徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

山崎貴監督を祝して

2024-03-13 20:03:43 | 映画
 山崎貴監督の「ゴジラ-1.0」がアメリカ映画アカデミー賞で「視覚効果賞」を受賞したことは大変喜ばしい。16年前、山崎監督の作品「BALLAD 名もなき恋のうた」熊本ロケにボランティアスタッフとして参加させていただいた一人として心からお祝い申し上げたい。
 当時僕は「くまもとフィルムコミッション」に登録していたので、エキストラやスタッフとして3本ほど参加したが、エンドクレジットに名前を載せてもらったのは山崎監督の「BALLAD」だけ。そういう意味でも忘れられない映画となった。阿蘇を中心とした熊本ロケは2週間ほど続いたが、僕の仕事は毎日のエキストラの員数を確保すること。他のスタッフとともに、あらかじめ登録されているエキストラ希望者に電話をかけまくった。阿蘇では合戦シーンが撮影されたのでエキストラの集まりが悪い日は撮影も苦労されただろう。「三丁目の夕日」シリーズなどで知られる山崎監督だが、この作品では得意のVFXは極力控えておられたのが印象に残る。結局、山崎監督を拝見したのはスタッフ&エキストラ向け謝恩試写会の時だけだったが、上映後には山崎監督のトークショーも行なわれ、製作意図などを直接聞けたのは嬉しかった。
 今回の受賞をステップにVFXにこだわらず映画史に残るような大作を作ってほしいと願っている。
※上の写真は「BALLAD 名もなき恋のうた」のシナリオ


柳暗花明又一村

2024-03-12 22:51:32 | 
 今日は子飼へガソリンの給油に行ったが、浄行寺交差点のあたりが渋滞していたので、熊大脇から立田山の山裾を抜けて帰ることにした。途中、泰勝寺跡の前を通るのでちょっと立ち寄った。ひとつは昨年秋から干上がっていた池がどうなったか気になっていた。満水とはいかないがかつての池の半分くらい水が戻っていた。入門受付の方に聞くと2月に降り続いた雨によってだいぶ回復したという。マガモも戻ってきているのでさらに今後の雨に期待したい。


泰勝寺山門跡


茶室仰松軒


水がだいぶ回復した池で泳ぐマガモ

 わが父はこの泰勝寺境内に隣接するわが家の本籍地で生まれ育った。父が書き遺した備忘録には「この辺り一帯は数百㍍隔てて、彼処に一戸、此処に二戸と人家の点在する寂しい山里だったが、自然の眺めは四季を通じて素晴らしく、ことに春の風情はこの地を訪れる人に『柳暗花明又一村』の感懐を抱かせたのでは…」と書いている。
 僕が幼い頃、初めてこの地に連れて来られた時のことをよく憶えている。ここが俺の生家があったところだと教えてもらった。戦後間もない頃で現在の風景とは全く違っていた。その時の心に残る風景と全く同じような風景を10数年前に見つけた。それは「神戸の空の下で。~近畿の史跡めぐり~」というサイトに掲載されていた1枚の写真だった。実は京都市右京区嵯峨の古刹・往生院祇王寺の写真だった。苔庭から仏殿を望むその風景は僕の心に残る父の生家のイメージにそっくりだった。すぐにサイト管理者にお願いしてその写真をブログに使わせていただいた。
 
※「柳暗花明又一村」という表現は南宋時代の中国の詩人陸游の「遊山西村」の中の一節で、「柳が生い茂り、明るく花が咲いている村がまた現れた」という旅人の気持を明るくさせる美しい風景を表現しているという。

往生院祇王寺の苔庭から仏殿を望む写真

花二題 ~菜の花と木瓜~

2024-03-11 21:16:07 | 

菊池川河川敷の菜の花畑

菜の花

 まつだまみさんのFBに素敵な写真が掲載されていた。場所は菊池川玉名橋の少し上流左岸の河川敷。ちょうど今頃は菜の花が咲き乱れる映えポイントである。実はここは妻の実家から近く、毎年写真を撮ろうと出かけるのだがいつも天気が悪く良い写真が撮れない。今回はまみさんにお願いして写真を貸していただいた。
 また、この写真の奥の方の川べりは川の映像を撮るのに絶好の撮影ポイント(下の写真参照)である。上流にカメラを向けると建物や構築物など一切入らないので「滔々と流れる川」のイメージを撮るため今まで何度も足を運んだ。


