高円寺純情商店街, ねじめ正一, 新潮文庫 ね-1-1(4845), 1992年
・昭和30年代後半(?)の、とある商店街の日常。江州屋乾物店の一人息子である正一の眼を通した風景。六編収録。直木賞受賞作。この小説のおかげで高円寺の商店街が名前を『純情商店街』に変えたとのこと。
・ホッと肩の力が抜けるような、気楽に読める小説。『少年H』とかぶる印象。
・著者はテレビで見知った顔の人物でしたが、小説を書く人だとは知りませんでした。考えてみると職業不詳の人物でした。
・「かつを節にカビはつきものだ。かつを節でもいいものにはピンク色のきれいなカビが生え、あまりよくないものには黒っぽいカビが生えている。カビがきれいなほど、かつを節も上質なのである。見てきれいなだけでなく、いいかつを節のカビは店に出す前に布巾でこするとスムーズに取れるが、悪いかつを節のカビはこすってもこすってもこびりついたようになっていて取れにくい。カビと長い時間つき合っていると、カビがかつを節のカラダを守っている皮膚のように感じられてくるのが不思議だった。こうなると面倒くさいはずのカビがいとおしくなってきて、カビがかつを節の健康のバロメーターのように思えてくる。カビが生えないかつを節は信用できない気がしてくる。ひと箱五十本のかつを節を全部調べ終えるころには、この世で好きのものは何ですかと質問されたら「カビです」と答えたくなる気分に正一はなっていた。」p.24
・「乾物屋の蝿取紙はなんだか拭き忘れたお尻のウンコみたいだし、わざわざ自分のところでバイキンを飼っているのを宣伝しているみたいだ。色からして茶色くて汚らしい。そう考えるといつも気持ちがどんどん暗くみじめになってくる。」p.51
・「ばあさんが正一に言ったとおり、六月は乾物屋の地獄だ。 氷砂糖がガチガチにくっついてガラス瓶の口から取り出せなくなり、するめの反りが激しくなり、卵は腐りやすくなり、煮干しは湿気を含んで鱗が光って見え、かんぴょうの漂白のにおいがきつくなる。かつを節機で花かつをを削ってもふわりと落ちず、粉かつをは嵩が減る。椎茸は傘の裏のヒダヒダが立って柔らかい毛がそよぐような感じになり、海苔の赤みが増し、反対に青海苔は黒ずんでくる。」p.64
・「それだけではない。父親がいちばん我慢できないのは、客が落とす金額の小ささだった。「百円のものを売っても、一万円のものを売る店と同じに "いらっしゃいませ" "ありがとうございます" だ。冗談じゃない。百円の麩ひと袋でウチに入るのは十五円、店の電気代やら乾燥剤やらの経費を差っ引いたら十円しか残らない。え、正一、十円だぞ。今時乞食だってたった十円じゃあいい顔はしないだろうよ」」p.127
・「「消防車がきたらまずいことでもあるの」 「そりゃ、まずいさ」 父親が即座に言った。 「消防車に放水でもされてみろ。ウチの雨戸なんかひとたまりもなくぶっ飛ばされて、店の品物が全部ダメになるじゃないか」 「火事で恐いのは火だけじゃないのよ。ウチみたいな商売じゃ、水だって恐いんだから」 「乾物屋とか呉服屋とか布団屋とかは、水がかかったら一巻の終わりっていう商売だからな」」p.212
・あとがきより「小説は、全身のコトバの筋肉を目いっぱい総動員しないと書けない。コトバの全身運動に、小説ほどいいものはないと思った。」p.220
・以下、解説(秋山駿)より「こういう描写の細部が光る。花かつをから粉かつをを作る手順(中学生の主人公の少年がそれをする)を述べたものだが、こんなことにはぜんぜん無智な私にも、その指先の感覚が、自分の身にも痛いように移ってくる。これが描写である。物語の情況説明や、ノンフィクションの記述とは違う。つまり、細部がそれ自身で生きているのだ。 近来の文芸誌小説=いわゆる純文学が見失ってしまったのが、この描写である。」p.235
・「日本の近代文学は、二葉亭四迷以来、なぜ「普通・平凡」を描く必要があるのかと問い、いかなる描写の手法を発揮すれば現実の真形に達するのかと懐疑し、夥しい苦労を重ねてきた。これが日本近代文学の正統の流れである。この小説の最初の二編における描写は、その正統な流れの末端に立っている。」p.237
?ルバシカ(ルパシカ)(ロシアrubaska)〈ルパーシカ〉ロシア民族衣装で男子が着用するブラウス風の上着、身頃は全体にゆったりとした型で、詰襟、前明きは左脇寄りで途中までボタン留めになり、襟や袖口などに刺繍(ししゅう)が施してある。
