認識とパタン, 渡辺慧, 岩波新書(黄版)36, 1978年
・平易な語り口ながら内容は骨太。「パタン認識」に関わる人間必読の書、と言ってもいいくらいの素晴らしい本だと思いますが、新書としては内容がやや高度で一般受けしないためか、残念ながら現在絶版。
・30年前も今もたいして問題は変わっていないのが驚き。
・「パタンという言葉は最近では日本語の中に完全に定着してしまいました。しかし、この言葉に定義を与えることは、欧米人にとっても、日本人にとってもさほど容易なことではありますまい。私はこの小冊子の中でこの言葉に簡潔な定義を与えることを目的とはせず、その観念が現れて来て一役を演じる科学的・哲学的な文脈を記述して見たいと思います。」p.i
・「こういう言葉の用法を見ておりますと、二つのことに気がつきます。一つにはパタンというのは、ものの在り方が、無秩序、乱多(ランダム)でなく、何か形を整えていることを指していることです。第二に、それは他の事例と共通した何かを持っていて、一つの類型と見なされることです。」p.2
・「この事例は、パタンというものは必ずしも、外界から人間にくる物理的刺激だけで決まってくるものではなくて、個々の人の見方にもよるということを示しております。」p.4
・「そういうわけで、パタンを見るということは、大体、何々を何々と見なすということに相当しているといってよいでしょう。」p.9
・「「パタン認識」というのは、要するに、個物のパタンを言いあてるということで、特にこれをコンピューターにやらせるときに用いる用語です。」p.13
・「これでパタン認識をやっている技術者が、「世の中のことでパタン認識でないものはない」と豪語するのも、あながち手前味噌ともいえないことがわかっていただけたかと思います。しかし、この豪語をそのまま額面どおりいただくわけにもいきません。この本では、どういう意味で「すべてはパタン認識である」といえるかを考えていくことにします。」p.22
・「パタン認識の英語に RE cognition という字がいつも使われているのが意味深長です。もちろんレコグニションというのは「認める」という意味ですが、そこにある RE にこだわれば「再認識」と訳しても誤りではありますまい。」p.26
・「実際に役に立つパタン認識とは、分類の実例をもとにして新しい実例を分類することにほかなりません。」p.30
・「一体、不思議なことは、子供でも、大人でも、文明人でも、未開人でも、何でも物の画を画けというと必ずその物の輪郭を画きます。輪郭などはありはしないのになぜまず輪郭を画くのでしょう。」p.44
・「この五種以外に、非常に信号速度の速い一群の繊維があり、その特徴は、他の繊維では信号が目から頭に向かって伝わっていくのに反して、逆に頭から目に向かって伝わっていくことです。その役割はわからないながら、何か「カント的」な解釈を許しそうであります。」p.62
・「哲学の歴史では、そういう「類」をどう見るかという問題について、だいたい三つの種類の立場が認められております。一つには、類というものが実在するとする立場、これを「実念論」(realism)と申します。その逆の立場は、机とか犬とかいう類そのものは実在するのではなく、単に「名前」にすぎないとする唯名論(nominalism)です。その中間にある立場は、類というのは我々を離れて実在するものでもなく、また単に便宜上の言葉の使い方でもなく、類は我々の意識の中にある「観念」「概念」であるという立場で、普通、概念主義(conceptualism)とよばれております。哲学の歴史、特に古代・中世の歴史はこの三者の三つどもえの論争の歴史であるといっても過言でないということもできます。」p.73
・「醜い家鴨の仔の定理 「二つの物件の区別がつくような、しかし、有限個の述語が与えられたとき、その二つの物件の共有する述語の数は、その二つの物件の選び方によらず一定である」」p.101
・「パタン認識には二種の問題があって、その一つは、「新しく類を創造すること」すなわちクラスタリングであり、第二は「知られた類に分類すること」すなわちパタン・レコグニションであるとは前に申し上げました。」p.108
・「どんな方法でも、パタン認識の仕事をしてみるとすぐ気がつくことですが、一般に点の数が少なすぎて、次元数が多すぎるということでこまるのです。点の数のほうはできれば増やすことができますが、次元数が多すぎるのはどうもちょっと手がつきません。この問題が出発点となって私がやったことの荒筋をお知らせしましょう。」p.139
・「その方法は私が始めたもので、SELFICという名をつけて1963年にチェコスロバキアのプラハで発表したのです。今では常套手段となってしまって、それがSELFICという名前を初め持っていたことも、私が初めて導入した方法であることも忘れられ始めています。しかし、いまでも私の原論文を引用してくれる良心的な著者もいます。」p.140
・「しかし、情報過剰は現代になって始まったことでしょうか? また進化の過程で人間ができてから始まったことでしょうか? 私はある意味では生命が生まれて以来情報と闘ってきているようにさえ見えます。生物に環境から降りかかってくる情報を運んでいる物理的刺激は無限に近くあります。生物の感覚器官は、情報を感受するその能力に感心するより、それがいかに不用の情報を捨ててくれるかに感心すべきようにさえ見えます。」p.174
・「コンピュータは論理的推論はできますが、帰納的推論はできません。(中略)これに反して、人間は本質的に帰納的です。人間に帰納ができるのは、人間における観念は、パラディグマ的象徴によって成立しているからです。人間の観念は、ですから常に帰納的一般化の準備があるのです。」p.183
・「人間の言葉の人間の思想における重要性は、最近の哲学的傾向にも明らかですが、人間の言葉が抽象的な概念を代表しているという考えは大変な間違いです。言葉というものは人間のパラディグマ的象徴を代表したものであることを銘記すべきだと思います。」p.186
