徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

夏帆 不思議な魅力と実力

2010-12-17 22:57:18 | テレビ
 BShiの「私が初めて創ったドラマ」というシリーズを時々観ているが、今夜は「僕と彼女と僕と蠅」というドラマだった。ちょっとサイキックな引きこもり少年の前に現れる、夢か現か幻かという少女の役を夏帆がやっていた。この子はいつ見てもホントにうまい。テレビドラマはあんまり見ていないが、映画の方は「天然コケッコー」 、「東京少女」、「砂時計」、「うた魂♪」など、どの作品でも自然な演技に感心する。今、若手女優の中では一番うまいのではないだろうか。今夜のドラマの役もセリフや表情などけっして易しくはないと思うのだが、実にうまく不思議な存在感を表現していた。今後まだまだ伸びるだろう。

思いがけないクリスマスプレゼント!

2010-12-16 17:43:57 | 熊本
 思いがけないクリスマスプレゼントが届いた。子供舞踊団「ザ・わらべ」の一員、文乃(あやの)ちゃんとお母さんからだった。メッセージを読もうと、カードを開けたとたん、「メリ-・クリスマス!」の声にドキッ!へぇ、最近はこんなのもあるんだ~、と感心しながらメッセージを読む。日頃の応援への謝意と年末に開かれる邦楽演奏会への案内が書かれていた。切符も二枚添えられていた。いつもお父様にはいろいろお世話になっている上、こちらの方が楽しませてもらっているのに恐縮の至りだ。なんだか良いにおいがするなぁと思ったら、フレッシュセンツの袋が添えられていた。邦楽演奏会は今年の見納めだ。なんとしても行かなくては。


左からあやのちゃん、くるみちゃん、かえちゃんのザ・わらべ

秀子の車掌さん

2010-12-15 23:44:55 | 映画
 今、観たい映画がある。昭和16年(1941)に作られた「秀子の車掌さん」という映画である。後に「稲妻」や「浮雲」などの名画を世に出した成瀬巳喜男監督と高峰秀子が初めて組んだ映画だ。原作は井伏鱒二の短編小説「おこまさん」。高峰秀子がアイドルだった17歳の頃の作品で、マニアの間では隠れた名画だという評判だが、DVD化などもされていないので観ることができない。しかし、僕には、まだ物心がつく前に観たような、微かな記憶があるのだ。幼い頃の夏、母の実家の近くのお宮の境内で観たような気がするのだ。確かにこの映画だったことを確認したい気持もある。なんとか観る機会はないものだろうか。

Nina フィリピンのディーバに注目!

2010-12-14 19:26:16 | 音楽芸能
 久しぶりにバリー・マニロウの「Somewhere Down The Road」が聴きたくなった。30年近く前に買った彼のアルバムは今でもあるのだが、いかんせんカセットテープ。もうプレーヤーがない。しかたないのでYouTubeで聴くことにした。探したらすぐに見つかった。するとすぐ下にカバーバージョンらしきものがあるのに気がついた。歌っているのは「Nina」とある。誰だ?とにかく聴いてみよう、と思ってクリックしてみた。するとこれが実にいい。優しい女性の歌声で、バリー・マニロウのオリジナルとはまた違った味わいがあり、なんだか温かい気持ちになる歌だった。聴いた後、ネットで調べてみた。フィリピンの人気若手歌手らしい。世界は広いな~とあらためて思う。まだ知らない良い歌手が、まだ世界中にはいっぱいいるんだろうなぁ。


「東京物語」 リボーン!

2010-12-13 19:50:12 | 映画
 松竹のホームページによれば、来年、山田洋次監督が監督生活50年を迎えるのを記念して「山田洋次監督50周年プロジェクト」を行うという。中でも注目されるのは、山田監督が敬愛する小津安二郎監督の不朽の名作「東京物語」の時代背景を現代に置き換え、「東京家族」というタイトルで映画を製作するというニュースだ。かつて山田監督は、あるドキュメンタリー番組で、最初は小津作品は好きではなかった、と述懐していたのを見たことがある。黒澤映画のような作品を作りたいと念願していたらしいが、監督を永く続けていくうち、いつの間にか自分が小津監督に多大な影響を受けていることに気付いたと語っておられた。今なお、世界中で愛される「東京物語」が、山田監督の手によって、どう現代に甦るのか楽しみだ。また、この「東京物語」はわが郷土の大先輩、笠智衆さんの代表作でもある。笠さんの役を誰がやるのかも含め、キャスティングにも大いに注目だ。


