「場」とはなにか 自然界の「力」の統一像を求めて, 都筑卓司, 講談社ブルーバックス B-363, 1978年
・物理学で扱う「場」についてのあれこれ。
・読んではみても、後に残るものが少なくほとんど素通りしてしまいました。内容があちこちに散ってしまっていて、つかみ所がないという印象です。
・「「もの」の全く存在しない空間に、「力」という感覚(?)だけが、まるでおばけのように伝わっていくということは、考えてみればまことに奇妙な事柄であり、電気力などは承諾できないとする人の方が、あるいはノーマルなのかもしれない。」p.6
・「物理学では、空間に物質があるかないか、だけを問題にしているのではない。空間が場になっているかどうか、もし「場」ならばそこにはどんなからくりがあるかが大きな関心事なのである。物質だけを対象とする他の諸学問と違って、空間の性質(つまり「場」)を重要視するところに物理学の特徴があるといってもいいのではなかろうか。」p.7
・「なお「場」とは英語の field を翻訳したものであり、日本に電磁気学をとり入れたとき、工学者は電界、磁界と称したのに対して、理学者は電場、磁場と言った。(中略)第二次大戦後まで、日本では同じ内容ものに二通りの字を当てていたが、現在ではほぼ電界、磁界に統一されている。」p.44
・「本書の目的は、「場」についてとおり一遍の説明をするのではなく、指摘されるように「場」とはなにかを(説明ではなく)解明しようと試みるものである。」p.58
・「物理学の本来の姿は、いつ(t)、どこで(x、y、z)物理量(Tとかρとか)がどんな値になっているかを調べる学問だといいきっていも、決して見当はずれではない。」p.65
・「空間をへだてて、AとBだけが問題なのではなく、中間にある空間に注目し、空間自体が「従来とは違ったものになる」という思考法に変わっていくのである。」p.76
・「結局……エルステッドによって電流が磁場をつくることが提唱され、ファラデー自身が十年をおいて、互いに裏表の関係にある二つの法則(磁場と電流から力を得ること。いま一つは磁場と力から電流を得ること)を発見したといっていいだろう。」p.86
・「科学というものは学問、つまり自然を知ることである。ケプラー、ガリレオ、ニュートンのころは自然現象を整理し、法則化することだった。その後、少しずつ技術が進歩してきたが、最初に経験を基礎にして機械、器具類が発明され、その原理を説明するために科学が用いられた。ところがファラデーの出現によって、発明と発見の順序が逆転した。まず原理が解き明かされ、それにのっとって機械が製作されたのである。このような意味でも、科学史の中でのファラデーの果たした役割りは大きく評価されなければならない。」p.88
・「ということになると、磁力線とか電気力線とかはもはや便宜だけの架空の産物ではなく、立派な「存在」だといえる。たしかにこれらには「重さ」はない。しかし重さがないということが物理的な意味で「なにもない」理由にはならない。磁場や電場は、物理学の目を通して見た場合には、気体や液体と同じように、"科学の対象物" として認知してやらなければならいのである。」p.95
・「クーロン力は、光と同じ速さで空間を走るのである。」p.97
・「物質ではなくエネルギーだというところが、一般にはなじみにくい。だから「場」とはなにか、という疑問が出てくる。たしかに考えにくい対象には違いないが、簡潔に述べよというなら、電気や磁気に力をおよぼす特殊な空間、ということになろう。電気にも磁気にもあるいは質量にも、さらにはその他いかなるものに対しても何の作用もしない空間こそ、物理的意味での "本当の空間" である。このような真空こそ、物理学の(いや自然科学一般の)対象にはなり得ない。」p.98
・「電波というと、これまでの静電気や磁石と違っていささかむずかしい話のような気がするが、何のことはない。電場Eと磁場Hとが、いずれも電波の進行方向と直角の方向に揺れ動いて走っていく現象にすぎない」p.105
・「液体中の音速は毎秒千~二千メートル、固体中では二千メートル以上にもなる。」p.106
・「ファラデー自身は実験化としては他人のおよばない天稟の才を発揮したが――だから当時の人たちは「おそらくファラデーの目には、電気力線や磁力線が見えたのだろう」と語り合った――、二十歳になって初めて科学の勉強にとりくんだ彼は、数学には縁がとぼしかった。一説によると、彼は三角関数も知らなかったと伝えられている。」p.112
