「いつまで生きるの?」
誰もが抱く最大の疑問である。疑問の中を疑問を忘れて生きていると言ってもいいかもしれない。
これから・・・「まだどのくらい生きるの?」神さまがいるのなら教えて欲しい。
明日も生きているかもしれない、生きているらしい、きっと。(だから、頑張らなくちゃネ)
小さな子供も大きな大人も、先の短いとされる高齢者も、みんな頑張っている。頑張らねばならない。(仕方ないね)
日々の重なり・・・劣化し、ひび割れ、埃もたまっていく。
ああ、マイナスのスパイラルに落ち込んでいくのを精一杯食い止める。自分を食い止める、力づくで自分を騙し無理にも明るく楽しいのだと言いきかせてみる。
これがわたしの日常だと思えば、少し淋しい。淋しくないように何とか策を講じなくては!
『本来の意味』
四つに区切られた領域、その一つに〔Corps de femme〕と書かれた文字がある。
×の形で区切られた他のエリアには、青(海or空/宇宙)、深緑(植物/食料・酸素)、煉瓦積み(人為/人智)が各描かれている。
×もしくは四角い縁取りは漆黒である。闇黒・無窮・・・否定、マイナス的要素が強く感じられる。
これらの条件が『本来の意味』であるという。
Corps de femme を見て、異国語のわたしには、女の身体だとは直観できない。文字らしきものの羅列でしかなく、意味を持たないものという認識である。
ブルーに少しの白が混じる画面からは、経験上、空もしくは海、空漠から中くらいは想起出来るかもしれないし、心理的には希望、なにかの予兆と捉えることが可能かもしれない。
深緑からは深林・深森のイメージがわき、心理的には陰鬱・冷静が当てはまるかもしれない。
煉瓦積み(模様)からは人の手、人類の進化などに思いを馳せることが出来るかもしれない。
全て、《かもしれない》という仮定である。決して本来などという同値には結びつかないのである。
パイプを描いて「これはパイプではない」と主張したことと逆説的な意味で同じことを言っている。
文字通りの意味ではなく、解釈はさまざま雑多な感想がある。文字を読めないわたしにとっては書かれた文字らしきものは何の意味も持たない。彩色やそれらしきものでさえ、認識の範囲は万人の人が万の感想を抱くほどに、広く不確定である。
『本来の意味』は、《在る、しかし、無い》という範疇のものである。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
黄いろのがだんだん向ふへまはって行って、青い小さいのがこっちへ進んで来、間もなく二つのはじは、重なり合って、きれいな緑いろの両面凸レンズのかたちをつくり、それもだんだん、まん中がふくらみ出して、たいとう青いのは、すっかりトパーズの正面に来ましたので、緑の中心と黄いろな明るい環とができました。
☆往(人が死ぬこと)の後の講(はなし)である。
衝(重要)は証(ありのままに述べ)審(正しいかどうかを明らかにする)記を兼ねている。
二つの帖(書き物)で、共に録(書き記している)。
霊(死者の魂)の綿(細く長く続く)訥(口が重い)を注(書き記すこと)を遂げている。
省(自己を振り返ってみる)章(文章)の綿(細く長く続く)記の録(書き記したもの)註(意味を解き明かす)真(まこと)である。
講(はなし)は妙(不思議)に換(入れ替えている)。
この土地じゃ、生まれたときから城にたいする恐怖の念が身にしみついていて、おまけに、一生のあいだ手を変え、品を変えして四方八方からそれを吹きこまれる。あんたたち自身だって、できるかぎりそれに手をかしているんです。
☆ここで生まれたあなたたちは裁判所(死)に畏敬の念を抱いている。生命を異なるように四方八歩から手を尽くしている。あなたたち自身もできるかぎりそのことの効果を期待しているんです。