人の顔には相がある。幼い子供の無邪気な顔から長い年月を経た老いた顔までそれぞれの相がある。
70歳近くにもなると、一目見ただけでくっきり浮かび上がるものがあり、その人の人となりが知れることがある。
逆に見られているわけでもあるけれど、慎ましやかに目を逸らすことも多い。
真であり善であり美であることは理想であるけれど、そうはいかない世の荒波。辛い洗礼を受けることもあるし、ままならない苦境に耐える人生もある。
それでも確たる信念を貫き通した顔には、真の輝きが宿り、そこはかとない優しさが垣間見える。
ああ、そうだ。不器量なわたし、そういう人を見て襟を正すことがある。
功もなさず徳もないけれど、せめて悪心を持たず、他人の成功に拍手を送る人でありたい。
美貌とは縁がなかったけれど、せめて醜悪な相を刻まないように心して生きていきたい。
すべてのことは「天知る、地知る、我が知る」ことを念頭に、恥ずかしくない相を望んでいる。
『出現』
何が出現したのだろうか。
出現とは無かったものが現れることである。
暗緑色の暗澹、空気か水かの相も特定できない闇に、赤・緑・白の三色の菱形模様で模られた漆黒の穴(欠損)、他方のそれは、暗緑色の相と漆黒が交じっている。暗緑色から生じた漆黒とも、漆黒が暗緑色の暗澹の相を押し出しているともいえる関係である。
どちらの相も特定できる手掛かりがない。つまり描かれてはいるが、描いている対象の相が見えない。
しかし、三色の菱形記号のようなものに囲まれたゼロの形、もしくはゼロとゼロが破れたような形の主張が明確にある。
ゼロの概念は英知の発見であり、いわば出現である。
この世に存在しなかったものが人知によって出現したという大いなる一歩である。
宇宙におけるあらゆる出現には物理的根拠が存在するが、出現の根拠を持たない唯一の出現、それが《ゼロ》の出現である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
けれどもなぜかまた額に深く皺を刻んで、それに大へんつかれてゐるらしく、無理に笑ひながら男の子をジョバンニのとなりに座らせました。
☆愕(おどろくような)真(ほんとう)の終(死)を哭(泣き悲しむこと)が題(テーマ)である。
無(存在しない)里(人の住むところ)の象(かたち)を談(はなし)として、詞(ことば)に座(すえている)。
あなたも、きっとこういう事件に引きずりこまれておしまいになるでしょうー無邪気に、ほとんどバルナバスとおなじくらい無邪気にね」
「早く話してください。ぼくは、こわくなんかありませんから。女心というものかもしれないが、そんなにびきびきしていたら、事態を実際以上に悪くしてしまいますよ」
☆あなたも、わたしたちの事件に引き込まれてしまうでしょう。バルナバス(生死の転換点)にはまるで責任も罪もありません。
「早く話してください」と、Kは言った。「わたしには恐怖はありませんから、女々しさが事態をひどくしてしまうんです」