ランシモ

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家の記憶

2010-05-23 13:37:58 | 日記・エッセイ・コラム

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広島県高田郡向原町坂出口字4290。

中国山地を広島から芸備線で三次に向かう途中。

昭和2年だから、今から90年ほど前、、、父は山奥の尋常小学校にかよっていた。

正装しているから、入学式か卒業式か?

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昭和19年、太平洋戦争ころの我が家。

山間の貧農だった、、、。

十数年前に訪ねたところ、周りの方達は、代替わりしたけど住んでいらっしゃいました。

昭和20年には兄が生まれているから、東京に出たのだろう。

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昭和20年ごろに広島疎開から戻った両親は、戸山ヶ原に無断で住みついた。

東京は焼け野原だったんです。

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高田の馬場に陸軍の練兵場跡地があって、国の土地だったが、そこを不法占拠して一軒家を建てた。

不法占拠のバラックでも、マイ・スイート・ホームだったんでしょう。

太平洋戦争当時の日本は議員制をとっていたが実際は軍事国家だった、いまの北朝鮮となんら変らない。国のあり方そのものがムチャクチャだった。

飛躍しますが、、、土地や何かの所有権、知的所有権というものを、これからは撤廃ないし制限する必要があると思います。奇想天外な意見と思いますが、先進国や先駆者の既得権が大きすぎると、、、持つもの持たざるものの固定化が進み問題です。世界の貧困分布をバランスよく解消するにはコレしかない気がします。

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戦後も落ち着いてきて、昭和24年に(1949年)にshimoが誕生。

坊主頭が私です。

ヤギを飼っていたので、その乳で私は育った。

昨年、父がなくなり、母が思い出として写真を整理していました。

そうそう、私の母は広島の原爆を近くの橋の下にいて目撃した。

叔母や叔父達は、広島がタイヘンな事になったと、翌々日に救援で広島に入った。焼け野原になった広島から着の身着のままで逃げてくる人々とすれ違い、恐怖を感じたが、「助けなきゃ」と使命感を持っていったそうです。

それで、叔父叔母達は原爆手帳を持っている。でも皆さん丈夫で、直接被爆しなかったからなのか発症はない。

コメント (4)
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