・平易な語り口ながら内容は骨太。「パタン認識」に関わる人間必読の書、と言ってもいいくらいの素晴らしい本だと思いますが、新書としては内容がやや高度で一般受けしないためか、残念ながら現在絶版。
・30年前も今もたいして問題は変わっていないのが驚き。
・「パタンという言葉は最近では日本語の中に完全に定着してしまいました。しかし、この言葉に定義を与えることは、欧米人にとっても、日本人にとってもさほど容易なことではありますまい。私はこの小冊子の中でこの言葉に簡潔な定義を与えることを目的とはせず、その観念が現れて来て一役を演じる科学的・哲学的な文脈を記述して見たいと思います。」p.i
・「こういう言葉の用法を見ておりますと、二つのことに気がつきます。一つにはパタンというのは、ものの在り方が、無秩序、乱多(ランダム)でなく、何か形を整えていることを指していることです。第二に、それは他の事例と共通した何かを持っていて、一つの類型と見なされることです。」p.2
・「この事例は、パタンというものは必ずしも、外界から人間にくる物理的刺激だけで決まってくるものではなくて、個々の人の見方にもよるということを示しております。」p.4
・「そういうわけで、パタンを見るということは、大体、何々を何々と見なすということに相当しているといってよいでしょう。」p.9
・「「パタン認識」というのは、要するに、個物のパタンを言いあてるということで、特にこれをコンピューターにやらせるときに用いる用語です。」p.13
・「これでパタン認識をやっている技術者が、「世の中のことでパタン認識でないものはない」と豪語するのも、あながち手前味噌ともいえないことがわかっていただけたかと思います。しかし、この豪語をそのまま額面どおりいただくわけにもいきません。この本では、どういう意味で「すべてはパタン認識である」といえるかを考えていくことにします。」p.22
・「パタン認識の英語に RE cognition という字がいつも使われているのが意味深長です。もちろんレコグニションというのは「認める」という意味ですが、そこにある RE にこだわれば「再認識」と訳しても誤りではありますまい。」p.26
・「実際に役に立つパタン認識とは、分類の実例をもとにして新しい実例を分類することにほかなりません。」p.30
・「一体、不思議なことは、子供でも、大人でも、文明人でも、未開人でも、何でも物の画を画けというと必ずその物の輪郭を画きます。輪郭などはありはしないのになぜまず輪郭を画くのでしょう。」p.44
・「この五種以外に、非常に信号速度の速い一群の繊維があり、その特徴は、他の繊維では信号が目から頭に向かって伝わっていくのに反して、逆に頭から目に向かって伝わっていくことです。その役割はわからないながら、何か「カント的」な解釈を許しそうであります。」p.62
・「哲学の歴史では、そういう「類」をどう見るかという問題について、だいたい三つの種類の立場が認められております。一つには、類というものが実在するとする立場、これを「実念論」(realism)と申します。その逆の立場は、机とか犬とかいう類そのものは実在するのではなく、単に「名前」にすぎないとする唯名論(nominalism)です。その中間にある立場は、類というのは我々を離れて実在するものでもなく、また単に便宜上の言葉の使い方でもなく、類は我々の意識の中にある「観念」「概念」であるという立場で、普通、概念主義(conceptualism)とよばれております。哲学の歴史、特に古代・中世の歴史はこの三者の三つどもえの論争の歴史であるといっても過言でないということもできます。」p.73
・「醜い家鴨の仔の定理 「二つの物件の区別がつくような、しかし、有限個の述語が与えられたとき、その二つの物件の共有する述語の数は、その二つの物件の選び方によらず一定である」」p.101
・「パタン認識には二種の問題があって、その一つは、「新しく類を創造すること」すなわちクラスタリングであり、第二は「知られた類に分類すること」すなわちパタン・レコグニションであるとは前に申し上げました。」p.108
・「どんな方法でも、パタン認識の仕事をしてみるとすぐ気がつくことですが、一般に点の数が少なすぎて、次元数が多すぎるということでこまるのです。点の数のほうはできれば増やすことができますが、次元数が多すぎるのはどうもちょっと手がつきません。この問題が出発点となって私がやったことの荒筋をお知らせしましょう。」p.139
・「その方法は私が始めたもので、SELFICという名をつけて1963年にチェコスロバキアのプラハで発表したのです。今では常套手段となってしまって、それがSELFICという名前を初め持っていたことも、私が初めて導入した方法であることも忘れられ始めています。しかし、いまでも私の原論文を引用してくれる良心的な著者もいます。」p.140
・「しかし、情報過剰は現代になって始まったことでしょうか? また進化の過程で人間ができてから始まったことでしょうか? 私はある意味では生命が生まれて以来情報と闘ってきているようにさえ見えます。生物に環境から降りかかってくる情報を運んでいる物理的刺激は無限に近くあります。生物の感覚器官は、情報を感受するその能力に感心するより、それがいかに不用の情報を捨ててくれるかに感心すべきようにさえ見えます。」p.174
・「コンピュータは論理的推論はできますが、帰納的推論はできません。(中略)これに反して、人間は本質的に帰納的です。人間に帰納ができるのは、人間における観念は、パラディグマ的象徴によって成立しているからです。人間の観念は、ですから常に帰納的一般化の準備があるのです。」p.183
・「人間の言葉の人間の思想における重要性は、最近の哲学的傾向にも明らかですが、人間の言葉が抽象的な概念を代表しているという考えは大変な間違いです。言葉というものは人間のパラディグマ的象徴を代表したものであることを銘記すべきだと思います。」p.186