義感を持ちます
思いやりのある中で育った子は 信頼を持ちます
人にほめられる中で育った子は 自分を大切にします
仲間の愛の中で育った子は 世界に愛を見つけます 】
また、次の『子育て四訓』も、先人からの貴重な教えと感じ、
色々な機会に、引用させてもらった。
一 乳児は しっかり肌を離すな
一 幼児は 肌を離せ 手を離すな
一 少年は 手を離せ 目を離すな
一 青年は 目を離せ 心を離すな
これらの言葉は、時代や民族の違いを超え、
長く語り継がれてきたようだ。
確かに、人として生きていく上での真理があり、
その言葉が説く奥深さに、学ぶところが大きい。
これらをお寺などの門前で知り、
時には、自分の言動を振り返る大切な指針にもしてきた。
言い添えるが、特段、神仏を深く信仰してきた訳ではない。
日常の中で触れる機会が多い宗教が、
たまたまお寺や神社だっただけのことだ。
(2)
50歳を過ぎてからは、葬儀が多くなった。
その多くは、仏式であった。
北海道だけかどうかは、定かではないが、
お通夜の席で、僧侶が参会者を前に、
説教?、説話?、法話?だろうか、
故人を偲んでお話をする時間がある。
母が亡くなってもう15年以上になるが、
その葬儀での、お坊さんのお話が忘れられない。
前述したような人生訓ではない。
だが、仏門に身を委ねた方の矜持を強く感じ、
心打たれた。
その後、私の小さな道標になっている。
その僧は、父が他界する以前から、
お盆や祖父母の命日には、我が家の仏壇に向かい、
お経を上げていた。
なので、亡くなった母をよく知っていた。
しばらく、母との思い出話をした後、
その僧は、花の終わり方を話題にした。
「花の最期つまり枯れ方は、花によって様々・・・。
例えば、桜は散る。まさにぱっと咲いて、ばっと散ります。
それに比べ、梅の花は、
花びらが1つ1つこぼれるようになくなっていきます。
梅は散らない、こぼれるのです。
椿はどうでしょうか。あの花はそのまんま地面に落ちます。
椿は落ちる。
あの大きな牡丹は、どうでしょう。
牡丹は、崩れると言われています。
そして、朝顔や菖蒲は・・?
しぼむのではないでしょうか!」。
僧は、その後、人の死も変わりないと言い、
「パッと散る方も、静かにこぼれる方も、潔く落ちる方も、
一気に崩れる方も、少しずつしぼむ方もいる。
それに、善し悪しなどはありませんが、
今日の故人は、どんな終わり方だったか。
きっとこのお方らしい・・・」。
と、続いた。
「母さんはこぼれるような最期だった」
と、私は小さくつぶやき、
あふれそうな涙を堪えていた。
僧のお話は、その後も続いた。
「よく神仏は見えないから、
信じられないとおっしゃっる方がいます。
同じように、例えば自然界の風も見えません。
しかし、少しの風でも樹木の枝は揺れます。
強い風は、その木の葉まで遠くへ飛ばします。
枝が揺れることで、木の葉が飛ぶことで、
私たちは風の存在に気づきます。
見えないから、風はないと思う人は誰もいません」。
静かな語りが、さらに私の心を奪った。
「故人は、仏となり、見えない存在に変わります。
でも、これからもきっと、
すぐ近いところでずっと見守っています。
見えないからと否定せず、
是非そう信じて、私たちは生きていきたいものです」。
その夜、母の逝去を目の当たりに、
塞ぎきっていた私を力づけるのに、十分な僧侶のお話だった。
今も、その想いに変わりはない。
赤に染まった漁港の夕凪
* * * * *
≪教育エッセイ『優しくなければ』より≫
心の持ち方
いつの頃からだろうか、
私は史跡や古寺を訪ね歩くことが好きになりました。
なかなかそんな時間は作れないのですが、
それでも夏と冬の休みには、近くは鎌倉、
遠くは京都・奈良方面まで出かけていくことがしばしばです。
ある時、さほど名の通ったお寺ではなかったのですが、
その山門に「よろしければ、お持ち下さい。」と記された机に、
『心の持ち方八カ条』と題された紙片か重ねてありました。
私は、何気なくそれを手にし、一行一行にうなずくと共に、
大切なことを教えられたなと感じました。
人生を生き抜くことは、そうたやすいことではありません。
でも、この八か条の教えが役に立つときがあるかも………。
一、腹をたてるより 許す方がよい