・昭和30年代後半(?)の、とある商店街の日常。江州屋乾物店の一人息子である正一の眼を通した風景。六編収録。直木賞受賞作。この小説のおかげで高円寺の商店街が名前を『純情商店街』に変えたとのこと。
・ホッと肩の力が抜けるような、気楽に読める小説。『少年H』とかぶる印象。
・著者はテレビで見知った顔の人物でしたが、小説を書く人だとは知りませんでした。考えてみると職業不詳の人物でした。
・「かつを節にカビはつきものだ。かつを節でもいいものにはピンク色のきれいなカビが生え、あまりよくないものには黒っぽいカビが生えている。カビがきれいなほど、かつを節も上質なのである。見てきれいなだけでなく、いいかつを節のカビは店に出す前に布巾でこするとスムーズに取れるが、悪いかつを節のカビはこすってもこすってもこびりついたようになっていて取れにくい。カビと長い時間つき合っていると、カビがかつを節のカラダを守っている皮膚のように感じられてくるのが不思議だった。こうなると面倒くさいはずのカビがいとおしくなってきて、カビがかつを節の健康のバロメーターのように思えてくる。カビが生えないかつを節は信用できない気がしてくる。ひと箱五十本のかつを節を全部調べ終えるころには、この世で好きのものは何ですかと質問されたら「カビです」と答えたくなる気分に正一はなっていた。」p.24
・「乾物屋の蝿取紙はなんだか拭き忘れたお尻のウンコみたいだし、わざわざ自分のところでバイキンを飼っているのを宣伝しているみたいだ。色からして茶色くて汚らしい。そう考えるといつも気持ちがどんどん暗くみじめになってくる。」p.51
・「ばあさんが正一に言ったとおり、六月は乾物屋の地獄だ。 氷砂糖がガチガチにくっついてガラス瓶の口から取り出せなくなり、するめの反りが激しくなり、卵は腐りやすくなり、煮干しは湿気を含んで鱗が光って見え、かんぴょうの漂白のにおいがきつくなる。かつを節機で花かつをを削ってもふわりと落ちず、粉かつをは嵩が減る。椎茸は傘の裏のヒダヒダが立って柔らかい毛がそよぐような感じになり、海苔の赤みが増し、反対に青海苔は黒ずんでくる。」p.64
・「それだけではない。父親がいちばん我慢できないのは、客が落とす金額の小ささだった。「百円のものを売っても、一万円のものを売る店と同じに "いらっしゃいませ" "ありがとうございます" だ。冗談じゃない。百円の麩ひと袋でウチに入るのは十五円、店の電気代やら乾燥剤やらの経費を差っ引いたら十円しか残らない。え、正一、十円だぞ。今時乞食だってたった十円じゃあいい顔はしないだろうよ」」p.127
・「「消防車がきたらまずいことでもあるの」 「そりゃ、まずいさ」 父親が即座に言った。 「消防車に放水でもされてみろ。ウチの雨戸なんかひとたまりもなくぶっ飛ばされて、店の品物が全部ダメになるじゃないか」 「火事で恐いのは火だけじゃないのよ。ウチみたいな商売じゃ、水だって恐いんだから」 「乾物屋とか呉服屋とか布団屋とかは、水がかかったら一巻の終わりっていう商売だからな」」p.212
・あとがきより「小説は、全身のコトバの筋肉を目いっぱい総動員しないと書けない。コトバの全身運動に、小説ほどいいものはないと思った。」p.220
・以下、解説(秋山駿)より「こういう描写の細部が光る。花かつをから粉かつをを作る手順(中学生の主人公の少年がそれをする)を述べたものだが、こんなことにはぜんぜん無智な私にも、その指先の感覚が、自分の身にも痛いように移ってくる。これが描写である。物語の情況説明や、ノンフィクションの記述とは違う。つまり、細部がそれ自身で生きているのだ。 近来の文芸誌小説=いわゆる純文学が見失ってしまったのが、この描写である。」p.235
・「日本の近代文学は、二葉亭四迷以来、なぜ「普通・平凡」を描く必要があるのかと問い、いかなる描写の手法を発揮すれば現実の真形に達するのかと懐疑し、夥しい苦労を重ねてきた。これが日本近代文学の正統の流れである。この小説の最初の二編における描写は、その正統な流れの末端に立っている。」p.237
?ルバシカ(ルパシカ)(ロシアrubaska)〈ルパーシカ〉ロシア民族衣装で男子が着用するブラウス風の上着、身頃は全体にゆったりとした型で、詰襟、前明きは左脇寄りで途中までボタン留めになり、襟や袖口などに刺繍(ししゅう)が施してある。