菊池川の川べり

木瓜(ぼけ)の花

 今日散歩していたらある民家の庭に「木瓜の花」が鮮やかな赤い花びらを開いていた。しばらく眺めた後、写真におさめて帰ろうと思ってカメラを覗くとそのお宅の部屋が写ってしまうことに気付いた。アングルを変えてもやっぱり入ってしまうのでまずいなと思い写真はあきらめた。ふと漱石の句が頭に浮かんだ。
 木瓜咲くや 漱石拙を 守るべく
(上の写真はフリー素材)


鎌研坂公園の漱石句碑

助産師と舞踊家

2024-03-10 21:39:59 | 友人・知人
 先々週、かつて舞踊団花童のリーダーを務めたくるみさんからFBのメッセージをいただいた。近況を知らせるお便りだった。もうだいぶ前になるが彼女のお母様から結婚されたことは伺っていた。今は子育てに大わらわだが、やがて育児休暇から助産師の仕事に復帰する予定であることが書かれていた。おそらく今まで以上にお忙しい毎日になることだろう。舞踊家としての復帰を期待している僕らくるみファンにとってはいずれ必ず復帰の日がやって来ることを信じて待つしかない。
 ただ、個人的には、かつて産業医や保健師、看護師などと一緒にプロジェクトチームを組んで仕事をしていたことがあり、彼ら医療専門職の献身的な働きを目の当たりにした経験から、助産師として活躍していただきたいという気持も一方ではあり、ちょっと複雑な思いが交錯する。

2015.4.25 熊本城本丸御殿 春の宴
振付:中村花誠
立方:中村くるみ

「瀬戸」のはなし。(2)

2024-03-09 22:58:01 | 熊本
 昨日、大浜町の母の生家近くの通りを車窓から眺めながら、「そういえば、この通りも“瀬戸”と呼んでいたっけ」とふと思い出した。着いてから甥との会話の中で確かめると、「昔から瀬戸町と呼ばれている」と言う。
 「瀬戸」という地名や町名は日本国中至るところにあり、昨年10月には、わが家の近くの「瀬戸坂」の由来についてブログ記事にした。
 そもそも「瀬戸」とは何ぞやという話を繰り返すと
「瀬戸(せと・せど)」とは「狭門 ・迫門 」とも表記され、海あるいは川の幅が狭くなっているところのこと。
と辞書には説明されている。
 ということは大浜町は菊池川左岸の町だから、その辺りで菊池川の川幅が狭まっていたのだろう。現在の地図を見ると確かにわずかに狭まっているように見える。もともと大浜というのは菊池川河口湾に浮かぶ砂洲の一つで、加藤清正の時代に始まり細川氏の時代にも受け継がれた干拓事業が、現在のような菊池川を形づくった。(下図参照)干拓を進める上で大浜の辺りで川幅が狭くならざるを得ない地形的な事情があったのかもしれない。
 大浜町は江戸時代から明治初期の頃まで菊池川流域で獲れた「高瀬米」の積出し港として栄えた。江戸前期までは高瀬まで上っていた五百石船も、菊池川の堆積などのため上れなくなり、江戸中期以降になると御倉の米を3キロ下流の大浜まで平田船で運び、大浜で五百石船に積み替えて大坂の堂島を目指したそうである。大浜には今でも往時の廻船問屋の名残りが残っている。下の民謡「肥後の俵積出し唄」に歌われている沖の帆前船に積む光景も、後期にはもっぱら大浜で見られる光景だったのである。

大浜町瀬戸の通り


「高瀬米」の積出し港として栄えていた大浜(大浜外嶋宮住吉神社奉納絵馬)


