風邪をひいてしまった。咳は出るし息苦しく何もする気がしない。
食事もさほど喉を通らず、後片付けもストレスである。
昨日は眼を開けていられないほどだったけど、今朝は若干回復の兆しがある。でも、明日の「歩こう会」は、どう考えても無理だし、金曜日のサークルも欠席ということに・・・。
今週の予定は丸々アウト、つくづく年をとったんだなぁと思う。(治らないかもしれない)という弱気が襲う。
何でもない健康な日がまぶしい。どうして風邪なんかひいてしまったんだろう。
小学生の頃はよく休んだ、少し風邪気味だと「休んでいい?」と母に聞く。
聞くまでもなく休むつもりのわたし・・・。意欲も無くだらしない生活、いまだに尾を引いているかもしれない。
今日は一日、ゆっくりと何もしないで過ごそう。外は曇天、冬の空・・・。
『自由の入口で』
自由の入口というものは外から入るのではなく、拘束された内側からの脱出にあるらしい。入口は内部に在り、自由は外部に開放されている。
自由を求める不自由とはいかなるものだろう。室内には八枚のパネルと暗緑色の天井、そして破壊兵器である爆弾装置。
左から凌辱の裸婦、白紙委任状の緑の森、年輪の板(時間)、呪いの空、言葉の羅列(命令・噂・伝説など)、閉塞の窓、情熱或いは激情、刻まれた(傷だらけの)霊魂…遥か未来の時空。
これらが室内を被っている。
人間のあらゆる感情の為せる社会の規制、存在そのものが罪である。
自由への突破口は見つからない。入口という規制に包囲された時空はあるかもしれないが、どれも深く人間の存在に結びついて隔離することが出来ない。生きて在ることそのものが、すでに不自由であり、性の解放一つを取っても自由であることは罪に相当する事項である。
自然の理そのものが、ある種の拘束である。
わたしたちは自由を夢想することは出来るが、自由な時空を現実のものにすることは適わない。
入口を認識することは可能であるが、出口の時空に生活の条件はない。夢見る虚空は自由ではなく、不自由な時空が複製されて待つばかりかもしれない。
つまり、自由の入口の認識は存在するが、解放された真の自由は空想の範疇を出ることはないのではないか。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
わたしぁ、べらぼうめ。そんな苦情は、おれのとこへ持って来たって仕方がねえや、ばさばさのマントを着て脚と口との途方もなく細い対象へやれって、斯う云ってやりましたがね、はっは。」
☆句(ことば)を整え、弐(二つ)の記を試みている。
法(仏の教え)を記し、悪の考えを外に放(追いやる)
済(救うこと)の題(テーマ)を照(あまねく光があたる=平等)の死で運(めぐらせている)。
あんたは、お城に行くことができるし、いつでも官房に出入りし、一日じゅうクラムと同じ部屋ですごし、公式に認められた使者であり、官服だって要求できるし、重要な書面も配達させてもらえる。あんたは、それだけの人間であり、それだけの信用を受けているのよ。
☆あなたはいつでも死ぬことが出来るし、永続的に秘書局に出入りし、一日じゅうクラム(氏族)と同じ空間ですごし周知の世に認められた小舟であり、公の信念を必要とし、重大な書き物に決着をつけることが出来る。あなたは死の存在だし、死を許されている。