東京物語(1953)

グレース・ケリーの素顔を探して

2010-12-12 21:01:55 | テレビ
 BSベスト・オブ・ベストで昨年BSHiで放送したドキュメンタリー「グレース・ケリーの素顔を探して」という番組をやっていた。ハリウッドのトップ女優からモナコ公妃に転身したグレース・ケリーの半生を、残された写真や関係者の証言をもとにたどっていた。僕は彼女の出演作品はほとんど見ているが、最も強い印象が残っている二つのシーンがある。一つは小学校3年の時だったと思うが、「トコリの橋(1954)」の一場面と、もう一つはその何年後かに見た、何かの映画の前に上映されたニュース映画でのレニエ大公との結婚式のシーンだ。「トコリの橋」は朝鮮戦争を背景とした話で、日本でもロケが行なわれたことは映画雑誌で知っていたし、戦闘シーンでは観ている大人たちが現実感を伴って観ていた姿をよく憶えている。終戦から間もなかったし、映画でも横須賀から出撃していたので無理もなかったと思う。その中でも海軍パイロットの夫(ウィリアム・ホールデン)の出撃を見送る妻(グレース・ケリー)の姿が印象的だった。結局、それが永遠の別れとなってしまうのだが。
 番組の最後の方で、グレース・ケリーのお墓が映し出されたが、墓碑銘には「Gratia Patricia」と書かれていた。そういえば細川ガラシャ夫人のスペルも「Gratia」だったことを思い出した。

伝統芸能の担い手 ~ 中村花誠さん ~

2010-12-11 23:00:12 | 熊本
 新町や古町に残る町屋など、城下町の景観を残していくのが、ハード面での歴史的遺産の保護とするならば、城下町に伝わる伝統芸能を残していくのはソフト面での歴史的遺産の保護ということができよう。子供舞踊団「ザ・わらべ」の生みの親でもある中村花誠さんは、そんな熊本の伝統芸能継承に力を尽くしておられる尊敬すべき方だ。今では国内でも数少ないといわれる女流邦楽演奏家であり、日本舞踊の指導者でもある。平成20年からは、京都の「都おどり」に倣った「熊本おどり」を立上げるなど、各方面で活躍しておられる。何度か演奏を拝見したことがあるが、10月の熊本城お城まつりにおける古謝美佐子さんの島唄とのコラボは圧巻だった。野外のステージに響き渡る小鼓と囃子は、満員の聴衆を惹きつけずにはおかなかった。


見知らぬわが町

2010-12-10 22:21:16 | テレビ
 かつて三井三池炭鉱で栄えた大牟田市。この町に住む一人の女子高生がある日、ひとつの廃坑にひきつけられる。今なお炭鉱事故の後遺症に苦しむ祖父のこともあり、彼女は駆り立てられるように炭鉱の歴史を調べ始めるのだった。この作業を通じて彼女が自立していく様を、現代のリストラや不登校、介護、家族関係の問題まで絡ませながら展開していく。最近、NHKのドラマは広島放送局の「火の魚」に代表されるように、地方発のドラマに秀作が多い。このドラマも1時間余の中によくまとめられた秀作だ。主演の忽那汐里はグリコポッキーのはじけたCMがおなじみだが、海外育ちのせいか、無国籍風の透明感が魅力だ。将来が期待できる。

電氣館と林芙美子

2010-12-09 15:53:53 | 映画
 現存する熊本最古の映画館、電気館の100年の歴史展を、熊本市現代美術館に見に行った。来年創設100年を迎えるということは、僕の親父と同じ年に生まれたわけだ。100年の歴史を偲ばせる写真やチラシ、ポスター、看板などが展示されており、昭和10年(1935)に製作されたという大河内伝次郎主演の「水戸黄門 信州密書篇」活弁付きも上映されていた。また、そんな展示の中でひと際興味深かったのが、「電氣館と林芙美子」というパネル(内容下記)。若い頃、日本各地を転々としていた林芙美子が一時期、熊本にもいたことは聞いていたが、小説の中にそれを裏付けるくだりがあることは知らなかった。
■電氣館と林芙美子
 熊本の映画の歴史を語るとき、藤川治水著の「熊本シネマ巷談」なしには語れない。その「シネマ巷談」の中に、「中央作家による文学作品のなかで、熊本の映画館がそっくり実名ででてくるのが、林芙美子のある作品だけではないかと考え込んでいたからであろう。彼女の作品「舞姫」のなかに、熊本の電気館が登場する」とある。林芙美子の小説に「舞姫の記」というのはあるが、これが果たしてここで挙げられている「舞姫」に該当するのか。調査したところ、「舞姫の記」に以下のような記述があった。
 「その夜、末吉は退屈だったので、独りで新市街に行き、電気館にニュースを観に行った。白い海月のようなドイツの落下傘部隊が、銀幕に映っている。(以下省略)」
 林芙美子が熊本に住んでいたのは小学校の6年間。しかしその間数十回移転しているのでその間の一時期ということにはなるが、活動写真常設館の電気館の印象が深く残っていたと思われる。
※「舞姫の記」林芙美子著 昭和22年9月14日発行


