宮城県山元町は、先の東北大震災で津波に町を流されたりして大被害を受けました。
県と山元町では被災者用の住宅を建設し、被災した方々が入居。
「つばめの杜」と名付けられた住宅は、線路を敷きなおされた常磐線の近くにあります。
津波の威力はすごくて、常磐線は線路ごと列車も駅舎もずたずたに流された。
それで、海近くにあった線路を山側に敷きなおした。
住宅地も海近くは居住禁止にして、山側に新規に町営住宅地を作った。
分譲もあるが借家もある。
2011年の災害直後の数か月は、釜石や気仙沼の映像がすごくて注目が全てあちらにいって、救援活動やボランティアが足りなかった。それに暴発した福島第二原発が比較的近かったので、マスコミも敬遠して入らなかった。被害の大きさの割に報道されなかった地区でした。
今回は、復興住宅(町営住宅)で町民による文化祭があると聞いて駆け付けました。
集会所も真新しい。
自然発生的にできたタウンじゃないので、こんな形の集会場は必要です。
居住者は、基本的に災害に合われた方たちだけです。
つばめの杜とは、、、仙台は杜(もり)の都って言われますから、、、杜は森と若干意味合いが違って、神社などのような閉ざされた林という意味合いがあるようです。
学校の文化祭をスケールダウンした感じです。
出展者は流されたり破壊されたりした今までの生活から、新しい町営住宅で生活を始められて、、、どんな感慨があるやかも。
そんな中で、手芸や絵の制作に取り組んでいたり、その発表の場を設けて町内親睦ですねーーー。
文化祭に出展されている方のお話を聞くと、新しい生活に前向きに生きていて、、、。
みなさん年配者が多いのは当然のことで、伴侶をなくされた方が多い!
それで新しい生活を始めなきゃいけないのだから、その心身ダメージたるや相当です。
男やもめの方は、どうしてもお酒に飲まれる方が多いようだ。
この雪まじりの寒空の中、玄関外の植え込みの花壇に、座り込んで呆然としている爺がいらした。
あれじゃ体が凍えて死んじゃうじゃないかーーー!
なんと声をかけていいかわからないが、大声で挨拶しておきました。
身につまされるような、、、。
集会所ではいろんな企画を出して、家の中で1人っきりにならないように誘い合っています。
男はとくに7年前までは1軒家の主人だったのだもの、、、。
猫・百面相?
刺繍や縫物です。
手芸や物作りをしていると、没頭しますから全てにいいのでしょう。
端切れから楽しい人形ができました。
こう見てくると、逆境には女性が強そうだなー。
逆境に耐性があるというか、おかれた環境でも生きて行くたくましさがある。
男は妻をなくすと、、、からっきし元気がなくなるのが常、、、むろん例外はありますけどね、元気はつらつ爺ちゃんなんてねーーー。
猫爺さんのイラストに皆さん興味津々で、お話に耳をそばだてていました。
こうなると、、、猫爺先生ですね。
額縁に入れると、より偉そうに見えます。
布の端切れで作られた大作です。
今回、、、見て回ってお話を聞いて、、、1番感激したのがこの方が作られた、、、気仙沼港の思い出の布切れイラスト。
気仙沼に生まれて山元町に嫁いで50年ぐらいになるだろう。
気仙沼の当時の思い出でを、布の端切れでイラストを描かれていた。
気仙沼は、、、東北沿岸の中でも災害が一番ひどかった場所の一つで、昔の思い出の街は無に帰しています。
その遠くの思いを、宮城県山元町の町営住宅で、こつことと描き上げた。
山元町の町営住宅に入居しているということは、家を失ったということですから、、、その思いはいかばかりか。
思いでの気仙沼はがれきになり、50年間住んだ山本町の家(家族も?)を失い、、、なにを思って生きていくのか。
女性は強いなーと思います。
淡々と歴史の流れに逆らわず、ただ流れに乗って生きていく、、、。
女性は、力や大声を出したりというのではない、どんな逆境でも生命体として生きていくことができる。
痛恨のミスは、その気仙沼の思いでの布イラストを撮影してこなかったこと!
よくあるなーーー痛恨ミスが、、、。
お話だけ聞いて、うなづいていただけじゃ失格ですね。
猫先生と生徒サン。
山元町の町営住宅はこんな感じです。
ボールペンの外装を木端で作られました。
これは男性の作品で、売り物のように綺麗な仕上がりでした。
木材は、、、もしかして元の家にあった床の間材かな?
このように元の素材と違う用途に使うのを、アップサイクルというそうだ。
リサイクルは、細かく砕いたり溶解して原料に戻すことで、リメイクは同じ用途のものに作りかえることをいうそうだ。
新しい生活を作っていくことが復興ですから。
最後に、、、町民に配布された緊急ラジオ。
この山元町では、津波の時に緊急町内放送が流れたが、音が割れて聞き取れなかったそうです。
緊急放送は何を言っているのか、全くわからなかったそうだ。
たぶん、他の町々も同じだったのではないか?
緊急放送設備はあっても、机上ではOKなことが、実際の現場では不具合が起きることがある。
この緊急ラジオもさほどの意味はないだろう。
ここ5年、10年は災害の記憶があるからいいけど、50年、100年経った時には、このラジオ自体が消滅しているだろうし、記憶も薄れてどうなっているかわからない。
なんだか、付け焼き刃みたいなグッツです。
もしかして、業者さんをもうけさせただけ?
ともあれ、山元町の方々は立ち上がって歩き始めていました。
つばめの杜(PDF)
http://www.town.yamamoto.miyagi.jp/uploaded/attachment/6887.pdf#search=%27つばめの杜+文化祭%27
2011年5月 津波の後かたずけにいく 常磐線の線路、鉄橋がなくなっていた
http://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/89d0756555ff74499e7d3b70f11afd85
2011年 東北震災直後の写真です
常磐線の線路は海側を通っていたので、線路はほとんどが切られて流されていた。
だいたい元の位置から500mは流されている。
国道6号線
海からはかなり離れていたが2~3kmだが、津波は国道を超えていった。
ただ津波の威力は、ここまで来ると弱くなっていたようだ。
船でもぶつかったのか鉄筋の電信柱がボキボキに折れていた。
学校の2階ぐらいまで水は来たようです。
何ともすえたような匂いがします。
この鉄塔が倒れて原発へ電力供給できなくなって、原発の予備発電機の燃料が1日で無くなり、それで冷却不可能になり爆発した。
いろいろな要因があって原発が爆発したのだ。
考えてみれば予備の発電機の燃料が、1日分しかなかったのもドジな話。
鉄塔が倒れるということも予測していなかったようだ。
原発も鉄塔も電力会社のものだし、、、。
原発の炉心自体に損傷はなかったというけど、他の要因が重なったわけだ。
家の土台だけ残して、根こそぎ流していった。
ここだって海からは1.5kmは離れている。
大変な災害だった。
日本は天災の多い土地なので、もう一度対策をとるきっかけにはなっただろう。