人間、
だんだん開き直ることができるものですね。
不便の極みを何とか克服し、
普通に生活できるありがたみを実感してます。
20代の頃、二度ほど
病院で何ヶ月かの療養をしました。
その時は独身でしたし、若かった。
自分がいなくて迷惑をかけてるところは、仕事先だけで、
そんなに心の負担もなかったわけですが、
流石にへこたれました。
でも、見舞いに来てくれる友人たちが、
「病院に行けば必ずいるというのはすごい」
「いつもは捕まえられないからね」と笑ってたのを聞いて、
何だかわからないけど、そこにいることに意味があると感じたことがありました。
どんな状態でも、誰かの役に立ってるかも・・・とさらに思わされたのは、
隣のベッドにいらしたカトリックのシスターとの出会いで。
彼女は心臓弁膜症で入院、手術を受けられることになっていました。
日頃はたくさんの奉仕をしてこられていたことでしょう、
入院して他にすることがなくなったら、
「今度はしっかり祈ることに集中できる」と言われ、
麻酔がかかった手術中は「イエス様とお散歩をしてくる」と言われてたんです。
若いわたしは、それまで考えもしなかった言葉に目からウロコでした。
もちろん後日談があって、
彼女、手術の麻酔から目覚めて開口一番わたしに言ったことは、
「お散歩どころではなかった。すぐに目が覚めた」。
二人で大笑いしたのは懐かしい思い出です。
「どんな状態でもできることがある」
「何もできなくても、そこにいるということが大事」
これはわたし自身の入院中の体験から得た教訓かもしれません。
今の所、右手はダメでも左手が、
そして足は元気に動きます。
利き手の右手が動かないと、
できることが変わってくるということにも気づかされています。
大好きでやってきたこと、
例えばキルトにしても、水泳にしても、
絵手紙にしても、それらは全くできないし、
文字を書けないから手帳は全く機能せず。
右手でやって来たものはすべて休止。
他のものを動かさないといけなくて、
まずは手帳に結びつく予定や段取りは、
できるだけ頭で記憶しなければと思うと、
頭がそれなりにくるくる回る。
細かく段取りができなくなったら、
大雑把でもいいと思うしかない。
それでも日々は過ぎていく。
と、いうことですね。
今日も手帳ブログを書きながら、
「手帳がなくてもなんてことないさ〜」ってうそぶいてます。
いやいや、実はこれも一面真実かも。
こういう風に怪我をしたり病気をしたりして、
通常の生活を送れないのを嘆くわたしですが、
結局、
歳をとっていくというのは、
普通にしててもこういう日々が増えていくということですもんね。
現実を少しずつでも受け入れながら、
やれることを見つけ、
これまでできなかったことができたりもするのを楽しみに、
生きていくということなのだろうなと思っています。
あることができなければ、他のことができるわけで。
「手帳なんて、究極なくても大丈夫」
「手帳は、まんじゅう顔のお楽しみ・趣味」くらいに考えて、
今の手帳の空白も受け入れ、
晴れて右手が使えるようになったら、
新たな思いで手帳に向かうことを楽しみにしたいと思います。
ブログを書く励みになります。
いくら練習したからって、なかなかそんなに上手になれるものではないと思います。
あ、でもわたしもちょっとやってみるかな〜。
どうしても黒板やホワイトボードに文字を書かないといけないので〜。
シスターは、ちょうどわたしの母ぐらいの年齢でしたが、神戸の病院で出会いました。わたしが関東に来た頃に、ちょうど神戸の修道院から横浜の修道院へ異動になり、また交わりを持てるようになったんです。修道院まで遊びに行ったこともあります。たくさんのシスターに囲まれた時は、プロテスタントのわたしを相手にカトリックとプロテスタントの関係が話題となり、すごく面白い体験でした。
彼女は10年ほど前に天に召されました。
そうそう、白い部分も後から見たら、意味のある日々だったと思えると思います。
利き手ではない左手でも上手に字を書けるのです。
器用だなぁと思っていたら,
過去に右手を骨折したことがあって,
左で書く練習をしていたら書けるようになったって。
失って得るものってやっぱりあるんですね!
こんにちは。
入院したらお隣はシスター。なんだか三浦綾子の
小説みたい!シスターって憧れてました。
手帳の白い部分もまんじゅう顔さんの歩みの一部という事なんですね。