菊池川河口湾に浮かぶ砂洲の一つに過ぎなかった大浜

「高瀬米」の積出し風景を唄った「肥後の俵積出し唄」

岩戸の里で出逢った旅人

2024-03-08 22:14:25 | 
 今日は所用で玉名市大浜町の母の生家へ出かけた。帰りは久しぶりに河内町から山越えの道を選んだ。雲厳禅寺だけ立ち寄った。本堂の前に僕と同じ年配と思しき男性が立派なカメラを提げて立っていた。お参りを済ませて岩戸の里を展望するベンチの方へ歩いていくと、その男性が声を掛けてきた。
「ここから下に降りる近道は知りませんか?」
「車ですか?そしたらいったん上の農道(パイロット道路)に上がって道なりに行けば下の海沿いの道に出られますよ」と答えた。
「どこから来られたんですか?」とたずねてみた。
「千葉県です」
「ヘェ~千葉県ですか!」と言うと
「ここら辺はみかん畑が凄いですね!」
「えぇ、このあたりは漱石の時代からみかん栽培が盛んですよ」と言ってみたが無反応だった。
 夏目漱石の「草枕」にこの地域のみかん畑の話が出てくるのだが、読んでおられないのか、「草枕」の舞台がここのすぐ近くであることをご存じないのか。
「これから宇土の御輿来海岸(おこしきかいがん)を撮りに行くんです!今が一番いい季節と聞きまして」と先を急ぐ素振り。
「天草へ渡られるんですか?」と聞くと
「今回は天草へは渡りません」
「それじゃお気をつけて」
「ありがとうございます」ということで別れた。


松尾地区のみかん畑


漱石の熊本観

2024-03-07 21:20:20 | 文芸


 散歩で新坂を下りながら遠く阿蘇山を望んでいると必ず思い出すのが、明治29年4月、第五高等学校に赴任するためここを人力車で通りかかった夏目漱石のこと。熊本市街を見おろしながら「森の都」と言ったと伝えられるが真相はさだかではない。もし漱石先生が、ビルが林立した今日の風景を眺めたらいったい何と表現されるだろうか。

 漱石は明治33年(1900)7月、英国留学のため4年3ヶ月を過ごした熊本を去るが、その8年後の明治41年(1908)2月、九州日日新聞(現在の熊本日日新聞)のインタビューに答えて熊本の印象を次のように語っている。
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 初めて熊本に行った時の所感、それならお話いたしましょう。私は7、8年前松山の中学から熊本の五高に転任する際に汽車で上熊本の停車場に着いて下りて見ると、まず第一に驚いたのは停車場前の道幅の広いことでした。そうしてあの広い坂を腕車(人力車)で登り尽くして京町を突き抜けて坪井に下りようという新坂にさしかかると、豁然として眼下に展開する一面の市街を見下ろしてまた驚いた。そしていい所に来たと思った。あれから眺めると、家ばかりな市街の尽くるあたりから、眼を射る白川の一筋が、限りなき春の色を漲らした田圃を不規則に貫いて、遥か向うの蒼暗き中に封じ込まれている。それに薄紫色の山が遠く見えて、その山々を阿蘇の煙が遠慮なく這い回っているという絶景、実に美観だと思った。それから阿蘇街道(豊後街道)の黒髪村の友人の宅に着いて、そこでしばらく厄介になって熊本を見物した。
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漱石来熊120年記念「お帰りなさい漱石祭」(2016.4.13)漱石が新坂から熊本市街を眺める場面を再現

