来年の大河ドラマは、戦国時代の北近江の大名、浅井長政の三女・江の生涯を描いた「江 ~姫たちの戦国~」だが、この「浅井」の読みが「あざい」であることは今では僕も知っている。しかし、92年に彦根に赴任した時はまだ知らなかった。その当時、浅井町という町があり、長浜から通勤している同僚が盛んに「あざいちょう」と言っているのを聞いて「あ!あざいと読むのか」と知ったわけだ。現在は長浜市に吸収合併されて浅井町は消滅したが、浅井長政の領地だったことからこの名が付けられたそうだ。だが、実はやっぱり「あさい」が正しいのだとする学説もあるようだ。だとすれば、どうして「あざい」という読みが主流になったのだろうか。僕はこれと似たようなケースを、彦根よりもずっと前に勤務した山口県の防府で経験した。防府の読みは「ほうふ」であることは誰でも知っている。しかし、僕が防府に赴任した76年の頃、地元の年配者の10人が10人、「ぼうふ」と発音したのである。防府という地名ができたのは比較的新しい明治後期の頃だから、浅井と防府を一緒にはできないかもしれないが、どうも地域の方言、なかんずく濁音の発音には各地域くせがあり、それが影響しているのではないかと思われる。
話は変わって、わが家のすぐ近くにある通り、旧柳川小路。ここは加藤清正が、関ヶ原の戦いで西軍について敗れた柳河立花藩の家臣たちを預かり、住まわせていたことからこの名がついたところだ。この小路の読みは「しょうじ」または「こうじ」が正しいとされている。しかし、熊本市の資料によると「やながわしゅうじ」とルビがふってある。これは明らかに熊本の方言だと思われる。明治17年に城下町で生まれた僕の祖母は、バリバリの熊本弁を使っていたが、「しょ」と「しゅ」や「みょ」と「みゅ」の区別がハッキリしなかった。おそらく本人たちは「やながわしょうじ」と言っているつもりが「やながわしゅうじ」と聞こえ、それが通称になったのだろう。
こんな風に地名のいわれを考えてみるのも楽しいものだ。
今日の旧柳川小路(東の柳川小路の北部分)
1650年頃の京町絵図に表記された柳川小路
赤い矢印が上の写真の撮影ポイント
話は変わって、わが家のすぐ近くにある通り、旧柳川小路。ここは加藤清正が、関ヶ原の戦いで西軍について敗れた柳河立花藩の家臣たちを預かり、住まわせていたことからこの名がついたところだ。この小路の読みは「しょうじ」または「こうじ」が正しいとされている。しかし、熊本市の資料によると「やながわしゅうじ」とルビがふってある。これは明らかに熊本の方言だと思われる。明治17年に城下町で生まれた僕の祖母は、バリバリの熊本弁を使っていたが、「しょ」と「しゅ」や「みょ」と「みゅ」の区別がハッキリしなかった。おそらく本人たちは「やながわしょうじ」と言っているつもりが「やながわしゅうじ」と聞こえ、それが通称になったのだろう。
こんな風に地名のいわれを考えてみるのも楽しいものだ。
今日の旧柳川小路(東の柳川小路の北部分)
1650年頃の京町絵図に表記された柳川小路
赤い矢印が上の写真の撮影ポイント