・「エーテルは最初光波の媒体物として考えられたものであるが、宇宙空間を論じるにおよんで、その存在の是非は大問題になってしまった。間接的な方法であるにせよ、エーテルの実在が認められれば宇宙空間は絶対的であるし(つまり、どの星が止まっていて、どの星は動いているということがはっきりわかる)、認められなければ宇宙空間は相対的である。」p.118
・「光が粒子だというなら、ラジオ波やテレビ波のような電波も光子かと質問される読者もいるかもしれない。 「そう考えても差し支えない」というのが、もっとも正直な解答だろう。」p.124
・「電波を光子にたとえることはあまりないが、とにかく一般に電磁波とは光子が秒速三十万キロで走る状態だといっていい。」p.125
・「ここで、「場」とはなにかの問いに対する一つの解答がでた。「電磁場とは仮想光子の存在する空間である」。そこに何も置かなければ、われわれには何もわからない。しかしひとたび電気をもってくれば、たちどころに相互作用(力)が働く。仮想光子が本当の光子になる。」p.132
・「粒子でもあり波動でもある……という事実は、そこに「場」という考え方を持ち込むと、かなり理解しやすくなる。 多くの解説書は「場」を抜きにして、波動でもあり粒子でもある、よろしく心得よ、とやってしまうから読者の心の中に不満が残ってしまう。「場」という概念を十分に説明して、波動と粒子との同一性を語るのが親切であろう。」p.139
・「しいていえば、場とは空間のエネルギーである。」p.141
・「泡とはなにか。水中にあって、たまたまそこに水がない、という状態のことである。元来なら水があってしかるべき空間に、水がないのである。場が変化しているのである。ひらたくいえば、そこの部分だけ空間がふうがわりな状態になっているわけである。ミクロな世界での粒子とは、結局はこのように「場の変化」と考えるのが正しい。野球のボールとは本質的に違う。」p.147
・「物質の存在しない空間に場があって、その場が特殊な状態になっているものが素粒子である。」p.153
・「ディラックはさらに、長さに最小単位があるなら、時間にも最小単位があっていいと考えた。光が素粒子をよぎる瞬間、つまり10-23秒を最も短い時間としたのである。」p.182
・物理学で扱う「場」についてのあれこれ。
・読んではみても、後に残るものが少なくほとんど素通りしてしまいました。内容があちこちに散ってしまっていて、つかみ所がないという印象です。
・「「もの」の全く存在しない空間に、「力」という感覚(?)だけが、まるでおばけのように伝わっていくということは、考えてみればまことに奇妙な事柄であり、電気力などは承諾できないとする人の方が、あるいはノーマルなのかもしれない。」p.6
・「物理学では、空間に物質があるかないか、だけを問題にしているのではない。空間が場になっているかどうか、もし「場」ならばそこにはどんなからくりがあるかが大きな関心事なのである。物質だけを対象とする他の諸学問と違って、空間の性質(つまり「場」)を重要視するところに物理学の特徴があるといってもいいのではなかろうか。」p.7
・「なお「場」とは英語の field を翻訳したものであり、日本に電磁気学をとり入れたとき、工学者は電界、磁界と称したのに対して、理学者は電場、磁場と言った。(中略)第二次大戦後まで、日本では同じ内容ものに二通りの字を当てていたが、現在ではほぼ電界、磁界に統一されている。」p.44
・「本書の目的は、「場」についてとおり一遍の説明をするのではなく、指摘されるように「場」とはなにかを(説明ではなく)解明しようと試みるものである。」p.58
・「物理学の本来の姿は、いつ(t)、どこで(x、y、z)物理量(Tとかρとか)がどんな値になっているかを調べる学問だといいきっていも、決して見当はずれではない。」p.65
・「空間をへだてて、AとBだけが問題なのではなく、中間にある空間に注目し、空間自体が「従来とは違ったものになる」という思考法に変わっていくのである。」p.76
・「結局……エルステッドによって電流が磁場をつくることが提唱され、ファラデー自身が十年をおいて、互いに裏表の関係にある二つの法則(磁場と電流から力を得ること。いま一つは磁場と力から電流を得ること)を発見したといっていいだろう。」p.86
