『夢』
夢とは精神現象であって、現実あるいは実在ではない。
眼を閉じた妙齢の裸婦…誰かしら・・・恋人というよりは母なる者という印象である。
全てを晒した女体であるが淫靡な影はなく、ただありのままの美しい女体《聖母たり得る母なるもの》は、しかし、こちらを見ていない。深く目を閉じ隠すべきものは皆無(潔白)であるとし、岩に上に置いた手は、《岩(神)に誓って》と、静かに訴えているのではないか。しかし、やんわり岩(神)を否定しているようにも見える。積極的な否定ではないが明確な意思を持った肯定でもない。
背景は海、一方の作品は山河。
現世に背を向けているとも考えられる、つまり描かれた時空は冥府ではないか。異世界における影は暗い領域に留まらず、歪みのない立体感を伴った像として描かれている。
影が幻影として生きている。本来実体のない影が実体そのものとして複製されている。
即ち『夢』である。描かれた女人も眼を閉じているが、作家(マグリット)もまた眼を閉じ、母なる者を恋慕している。
夢の中の母なる者の幻影は生きている。その影もまた生きている、どこまでもどこまでも夢の中では生き続けている。幽霊に影はない、どこまでも凛とした薔薇を抱く女そのものである。
生前、決して口にすることはなかったという母への想い。
母性というより、一人の女性としての哀愁漂う姿は、決して消えることなく夢の領域に生き続けていたに違いない。
(写真は国立新美術館「マグリット」展・図録より)
「いや、すてきなもんですよ。一昨日の第二限ころなんか、なぜ燈台の灯を、規則意外に間〔一時空白〕させるかって、あっちからもこっちからも、電話で故障が来ましたが、なあに、こっちがやるんぢゃなくて、渡り鳥どもが、まっ黒にかたまって、あかしの前を通るのですから仕方ありませんや。
☆逸(かくれた)策(くわだて)は禍(不幸/災難)を代(いれかえる)辞(ことば)が現れる。
等(平等)の題(テーマ)に到る記である。
即ち、異なる我意を貫き伝えるように和(調子を合わせた)個(ひとつひとつ)の章(文章)の記は、詞(ことば)による法(神仏の教え)である。
ほんとうのことを言うと、あんたがお城でなしとげたことには失望はしないけれど、わたしがあんたをどこまで引きあげてあげることができたかという点になると、あんたにがっかりさせられてしまうわ。
☆ほんとうのことを言えば、死に至ることは失望しないけれど、わたしがあなたにそうできたかといえば、あなたはわたしを失望させたわ。