気づけば、今日は誕生日である。
69才・・・泣き声も上げず仮死状態で生まれたわたしの誕生日。節分の日に生まれそうだというので、ただそれだけの理由でつけられた節子という名前。
「まったく、お前はみんなの前では目立たない子だねぇ」と、授業参観帰りの母を嘆かせた子供。
成長するにつれて、更に精彩を欠いていった淋しい人生。
器量も悪く鈍くさい目立たない子供・・・心の中から湧き立つような自信というものを持てないまま年老い枯れていく今、何をどうしたら、自分という人間の総決算をプラスに転化することが出来るだろうかと、考える。
人として胸を張り、《生きた!》といえる輝きは、すでに手の届かない向こうに在るものなのだろうか。
無職無為徒労の昨今、何をしても手遅れだという気もしなくはない。
平々凡々の域、屋根のある雨風凌げる部屋の中で、空腹を満たす食事まで摂ることが出来る。
十分幸福ではないかと、自分の中の卑屈さを振り払ってみる。
足下の野草のようなわたし。名もない草も、20倍のレンズで拡大するとそれなりに美しく感動することがある。
人生を拡大鏡で見直して意外な楽しさを、論外な幸福を探し当てたい。
69才・・・『よーい、ドン!』 ゴールはまだ見えません。
『田園』
田舎の風景ということだろうか。
横に遮る幾多の太い線は、地層を暗示しているのかもしれない。とすると、この絵は幾世代どころか万年億年の変遷を孕ませている。
現代から過去の時空、現代から想像を絶するような未来…地勢の激しい転換は想像に難くない。あり得るかもしれない地球の変遷は、現代の否定であり、未来にも等しく同じ変遷を繰り返すかもしれないという現代を肯定したものでもある。
この絵を逆さにすると、空だと思っていたものは大地になり、樹木の枝だと思っていたものは樹木の根に置換される。
二つの景色を同時に収めている。
循環、回帰の現象であり、時空の凝縮でもある。
『田園』は楽しかるべき生活スタイルの景観ではなく、地球の時空の側面を客観視した作品である。この中に人間の歴史は見えない。瞬きするほどに短い火花のような現象として『田園』の中に秘密めく隠されてしまったのかもしれない。
マグリットのつぶやくような見解である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「天の川の水あかりに、とおkもつるして置くかね、さうでなけぁ、砂に三四日うづめなけぁいけないんだ。さいすると、水銀がみんな蒸発して、喰べられるやうになるよ。」
☆転(物事が移りかわり)旋(廻るように)遂(物事をやりとげる)投(当てはめて)化(形、性質を変えて別のものになる)を到(まねく)。
赦(罪や過ちを許す)太陽への思いをか(形、性質を変えて別のものになる)で推しはかる。
吟(声を出して言う)常、初めての職(仕事)である。
いったい、あの子がどれだけのことをやりとげたでしょうか。あの子は、ある官房に出入りすることを許されています。しかし、そこは、官房ではなくて、むしろ官房の控え室らしいんです。あるいは、ひかえしつですらないのかもしれません。もしかしたらほんとうの官房に出入りを許されていない人たちを引きとめておくための部屋にすぎないのかもしれません。
☆彼はどれだけのことをやり遂げたでしょうか。先祖の秘書局へ入ることを許されています。しかし、先祖の汚点、先祖の秘書局ではないように見えます。むしろ先祖の秘書局の手前のようなのです。あるいは、ひょっとしたら、先祖の汚点ではなく、先祖のテーマ(問題)かもしれません。先祖のテーマ(問題)はいかに死を差し止められているか、本当の秘書局(死)に入ることを許されていないことです。