ハモる邦楽「大和楽」

2024-03-06 16:11:49 | 音楽芸能
 昨夜、Eテレで放送された「先人たちの底力 知恵泉」は大倉喜八郎を取り上げていた。
 大倉喜八郎とは、明治維新から大正に至る激動の時代、政府、軍部の物資調達を始め様々な事業で商才を発揮し、一代で大倉財閥を築き上げた稀代の実業家である。
 大倉財閥といえばホテルオークラや大成建設などの企業群や札幌の大倉山ジャンプ競技場などを思い出すが、僕が大倉喜八郎の名前を知ったのは、実は二代目の大倉喜七郎を知ってからである。喜七郎はつとにその名を知られた趣味人で、新邦楽「大和楽(やまとがく)」の創設者。自ら楽器を開発したり、作詞作曲も手がけたという。
 「大和楽」についてはYouTubeマイチャンネルにアップした舞踊団花童の演目の中に「大和楽」が数多く含まれていたことから知った。
 そもそも「大和楽」とはどういう音楽かというと、「大和楽公式ホームページ」の説明からその要点をあげてみると
  • 「大和楽」という古式ゆかしい響きとは裏腹に、昭和8年に生まれた新しい楽派であること。
  • 創始者は、大倉財閥二代目の大倉喜七郎男爵であること。
  • 邦楽の系統の中で「三味線音楽」と呼ばれるジャンルに属すること。
  • その「三味線音楽」の中でも「語り物」にも「唄い物」にも分けられないこと。
  • 伝統的な邦楽に現代的な音色をまとわせて、人々により親しまれる楽曲を創りだそうというコンセプトであること。
 「大和楽」には、洋楽の発声法やハーモニー、輪唱、ハミングなどの演奏法も採り入れられており、女性主体の楽派であることも特徴のようだ。
 その「大和楽」を4曲、舞踊団花童が踊る演目の中から選んでみた。

2012.3.31 熊本城二の丸広場 くまもとをどり2012

2013.10.5 熊本城本丸御殿 秋夜の宴

2015.5.2 水前寺成趣園能楽殿 水前寺をどり

2015.5.2 水前寺成趣園能楽殿 水前寺をどり

伝説のビート

2024-03-04 22:31:02 | 音楽芸能
 水前寺成趣園能楽殿で行われた「翁プロジェクト熊本公演」を観てからやがて3年経つ。能楽の頂点といわれる「翁」をナマの舞台で観たのは初めてだったのでいまだに感動冷めやらない。熊本ゆかりの友枝昭世師(人間国宝)による「翁」もさることながら、主役とも言える「三番叟」の「揉みの段」「鈴の段」は農耕儀礼に始まる日本の芸能の原点を感じさせて印象深かった。 


「翁プロジェクト熊本公演」における三番叟(山本則重さん)

 その三番叟の舞を見ていると、鼓が刻むリズムの中にどうしても思い出すリズムがある。下の映像の1分40秒あたりから注目して聞いていただきたい。

野村萬斎さんの三番叟

 5年前に世を去ったアメリカの名ドラマー、ハル・ブレインがザ・ロネッツの「Be My Baby」のイントロで刻むビート「thump-thump-thump-crack」は「伝説のビート」といわれ、ブレインが音楽史に残した足跡の一つとされている。僕はそのビートを聴きながら「三番叟」のリズムを連想する。ブレインの死を報じたニューヨークタイムズがこのビートをいみじくも「心臓の鼓動」と表現しているがそれはまさに800年も昔に始まった「三番叟」にも言えるのではないかと思うのである。


桃の節供

2024-03-03 19:53:15 | 季節
 今日は「ひな祭り(桃の節供)」。わが家もささやかなお祝いをしました。
 この「桃の節供」もともとは女の子のお祭りではなく、春を寿ぎ、無病息災を願う厄祓い行事だったそうです。古代中国の「上巳の節句」が日本に伝わったものだそうですが、「端午の節供」を男子、「桃の節供」を女子のお祭りとしたのは日本的といえば日本的といえるかも。旧暦の3月3日は、桃の花が咲く頃なので「桃の節供」となったわけですが、今年は4月11日にあたりますので、桃の開花は過ぎているかもしれません。

