『世紀の伝説』
世紀とはキリスト生誕の年から百年ごとに区切った年代区画のことである。わたし達が生きた時代と捉えてもいいかもしれない。
長い時間の経過の後…遥かずっと未来の時空においての感想である。
全体のブルーの彩色は、清明な空漠であり、人影は見えない。
小さな椅子によって巨大さを明らかにした椅子の存在が小さく見える岩石を圧して聳え立っており、仰ぎ見る巨大さである。
巨大な岩石を人為をもって椅子という《地位/存在》に置き換えている。
主なる神はとこしえの岩だからである(『イザヤ書』より)
巨大な椅子の足元にある直方体の物は聖書かもしれない。
いつの日か、遠い未来(人類も絶滅し新人類が現れているかもしれない未来)には世紀《キリストの生誕》という年号の数え方も《伝説》となるのではないか。
世界を世紀を席巻した偉大なるキリスト教も伝説として語られる未来が来るに違いない。
大いなるものへの敬意と、宇宙の時空の壮大さを比した感想である。
(写真は国立新美術館「マグリット」展・図録より)
するとあの鳥捕りは、すっかり注文通りだといふやうにほくほくして、両足をかっきり六十度に開いて立って、鷺のちぢめて降りてくる黒い脚を両手で片っ端から押へて、布の袋の中に入れるのでした。
☆調べて捕(つかまえ)誅(罪を責め咎める)。
部(区分けした)二つを領(おさめる)則(きまり)がある。
録(文字に書き記し)統(一つにまとめる)図りごとである。
解(バラバラにする)律(きまり)が露(あらわれる)講(はなし)を記していると告ぐ。
客(あの世への旅人)の霊である衆(人々)の変(珍しい)譚(物語)である。
往(そののち)の歩みの態(ありさま)を注(書き記す)のは新しい。
それに、お城のほうだって、事情は似たり寄ったりにちがいありません。だれかがある役人をさして、あれがクラムだと、バルナバスに教えてくれたのです。事実、ふたりのあいだには似たところがあるのです。
☆死に異なるところがあるでしょうか。だれかがある役人をクラム(氏族)だとバルナバス(生死の転換点)に話したのです。事実、双方の間に先祖としての類似はありました。