創設間もない頃の電気館


超満員の観衆で埋め尽くされた館内(大正時代?)

キム・ノヴァク ~ 50年代を代表するハリウッド・ビューティー ~

2010-12-08 21:02:08 | 映画
 今週からBS2の衛星映画劇場でアルフレッド・ヒッチコック特集をやっている。ほとんど若い頃に見ている作品だが、今見てもどれも良い。やっぱりハリウッド映画は50年代が最高だ。それはさておき、ヒッチコック映画の楽しみの一つは、時代を代表する人気女優が登場し、スクリーミングをしてくれることだ。ジョーン・フォンテイン、グレース・ケリー、キム・ノヴァク、シャーリー・マクレーン、ティッピー・ヘドレン、ジュリー・アンドリュース等々。中でも僕が忘れられないのは今夜放送された「めまい(1958)」のキム・ノヴァクだ。中学生の頃、最も好きな女優だったのがキム・ノヴァクであのミステリアスなムードがたまらなかった。彼女の出演作は他にも「ピクニック(1955)」、「愛情物語(1956)」、「媚薬(1958)」、「逢う時はいつも他人(1960)」などが特に印象深い。彼女の代表作がこの「めまい」と言っていいだろう。60年代半ば頃から急速に出演が減り、たまにB級映画で見かけた時は寂しい気持がしたものだ。50年代を代表するハリウッド女優の一人であることは間違いない。

龍馬の歩いた道はどこ?

2010-12-07 18:27:02 | 熊本
 「龍馬伝」は終わったが、僕の「龍馬の歩いた道」探しはまだ終らない。1864年2月、勝海舟とともに熊本城下に入った龍馬は、勝海舟の命を受け、宿舎の新町本陣(御客屋)から踵を返すように沼山津の横井小楠宅(四時軒)へ向かった。この時を最初として、龍馬は計3回、四時軒を訪問しているが、彼がどのルートを通って四時軒まで行ったのかを推測するのはとても楽しい。1回目と2回目は、島原へ渡る前後だから同じルートを辿った可能性が高い。いずれも新町本陣を起点とすると、まず新町からどの御門をくぐったかが最初のポイントだ。当時新町は堀で囲まれており、出入するには五つの御門があった。新一丁目御門、須戸口門、高麗門、新三丁目御門、柳御門の五つだ。しかしどれも自由に出入できたわけではなく、他国者の出入は新一丁目御門に限られていたらしい。藩主細川公は勝海舟一行が城下に滞在していることを知っていたし、勝海舟は幕府の要人だから、願い出れば特別にどこからでも出られたかもしれない。しかし、勝海舟はあえてそれはしなかったと思う。なぜなら、横井小楠はその時蟄居中の身で、幕府の要人が接触するのは憚られたと思うからだ。だからこそ龍馬を使いに出したのだろう。大人しく新一丁目御門から出て行った龍馬とすれば、当時はおそらく本陣から目と鼻の先に船場が見えていたはずだから、本当は洗馬橋を渡りたかったに違いない。結局、新一丁目御門を出た龍馬は、さっき来たばかりの豊後街道を逆戻りする格好になり、内坪井からは坪井川に沿って南下し、厩橋を渡って安政町通りに出たのではないかと思われる。後は安政橋(安巳橋)で白川を渡り、九品寺で木山往還に入ったのではないだろうか。
 翌年の3回目の訪問は鹿児島の米ノ津から船で来ているので別のルートを辿っていることは間違いないだろう。船をどこで下りたのかが定かではないが、川尻に着いたとすれば、5月下旬という季節も考えると、帆掛け舟での加勢川遡上説もあながち出鱈目とは言い切れないような気がする。いずれにせよ記録が残っていないので、ひたすら想像するしかないが、それがまたロマンを感じて楽しい。