 「新熊本市史」には熊本市における「ひな祭り」の民俗について次のように書かれています。
祭り
 旧暦の3月3日は、桃の節供ともいわれた。3月1日ごろから坪井、広丁、唐人町あたりに雛市が立っていた。一般的に長女の初節供のときには特別のお祝いをするが(嫁の実家から雛人形を贈る、ひし餅やふつ餅(よもぎ餅)をついて配るなど)、その他のときは、内祝い程度である。
 明治のころは旧暦で行われ、上巳(じょうし)の祝といって草の餅をこしらえ、初節供の家では「初ひな」と称し、ひなを床狭しと陳列した。まつりの2、3日前になると、各町に「ひな店」がでたが、坪井広丁などには、数軒の小屋をたて、ひな店を出し日夜売り出した。また餅つきの音も聞こえ、桃桜の花売りも徘徊した。秋津町沼山津には、千代紙で作った人形をひなまつりに川に流すという古い形を残した習俗があった。もともと桃の節供は家族や家のけがれを払うためのみそぎの行事であった。

   写真は柿原の桃畑ですが、3月下旬にはこのような開花が見られると思います。



   桃の節供にふさわしい映像を選んでみました。

清原元輔と立田山

2024-03-02 21:44:22 | 歴史
 藤崎八旛宮に弥生の朔日詣りをした後、ふと境内の清原元輔(清少納言の父)の歌碑のことを思い出した。大河ドラマに元輔が登場したことが頭の片隅にあったからだろう。何度も見ているのだが、あらためてじっくり見てみようと歌碑のところへ向かった。ちょうど神職の方が付近を高帚で掃いておられた。「コンニチワ」と声を掛けると「元輔の歌碑を見に来られたのですか?」とたずねられ、それからひとしきり元輔談義が続いた。

 元輔が肥後国司として赴任した時、濃い緑に覆われ「黒髪山」と呼ばれていた山を見て、ふるさと大和の龍田山を偲んで「龍田山」と名を改めたと伝えられる。「黒髪山から龍田山」への改名については諸説あるが、熊本出身の民俗学者・谷川健一も「列島縦断 地名逍遥」においてその説を紹介している。

 ところで前々から抱いていた疑問だが、山の改名が元輔の発案だとすれば、いったいどこから「龍田山(立田山)」を眺めたのだろうか。国司ともなれば一日の大半を国衙の中で過ごしたと考えられるが、元輔の時代の肥後の国府は「飽田国府」現在の二本木地区である。場所は現在のKAB(熊本朝日放送)付近と推定されている。江戸後期、熊本藩士・八木田桃水が著した「新撰事蹟通考」によれば、「国府ハ飽田郡宮寺村ニ在其遺基ヲ今古府中ト称ス、是国守ノ治府ナリ」とあり、平安初期以後の国府跡という。「地志略」に「石塘を出て南蓮台寺の前、東は白川、西は高橋に通ふ大道を限つて古の府なり」と位置を示している。

 それでは、飽田国府から立田山ははたして見えたのだろうか。直線距離にして約6㌔、今日のように視界を遮る建物は無かったとしても立田山の高さはせいぜい150㍍の低山である。この距離で大和の龍田山を想う情趣を味わえただろうか。国府を出た位置で立田山を眺めたことも大いに考えられる。たとえば京町台地の上から。飽田国府から真っすぐ北へ、大宰府へ向かう官道があったと考えられている。今日も残る薬師坂を登り、元輔の時代すでに創建されていた藤崎八旛宮の脇を通ると後に豊前街道となる道と重なる。京町台地に上れば当時は立田山が手に取るように見えたに違いない。在任中、大宰府には何度か往来があったかもしれない。
 また立田山西麓にも、蚕飼(子飼)から鞠智城の脇を通って大宰府に向かう車路(くるまじ)と呼ばれる官道もあった。そちらは立田山を間近に見ることができただろう。



清原元輔の歌碑(藤崎八旛宮境内)


歌碑の解説プレート


清原神社(北岡神社の飛地境内)


清原神社の祠に納められた座像四体


「飽田国府」のあった場所と推定されているKAB(熊本朝日放送)。


熊本朝日放送の位置



薬師坂(大宰府へ向かう官道の一部)


茶臼山時代の藤崎八旛宮配置図(上が東)


京町台から望む立田山


立田山西麓の官道(車路)