Mars&Jupiter

おおくぼっちの屋根裏部屋へようこそ!

外山雄三の管弦楽のためのラプソディを聴きながら横浜から和田町まで歩く

2007-09-20 09:34:26 | 古典~現代音楽日本編
昨日は、横浜駅から和田町まで歩きました。
途中聴いた曲は、外山雄三の管弦楽のためのラプソディ。
彼は1931年東京生まれで、
東京藝術大学の作曲科を卒業している。
私からみると作曲者としてより、
指揮者としての活躍が印象深い。
管弦楽のためのラプソディは1960年に作曲された曲で、
NHK交響楽団の欧米ツアーに指揮者として行った彼が、
アンコールピース用に作ったものだということである。

拍子木の連続して早く叩く音にあわせて、
鐘と打楽器が加わり、「あんたがたどこさ」の節で曲が始まる。
馬子唄や「ソーラン節」などなじみ深い日本の民謡が
随所に登場し、親しみやすい曲となっている。
そういうことからして平易な曲のようにも見えるが、
複数の主題が絡み合う部分などいろいろ工夫してあり、
音楽的にも楽しめる曲となっており、
各楽器の持ち味をうまくひきだしていると思う。

中学生・高校生の頃に日本の民謡などを聴くと
何だかつまらなく、退屈で嫌だなあと思ったことがあった。
しかし、久しぶりに40代前後に民謡を聴いた時に、
実にそれらの曲に逆に新鮮味を感じることがあった。
時が経つと、曲を聴いた印象が変わるというのがよくある。
そういう意味からして音楽の世界は奥が深い。
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大木正夫の日本狂詩曲を聴きながら和田町から横浜まで歩く

2007-09-19 06:55:55 | 古典~現代音楽日本編
子どもの頃、私の父はお酒を飲んでほろ酔い気分になると
よく尺八やハーモニカなどの楽器を演奏することがあった。
見よう見まねで私も尺八を吹いたことがある。
そんなこともあって、私は大学に入ってから、
サークルの勧誘で、邦楽部に入り、尺八に本格的に挑戦した。
尺八には琴古流と都山流という二つの流派があり、
私は琴古流の尺八を習い、毎月大学に教えに来る先生に
本曲(虚無僧などが吹いたりするような尺八本来の曲)と、
外曲(琴や三味線などと合奏するための一般的な曲)を
4年間にわたって教わったものである。
なぜ、こんな話から始めるかというと、
今回とりあげる1901年静岡生まれの大木正夫は、
私と同じように少年時代に尺八ばかりを吹いていたようで、
その辺りが一致しているということからである。

昨日は、和田町から横浜駅まで歩きました。
昨日は曇りがちの天気だったので歩きやすかった。
途中聴いた曲は、大木正夫の日本狂詩曲である。
彼が育った静岡は首都圏などと比較すると
当時の状況の中であまり音楽的環境には恵まれてなかった。
当時彼が育った静岡市ではピアノが3台しかなかったそうである。
オーケストラなどの練習する音も聴こえず、
聴こえてくるのは尺八や筝を練習する音だったらしい。

そんな中、彼にとっては他の音楽と接する方法は、
SPレコードぐらいしかなく、そこから義太夫、長唄などの邦楽、
そしてクラシックの名曲の数々を知っていったようである。
それらの体験を通し、オーケストラの世界に憧れ、
自分も交響曲や管弦楽曲を作曲したいと思ったようだ。
彼は中学卒業後大阪高等工業学校の応用科学科に進み、
科学技術者になろうと思っていたので、
音楽は最初趣味の範囲に過ぎなかったが、
関西の大都市圏での生活は彼の音楽経験を豊かにし、
級友らと作った合唱団で合唱に親しみ、
学校卒業後も東京で丸善石油に技術者として勤めながらも、
声楽の勉強をし、和声等の音楽理論は独学で習得していった。
その後長野の上田市でしばらく教員生活をし、
その後教職を捨て東京に戻った大木は、
石川義一という人物に弟子入りをしている。