マイ・アドベンチャー

2010-12-06 19:33:53 | 熊本
 夕方所用で通町まで歩いて行った。千葉城町の熊大附属幼稚園に差し掛かった時、先生方が園内の掃除をしているのが目に入った。ここは60年ほど前、僕が通い、母が永年勤めていた幼稚園でもある。ふと当時の光景が想い出された。まだ舗装もしてなかったこの道は、自動車はほとんど見かけず、時おり馬方が引く荷馬車が通った。朝は母と一緒に約2キロの道を歩いて登園した。今日では信じられないことだが、帰りはほとんど一人で歩いて帰った。帰り道は三つのコースがあった。その日の気分や天気の具合によってコースを変えるのが楽しみだった。一つ目は朝の登園と同じ道を帰るコース。最短コースであまり面白みはなかった。二つ目は幼稚園を出てからすぐ千葉城橋で坪井川を渡り、旧3号線に出て、不開門(あかずのもん)から熊本城に入り、宇土櫓の前を通って城内を抜け、新堀町にあった加藤神社を通り抜けるコース。ちなみに当時の熊本城は天守閣はまだ再建されておらず、出入り自由だった。三つ目は、当時走っていた市電の上熊本~藤崎宮線の道を通って磐根橋の真下まで行き、そこから階段を登って加藤神社を通り抜けるコース。特に雨の日は必ず加藤神社を通るコースを選んだ。なぜなら、雨の日は神社の中に小さなカエルが出没するので、それをつかまえて帰るのが楽しみだったからだ。戦後まだ5~6年の頃の僕のアドベンチャーである。


銀杏並木が鮮やかな熊大附属幼稚園前

子規と漱石 ~ 坂の上の雲 ~

2010-12-05 22:39:36 | テレビ
 「坂の上の雲・第二部」の2回目は正岡子規の死を描いていた。死の直前まで子規庵には人の出入が絶えなかったようで、その意味では幸せな最後だったろう。ただ、生涯の友といわれる夏目漱石の姿がそこになかったのは彼にとっては残念なことだったに違いない。漱石のロンドン留学からの帰国がもうちょっと早ければ死に目には会えたかもしれない。漱石は熊本にいる時も、自作の句を添削してもらうため子規に送っていたそうだが、そんな中の一つが下の“すみれ”の句である。この句は漱石の俳句の中でも傑作の一つと言われているが、僕も大好きな句だ。しかし、正岡子規も漱石自身も今日、この句のように“小さき人”とはならなかったことは皮肉である。
「すみれ程の 小さき人に 生れた志」(漱石 明治30年)
※わが家からほど近い京陵中学校前の道路脇に設置された句碑。
 この道は漱石が五高教師として熊本に着任した時に通った道。

熊商デパート & 甘酒

2010-12-04 17:23:27 | 熊本
 熊本市の年末の風物詩の一つとなった感のある熊本商業高校の“熊商デパート”に行った。これは生徒たちに販売実習を体験させて物品販売の基本を身に付けさせようという同校の伝統行事。昨年、新型インフルエンザの流行で初めて中止になったそうだが、そのせいもあってか、校庭から体育館内に続く様々な商品の出店の前には人だかりが凄い。その中で甘酒の素を買う。帰ってから温めて飲んだ。おそらく10数年ぶりだ。子供の頃は秋の藤崎宮例大祭になると、必ず祖母が作って飲ませてくれた。ところでこの甘酒。いつぞやの「ブラタモリ」で言っていたが、江戸時代は真夏の飲物だったらしい。実は成分が現代医学で使われる点滴とほとんど同じらしく、熱中症予防などになることを、昔の人々は経験的に知っていたのだろうか。実に賢い。


城下町の風情を残すために

2010-12-03 19:25:59 | 熊本
 熊本市では城下町の風情を残す古町や新町の街並みを保全するため、「城下町づくりモデル街区」と「町屋認定制度」を創設することになった、と熊日新聞が報じている。われわれは日頃「歴史的景観を残そう!」なんてことを軽々しく言っているが、そのため町屋の持主などに建物の維持保全の面で財政的な負担を強いていることになる。古町や新町は歴史的に商人の町。町びとは基本的に皆さんご商売をやっておられるわけで、この構造的な不況の世の中、商売を続けていくことすら大変なのだ。今回やっと行政的な財政支援の手が入ることになったが、これでも遅きに失した感は否めない。