玄関の設え、長いこと同じ・・・ずうっとこの先も?
ちょっと、変化が欲しい。下駄箱の上にレース状の敷物、細かな雑貨を排除してみた。
小さな仏さまは三十年も前に雑誌を見て粘土で拵えたもの・・・棄てるに忍びなかったので、やっぱり元の位置に置いて見た。
狭くて質素な玄関・・・でも、運気が向上するように、いつも掃除を心がけている大切な場所です。
『ことばの用法』
ベタで不定型な形の中に各、canon(大砲)・Corps de femme(女の身体)・arbre(木)という文字が書かれている。
背景は上半分は深緑(自然)、下半分は煉瓦(人為)を暗示している。
The Use of Speech/ことばの用法・・・。
言葉とは意思・感情・思考などを伝達するための手段であり、自然発生的に、必要に迫られて共通の記号である音声を表記すべく文字が形作られていったものである。
流通範囲、交易エリア内での使用に限定されたものが、その範囲を広げ国単位に統一され国際的に通用する言葉にまで論議されるようになったという経緯がある。
つまり言葉とは任意の領域においての認識であって、外のエリアでは通用しないものである。
しかし、言葉は日常生活において必要欠くべからざるものであり、言葉なしには生活に支障が出ることは必至。それほどに言葉とイメージは密接な関係にあり、言葉=イメージ=現実(物)であることは確信的である。
この合致は、生活を脅かすものではない。むしろ安心を得るための手段でもある。
けれど、マグリットは考える、言葉そのものの不確定性を。
言葉と認識における隙間…。たとえば、わたしなどは個人的にこの並べられた文字の意味を一つも知らない。何が書いてあるのかさっぱり・・・不定型な形に等しい感想である。
《意味の分からない文字=不定形の意味をなさない形》なのである。(用法に至るまでもなく使えない)
自然と人為の狭間、情報認識のための手段の集積、渾沌は限りなく続いていく。
明らかに分かっているものが、誰にでもわかるとは限らない。
『ことばの用法』は、《言葉→イメージ》への認識と認識不可の二重性を密告しているような気がする。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
銀河の、かたちもなく音もない水に囲まれて、ほんたうにその黒い測候所が、睡ってゐるやうに、しづかによこたはったのです。
☆吟ずる講(はなし)が隠れている。
根(中心・根本)を遂(やりとげる)と、告ぐ。
側(傍ら)の講(はなし)は、諸(もろもろ)推しはかること。
ただ、こういう場合、村の界隈から出たこともないバルナバスのような未熟な若者をいきなり城へ送りこんで、真実ありのままの報告を求め、彼の語る言葉のひとつひとつを神の啓示のようにいろいろと詮索したり、その解釈によって自分の生涯の幸、不幸を決めたりするようなことはしてはならない。
☆バルナバス(生死の転換点)のような、来世(死界)の周辺を出たこともない新しいものが、突然終結(死)へと送り込まれて、真実を忠実に報告するように要求されたり、先祖の表明を調べたり説明することで、生涯の幸、不幸を決めてはならない。