・「科学というものは学問、つまり自然を知ることである。ケプラー、ガリレオ、ニュートンのころは自然現象を整理し、法則化することだった。その後、少しずつ技術が進歩してきたが、最初に経験を基礎にして機械、器具類が発明され、その原理を説明するために科学が用いられた。ところがファラデーの出現によって、発明と発見の順序が逆転した。まず原理が解き明かされ、それにのっとって機械が製作されたのである。このような意味でも、科学史の中でのファラデーの果たした役割りは大きく評価されなければならない。」p.88
・「ということになると、磁力線とか電気力線とかはもはや便宜だけの架空の産物ではなく、立派な「存在」だといえる。たしかにこれらには「重さ」はない。しかし重さがないということが物理的な意味で「なにもない」理由にはならない。磁場や電場は、物理学の目を通して見た場合には、気体や液体と同じように、"科学の対象物" として認知してやらなければならいのである。」p.95
・「クーロン力は、光と同じ速さで空間を走るのである。」p.97
・「物質ではなくエネルギーだというところが、一般にはなじみにくい。だから「場」とはなにか、という疑問が出てくる。たしかに考えにくい対象には違いないが、簡潔に述べよというなら、電気や磁気に力をおよぼす特殊な空間、ということになろう。電気にも磁気にもあるいは質量にも、さらにはその他いかなるものに対しても何の作用もしない空間こそ、物理的意味での "本当の空間" である。このような真空こそ、物理学の(いや自然科学一般の)対象にはなり得ない。」p.98
・「電波というと、これまでの静電気や磁石と違っていささかむずかしい話のような気がするが、何のことはない。電場Eと磁場Hとが、いずれも電波の進行方向と直角の方向に揺れ動いて走っていく現象にすぎない」p.105
・「液体中の音速は毎秒千~二千メートル、固体中では二千メートル以上にもなる。」p.106
・「ファラデー自身は実験化としては他人のおよばない天稟の才を発揮したが――だから当時の人たちは「おそらくファラデーの目には、電気力線や磁力線が見えたのだろう」と語り合った――、二十歳になって初めて科学の勉強にとりくんだ彼は、数学には縁がとぼしかった。一説によると、彼は三角関数も知らなかったと伝えられている。」p.112
・「エーテルは最初光波の媒体物として考えられたものであるが、宇宙空間を論じるにおよんで、その存在の是非は大問題になってしまった。間接的な方法であるにせよ、エーテルの実在が認められれば宇宙空間は絶対的であるし(つまり、どの星が止まっていて、どの星は動いているということがはっきりわかる)、認められなければ宇宙空間は相対的である。」p.118
・「光が粒子だというなら、ラジオ波やテレビ波のような電波も光子かと質問される読者もいるかもしれない。 「そう考えても差し支えない」というのが、もっとも正直な解答だろう。」p.124
・「電波を光子にたとえることはあまりないが、とにかく一般に電磁波とは光子が秒速三十万キロで走る状態だといっていい。」p.125
・「ここで、「場」とはなにかの問いに対する一つの解答がでた。「電磁場とは仮想光子の存在する空間である」。そこに何も置かなければ、われわれには何もわからない。しかしひとたび電気をもってくれば、たちどころに相互作用(力)が働く。仮想光子が本当の光子になる。」p.132
・「粒子でもあり波動でもある……という事実は、そこに「場」という考え方を持ち込むと、かなり理解しやすくなる。 多くの解説書は「場」を抜きにして、波動でもあり粒子でもある、よろしく心得よ、とやってしまうから読者の心の中に不満が残ってしまう。「場」という概念を十分に説明して、波動と粒子との同一性を語るのが親切であろう。」p.139
・「しいていえば、場とは空間のエネルギーである。」p.141
・「泡とはなにか。水中にあって、たまたまそこに水がない、という状態のことである。元来なら水があってしかるべき空間に、水がないのである。場が変化しているのである。ひらたくいえば、そこの部分だけ空間がふうがわりな状態になっているわけである。ミクロな世界での粒子とは、結局はこのように「場の変化」と考えるのが正しい。野球のボールとは本質的に違う。」p.147
・「物質の存在しない空間に場があって、その場が特殊な状態になっているものが素粒子である。」p.153
・「ディラックはさらに、長さに最小単位があるなら、時間にも最小単位があっていいと考えた。光が素粒子をよぎる瞬間、つまり10-23秒を最も短い時間としたのである。」p.182
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます