『旅人』
静かな海の上に浮いている球体、ライオン・トルソ・椅子・樽・金管楽器・緑の葉(植物)・ミシン・麻袋…のようなものが球体状にまとめられ張り付いている。
これを『旅人』と称している。
宙に浮いている、存在感の希薄な浮遊。どこへ向かっているのか、目的が見えない旅の途中。
ライオンは王の象徴、遠い眼差しのライオンは孤独であり、トルソ(女体・飽くなき性欲というより乾いた欲望)が、その背にのしかかっている。その上には大きな椅子、緑(自然)の上に置かれた椅子は地位・名誉の象徴であるが、漠とした態である。椅子の脚は立地点が不明であり、手前の脚などは鏡を抑えているのか、滑り落ちる兆候なのかも定かでない。
鏡に映るものはない、つまり虚空である。
樽と袋の包みは生きる糧、食料や財貨の暗示だと思う。ミシンは衣服など・・・(衣食足りて礼節を知る)という訓があるが、基本である。
ラッパ(金管楽器)は主張、けれど虚空に鳴り響くばかり(かもしれない)・・・。
球体に隠れた面には何かもっと別なものがあるに違いないけれど、これらを包み込んだ一つの球体(世界)を所有するわたくし(マグリット)は浮世を離れた孤独な放浪者であります。
人は誰でも王たり得る自分の主であり、煩悩と生きる糧からは離れがたくありますが、虚しい地位には執着するものではありません。
鏡の中の虚空間に描いた思いの丈はやはり、虚空に帰すものかもしれません。
緑(植物の活性/自然)にもまして、黒々としたわたしの疑念の数々は容易に解けるものでもなく、わたくし(マグリット)は、宙を浮遊し探求しつづける旅人であります。(という声明を感じる)
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
京急YRP野比駅から三崎行に乗車すると、メンバーの顔が。(久しぶり)
でも何やら興奮気味に話している。よく聞いていると、杉田あたりで人身事故があり電車が遅れているということらしかった。
「わたしもやっとこの電車に乗ったけど、駅構内は人で溢れ返っていたわ」という。
そんなことから飯盛仲田公園では十五分延長しての出発になった。初声町下宮田から初声中学の方に向かい、みかん園から小松ケ池へ。河津桜(緋寒桜)は満開をやや過ぎていたけれど、それでもすれ違う人でいっぱい。
桜並木に並行して赤い電車(京急電車)が通るとみんなカメラを構えた・・・のに、カメラを忘れたわたし、ただボォーッと眺めていただけ(ちょっとがっかり)。
一面の桜(緋寒桜)の美しいこと!
桜や菜の花を堪能できただけでも幸福。
5キロの行程、「ゆったり悠遊ウオーク」の皆様、ありがとうございました。
家に閉じこもってばかりのわたし、歩行困難の未来を恐れての参加。《歩かなくちゃ、歩かねば!》の一心。
窓の外の、まるで花火でいっぱいのやうな、天の川のまん中に、黒い大きな建物が四棟ばかり立って、その一つの平屋根の上に、眼もさめるやうな、青宝玉と黄玉の大きな二つのすきとほった球が、輪になってしづかにくるくるとまはってゐました。
☆双(二つ)の我意は化(形、性質を変えて別のものになる)の果(結末)であり、千(たくさん)の註(意味を書き記す)があると告げる。
代(他のものに変る)を兼ね、仏の詞(ことば)になる等(平等)が律(決まり)として逸(かくれている)。
蔽(見えないようにする)臆(胸の内)が混ざっている。
照(あまねく光があたる=平等)の願いである章(文章)は法(仏の教え)による霊(たましい)の講(はなし)である。
霊(死者の魂)の態(ありさま)を示(教え)究める倫(人の行うべき道である。
バルナバスは、こういう仕事をするにはまだ若すぎるんです。彼が話すことは、なにひとつとしてそのまま本気にとるわけにはいかない。彼は城へ行くと、心配や恐怖のためにおどおどしているものだから、とても観察などできやしない。だのに、こちらへ帰ってくると、やいいと報告を催促されるので、しどろもどろの絵空事になってしまう。これは、当然のことだとおもいますよ。
☆バルナバス(生死の転換点)は未だ新しいんです。彼が物語ることは重大に考えるわけにはいきません。彼は来世では恐怖のために衰弱しているので、とても観察などできず、にもかかわらず、報告を強要されるので、混乱し、作り話をしてしまうのです。わたしはそれについて不思議だとは思いません。