通読してみますと大正時代の千里山住宅地の開発当初の様子や、戦後成長期からの松が丘の戸立て住宅群開発や、モダンな千里山団地の新感覚の住環境、そして終着駅としての千里山駅の乗降客の混雑ぶりなど、大阪市の発展を支えたサラリーマン住宅地の詳しい描写がなされていました。初めは全く顧みられなかった新興住宅地が、ちょうど起こった関東大震災の影響でたくさんの人達が移り住んだことなども興味深いことでした。また住宅地としてはB級・C級という記述もあり、少し辛めの総合評価を頂いているようです。「千里山夫人」といった表現もあり、有閑マダム的な古き良き時代の香りも漂ってきます。
今となっては余り特別のことは僕には感じられなかったのですが、当時幾つかの街シリーズの一つとして特集記事に千里山が採り上げられた意味と、大宅壮一という稀代の社会評論家の現実生活に密着した視点の確かさとは、とてもリアルなものとして強く印象に残りました。
【追記】昭和32年1月27日号「週刊朝日」に掲載されました。
ご存知と思いますが、民博の梅棹忠夫さんが、随想に、名神高速道路沿った通りにある料亭「柏屋」をよく利用されたと書かれていました。
「柏屋」さん、名店が千里山に有るというのは嬉しいですし、とても気になっていますが、庶民の身には敷居が少し高いような‥‥(情けない)。でも、いろんな有名人にも愛されているようですネ。