彼がオーケストラ作品を世に発表したのは1930年である。
「交響無言詩」という作品だったようだが、
その後彼は自分の作品を自作自演で発表し続けた。
日本狂詩曲は1938年にラジオで作曲者の指揮で初演された。
この曲は底抜けに明るい作品であるが、
ある意味ではまだいろいろなものを吸収している最中の曲で、
彼らしい持ち味が発揮されてはいないのかもしれない。
曲は「木曾節」をモティーフにしたりし、
日本的な部分を断片的にみせながらも曲は西洋的である。
途中、ストラヴィンスキーのペトルーシュカを思わせるフレーズが、
ピアノ・パートのところで登場するのはおもしろい。
きっと大木が当時SP盤か何かで聴いて印象に残り、
その影響として、曲の中に入ったのかもしれない。
しかし、そして日本の将来に理想的なものを求め、楽天的に考え、
音楽作品を残していた彼が苦悩するのが終戦後である。
彼は、厳しく自己批判をする一方で、
それを乗り越えていかなければいけなかった。
作曲家も歴史に振り回されると大変なものである。
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黛敏郎のバレエ音楽「舞楽」を聴きながら横浜から和田町まで歩く

2007-09-18 05:22:05 | 古典~現代音楽日本編
昨日は、横浜駅から和田町まで歩きました。
そのあと天王町近くの居酒屋に行ったのだが、
そのお気に入りの店がつぶれていてショック。
つくづくお店が長い間営業を続けるのは難しいのだなと思う。

途中聴いたのは1929年生まれの黛敏郎の作品。
彼の経歴は、以前ブログで書いたので省略する。
彼の作品はスマートでセンスがいいと思う。
バレエ音楽「舞楽」は1962年に作曲された。
この作品はニューヨーク・シティ・バレエ団から
バレエ音楽の作曲を依頼され、生まれたものである。

曲は第1部、第2部で構成され、
松平や早坂ともまた違う彼独特の手法により、
雅楽の世界を管弦楽によって現代に蘇らせている。
第1部の冒頭から伝統的な西洋的音階とは違う
アナログ的な音の変化が模倣される。
雅楽の音楽を模しているように見えながらも、
それとは違う現代音楽なのだということも感じさせる。
音楽はダイナミックに盛り上がり、
雅楽にみられる宮廷の優雅さを感じさせながらも、
ピアノやシロフォンも加わり、その宮廷的な旋律に絡み合い、
音楽はその後静かに音量を落としてゆき、
ヴァイオリンによるグリッサンドの上下の動きが
幾度も繰り返されていく中、神秘的な雰囲気を漂わせつつ、
第1部の最後は、静かに終わる。

第2部は、打楽器が静かにリズムを刻み音楽が始まる。
これにピアノやヴァイオリンが加わり、
管楽器が旋律らしい音型を奏でる。
この旋律は西洋的でありながらも、
雅楽の楽器風に音を揺らしていく。
音楽はゆっくり進行しながら、
徐々にその音量をあげていく。
繰り返し一つのフレーズを続けながら、
突如中間部に激しくテンポの速い音楽になる。
この乱舞のような音楽が終わると、
今度は第1部の王朝的な主題が再現される。
壮大な音楽がうねるようにして展開され、
最後は華やかな響きの中で音楽が終わる。

こうやって、色々な日本の作曲家の作品を聴くと、
雅楽一つの題材をとっても、
その作曲家が生きた時代背景により、
それぞれのアプローチの仕方が違うのだなと思う。
松平、早坂、黛の3人の作曲家の作品を
比較して聴いてみると、それがよくわかる。
三人の作品に優劣をつけることはできないが、
個人的な感覚でいうと黛の作品が一番いいかな。
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早坂文雄の左方の舞と右方の舞を聴きながら横浜から和田町まで歩く

