一年に一度開催するグループ展。
(ああ、もうこの時期になってしまったのか)と、呆然とすると共に、(再びあの人たちに逢える!)という喜びが交差する。
合同展だから、この会期の間だけの逢瀬ながら、お互いそれなりに頑張った成果を確認し、大いに会話も弾み、笑い声も炸裂。
しょぼい絵しか描いていないので、友人たちには内緒の企画。自分は隠して、人の活躍は大いに期待して目を皿のようにしている、いわば嫌な奴なわたし。
来年こそは、来年こそは!で今年も巡り来てしまった。
それでも、メンバーにお会いすると、《よし、来年こそは頑張るぞ!!》というやる気が風船のごとく(小さい?)膨らむ。
来年こそは頑張るゾ・・・今年の抱負であります。
『博学な樹』
白いポールから枝葉が伸び茂っている。木化したカーテン、変形し覗き穴の開いたドアらしきもの、二つの眼がランダムに付着したベージュの箱(衝立)、ピンクの地平、空を思わせる淡いブルー・・・これらが『博学な樹』の条件である。
これらは少なくとも現世を否定するものであり、予想不可の来世の想像図である。
命を絶たれたはずのポール(ピルボケ)から樹が生える不条理、即ち復活である。
ピンクの地平はわずかに球体を暗示している、即ち、来世での温和な新天地である。
カーテンから、ドアの覗き穴から、衝立(壁)から・・・あらゆるものを押しのけて現世を覗き見、観察しているに違いない来世(冥府)の魂。
重ねた時空に収集された情報の数多、現世へは決して戻ることのできない死者の宿命。しかし、彼は知っているに違いない。
垣間見た真実、しかし、彼は語ることはない。
この時空の亀裂は未来永劫埋まることはないかもしれないが、確かに現世を見守る『博学な樹』は生育を続けてる。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
けれどもどうして見てゐるとそれができないのでした。子どもらばかりでボートの中へはなしてやってお母さんが狂気のやうにキスを送り、お父さんがかなしいのをじっとこらへてまっすぐに立ってゐるなどとてももう腸もちぎれるやうでした。
☆現れる詞(ことば)の注(意味を明らかにする)簿(ノート)は、教(仏のおしえ)が基(基本)である。
総て普く律(基準/きまり)は、重ねている。
Kは、このときはじめて、アマーリアはすでに部屋にもどってきていることの気がついた。しかし、ずっと離れた両親のいるテーブルのそばにいて、リューマチで手を動かせない母親に食事を食べさせてやりながら、父親にむかっては、もうしばらく食事を我慢してください、すぐに食べさせてあげますからね、と言っている。が、いくら言ってきかせても、なんの役にもたたなかった。
☆Kはすでにアマーリアを再び死界で目にしていた。ずっと離れたいけにえの台、来世の母は律動的で感動することのない哀れな人の未来だった。父もまた同じだった。先祖はそれを、わずかに許したが、警告は、小舟という結果をもたらした。