二、にくむより 愛する方がよい
三、不平を言うより 感謝する方がよい
四、ぐちを言うより 喜ぶ方がよい
五、力むより まかせる方がよい
六、いばっているより 謙虚な方がよい
七、うそをつくより 正直な方がよい
八、けんかするより、なかよくする方がよい
* * * * *
この一文は、50代頃の寺社巡りから記したものだ。
別の寺院では、こんな「こころに響くことば」にも接し、
急ぎ書き写した。
【 批判ばかり受けて育った子は 非難ばかりします
敵意に満ちた中で育った子は 誰とでも戦います
ひやかしを受けて育った子は はにかみやになります
ねたみを受けて育った子は いつも悪いことをしているような気を持ちます
心が寛大な中で育った子は がまん強くなります
励ましを受けて育った子は 自信を持ちます
公明正大な中で育った子は 正義感を持ちます
思いやりのある中で育った子は 信頼を持ちます
人にほめられる中で育った子は 自分を大切にします
仲間の愛の中で育った子は 世界に愛を見つけます 】
また、次の『子育て四訓』も、先人からの貴重な教えと感じ、
色々な機会に、引用させてもらった。
一 乳児は しっかり肌を離すな
一 幼児は 肌を離せ 手を離すな
一 少年は 手を離せ 目を離すな
一 青年は 目を離せ 心を離すな
これらの言葉は、時代や民族の違いを超え、
長く語り継がれてきたようだ。
確かに、人として生きていく上での真理があり、
その言葉が説く奥深さに、学ぶところが大きい。
これらをお寺などの門前で知り、
時には、自分の言動を振り返る大切な指針にもしてきた。
言い添えるが、特段、神仏を深く信仰してきた訳ではない。
日常の中で触れる機会が多い宗教が、
たまたまお寺や神社だっただけのことだ。
(2)
50歳を過ぎてからは、葬儀が多くなった。
その多くは、仏式であった。
北海道だけかどうかは、定かではないが、
お通夜の席で、僧侶が参会者を前に、
説教?、説話?、法話?だろうか、
故人を偲んでお話をする時間がある。
母が亡くなってもう15年以上になるが、
その葬儀での、お坊さんのお話が忘れられない。
前述したような人生訓ではない。
だが、仏門に身を委ねた方の矜持を強く感じ、
心打たれた。
その後、私の小さな道標になっている。
その僧は、父が他界する以前から、
お盆や祖父母の命日には、我が家の仏壇に向かい、
お経を上げていた。
なので、亡くなった母をよく知っていた。
しばらく、母との思い出話をした後、
その僧は、花の終わり方を話題にした。
「花の最期つまり枯れ方は、花によって様々・・・。
例えば、桜は散る。まさにぱっと咲いて、ばっと散ります。
それに比べ、梅の花は、
花びらが1つ1つこぼれるようになくなっていきます。
梅は散らない、こぼれるのです。
椿はどうでしょうか。あの花はそのまんま地面に落ちます。
椿は落ちる。
あの大きな牡丹は、どうでしょう。
牡丹は、崩れると言われています。
そして、朝顔や菖蒲は・・?
しぼむのではないでしょうか!」。
僧は、その後、人の死も変わりないと言い、
「パッと散る方も、静かにこぼれる方も、潔く落ちる方も、
一気に崩れる方も、少しずつしぼむ方もいる。
それに、善し悪しなどはありませんが、
今日の故人は、どんな終わり方だったか。
きっとこのお方らしい・・・」。
と、続いた。
「母さんはこぼれるような最期だった」
と、私は小さくつぶやき、
あふれそうな涙を堪えていた。
僧のお話は、その後も続いた。
「よく神仏は見えないから、
信じられないとおっしゃっる方がいます。
同じように、例えば自然界の風も見えません。
しかし、少しの風でも樹木の枝は揺れます。
強い風は、その木の葉まで遠くへ飛ばします。
枝が揺れることで、木の葉が飛ぶことで、
私たちは風の存在に気づきます。
見えないから、風はないと思う人は誰もいません」。
静かな語りが、さらに私の心を奪った。
「故人は、仏となり、見えない存在に変わります。
でも、これからもきっと、
すぐ近いところでずっと見守っています。
見えないからと否定せず、
是非そう信じて、私たちは生きていきたいものです」。
その夜、母の逝去を目の当たりに、
塞ぎきっていた私を力づけるのに、十分な僧侶のお話だった。
今も、その想いに変わりはない。
赤に染まった漁港の夕凪