2007-09-17 07:33:43 | 古典~現代音楽日本編
昨日は、横浜駅から和田町まで歩きました。
途中聴いたのは1914年生まれの早坂文雄の作品。
仙台に生まれた彼は、家の事情で北海道に移った。
父は家族を捨てて大阪へ行き、
母は心労のため、彼が17歳の時に亡くなった。
大変な家庭環境の中、彼は中学卒業後働いた。
1932年には伊福部昭などと知り合い、
そのあたりから作曲に興味を持つようになった。
その後札幌のキリスト教会のオルガニストとなった彼は、
1936年に作曲家として注目されるようになる。
ラジオ番組で彼の管弦楽曲が取り上げられ、
映画音楽の作曲家として起用されるようになる。

左方の舞と右方の舞は1941年に作曲された。
松平と同じように曲名は雅楽から由来している。
ただ松平のように舞楽曲を主題するのではなく、
雅楽の左舞と右舞の様式を意識しながら
日本的な主題を使い、展開していく。
その曲の途中にみられるリズムの扱いは、
プロコフィエフのバレエ音楽「ロミオとジュリエット」
のところに影響を受けたのではないかと思ったりもする。

序曲ニ調は、1939年に作曲されている。
冒頭から小太鼓が叩くリズミに乗って行進曲風に展開されている主題は、
日本的でありながらも、その音楽は印象主義的である。
ラヴェルのボレロのように主題は繰り返されながら、
徐々に管弦楽の厚みを増しながら展開されていく。
最後の行進曲風に展開しつつ、勢いを増していくあたりは、
一瞬ヒナステラの「エスタンシア」を感じされる。

左方の舞と右方の舞のCDの解説(文章は片山杜秀氏)では、
アジア諸方の合一化という点では、このような戦時下の曲は、
音楽版「大東亜共栄圏」を具現化していると指摘している。
その辺は音楽そのものを聴いてすぐに私の頭の中では直結しないが、
とても理想主義的な音楽であるという聴いた印象からすると、
そのなのかもしれないなあと思うのである。
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松平頼則の左舞、右舞を聴きながら二俣川から西谷まで歩く

2007-09-16 06:18:37 | 古典~現代音楽日本編
昨日は、二俣川駅から西谷駅まで歩きました。
途中聴いたのは1907年生まれの松平頼則の作品。
由緒正しき家柄に生まれながらも、
国家主義的な風潮を嫌い、権威主義を嫌い、
ロマンティシズムやセンチメンタリズムを嫌い、
人工的なもの、個人主義的なものを作品に求めたようだ。
その中で西洋音楽と日本音楽の融合という点から、
彼がその素材にとして求めたものが雅楽であった。
そう考えるとなるほど納得できるところがある。

ピアノとオーケストラのための主題と変奏は1951年に作曲された。
盤渉調の越天楽を主題に使っている。
これは一般的によく聴く平調の越天楽とは旋律がやや違う。
それを主題にして変奏していくのだが、
その変奏はある時にはジャズ風になり、
その変奏の手法は興味深いものである。

ダンス・サクレ(振鉾)、左舞、右舞、ダンス・フィナル(長慶子)
それぞれは、1957年から1959年の間に作曲された。
彼の作風は1950年半ばから大きく変わった。
雅楽をベースとする点には変わらないが、
その時代の西ヨーロッパにみられた前衛的な音楽を取り入れ、
より個性的な音楽になったともいえよう。

私は高校時代に雅楽のレコードを買って、
その世界に一時魅了されたことがあった。
しかし、その雅楽と前衛音楽を融合させようとした
日本人の作曲家がいたことは、知らなかったので、
なるほど、こんな音楽になるんだなあという点で興味を持った。
その発想やアイデアには感心するし、
どうして雅楽を彼が選んだのかを知ると、なるほどと思うのである。
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