『風景の魅惑』
しかし、ここには風景と呼ぶべき景色はなく、額縁に「PAYSAGE」(風景)という文字が書かれたプレートが貼ってあるのみである。
額縁は支えられることなく立っている構造には造られていない。しかし、立っているということは条理を逸している。その影は床に伸びているが、背景の暗緑色な空間は壁なのか空虚であるのか判別不能であり、影を確認することは出来ない配色である。
右端にはライフル(殺傷・破壊機能を持つもの)が壁に立て掛けられている。壁の色は暗い赤色、血をイメージさせる彩色である。
以上の条件をもって『風景の魅惑』と題している。
向こう(無窮の空虚、過去か未来か現在か、判明不能の時空)が透けて見える額縁。
暗示するかのように脇に置かれたライフル銃の恐怖・脅威。
額縁=絵画作品=オブジェクト、風景や人物が描かれているはずの要が空洞なのである。通常わたしたちの目的は額縁の中の作品(風景)を観ることであって、額縁は副次的なものである。
風景と表記のある額縁=風景を想像することは拍子抜けではあるけれど、そんなに難しいことではないので、今までに蓄積された風景の情報を思い浮かべることは容易であるかもしれない。
しかし、時を経ずしてそんな思いは消滅してしまう。ただ空虚、何もない光景への不安、傍らに置かれたライフル銃は過去の陰惨な歴史を語る。少なくとも恐怖の殺傷の引き金である。
愉快な明るさや笑い声は聞えない。
『風景の魅惑』とは、逆説的な『審判』という気がする。人類の裁判とさえ思えるのである。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「どうしてあすこから、いっぺんにこゝへ来たんですか。」ジョバンニが、なんだかたりまへのやうな、あたりまえでないゆな、をかしな気がして問ひました。
「どうしてって、来ようとしたから来たんです。ぜんたいあなた方はどちらからおいでですか。」
☆記すことは祈りである。
悶(もだえ苦しむ)鬼(死者)の祈りに報(むくいる)。
あの子は、それほど自分の立場が不安定だと感じているのです。そんなことを感じるなんて、ほんとうは情けないことなんですが、この不安感こそ、どんな説明にもまさって、あの子の置かれている立場をはっきりと照らしだしています。
☆それにもかかわらず、実際には悲しいまでに不確かな彼の立場であり、死の記述もまた鋭く解明されるのです。